「季康子、孔子に政を問う。孔子対えて曰わく、政は正なり。子帥(ひき)ゆるに正を以てせば、孰(た)れか敢えて正しからざらん。」(論語・顔淵篇一八)
伊藤仁斎は『論語古義』でこう解した。
「季康子が孔子に政治について問うた。孔子は答えていわれた。政とは正です。正しくあることです。もしあなた自身が統治の場に正しくあるならば、だれが不正を犯すことがありましょう。」
仁斎はこう解する理由を次のようにのべている。
「君は本であり、民は末である。表が正しければ、影もまた真っ直ぐであり、源が清ければ、流れもまた澄んでいる。それゆえ孔子は、「その身正しければ、令せずして行わる。その身正しからざれば、令すと雖も従わず」(子路六)といわれるのである。・・・およそ聖賢が政治を論じるときには、みな本に立ち返ってするのである。」
私は『論語』のこの章と仁斎の理解をめぐって次のように評釈した。
「政は正なり」という政の字義解釈について考えておこう。説文には「政は正なり。攴に従い、正に従う」とある。攵は攴であり、木でむちうつことをいう撲の原字である。また正とは征服することである。したがって「政」とは撲撃して征服するということが原義であったとされる。やがて「正」が正す、正しく整える意をもつにいたっても、「政」とは上からむちをもって民を正しく整斉し、矯正する意をもち続けただろうと思われる。その場合、「政は正なり」とは「政とは民を正しくするなり」を意味することになる。おそらく孔子のころまであった「政」字とは「上から民を正す」意義をもったものとしてあったのだろう。だが孔子はこの「政」字のもともとの意義を転倒させてしまう。上が正しくなければ、下は正しくはならない。君が正しく君でなければ、民も正しく民ではない。これは正名論といわれる。君は君としての名の通り正しく統治者の位置にあるべきである。これが政治の第一の要諦だというのである。この論はまた道徳主義的な政治論である。だがこの道徳主義は既存の政治観をひっくり返すようなラジカリズムをもっている。仁斎はこの孔子の道徳主義的政治論のラジカリズムを継承している。(子安『仁斎論語』下、ぺりかん社)
われわれは今こそ仁斎が見出した孔子の「政は正なり」の本義を現在の虚偽にまみれた為政者に向けて突きつけるべきである。
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2018.04.10より許可を得て転載
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