(以下の拙論は、2025年11月22日ちきゅう座に掲載の「政党の内部統治と政党法 ――日本共産党、松竹伸幸氏除名問題の本質」に続く論攷である。)
本ネット論壇「ちきゅう座」でも、日本共産党の在り方をめぐる議論が、断続的に続いている。しかし先の総選挙地滑り的大敗で露わになったように、凋落はひとり共産党に限らず、左翼リベラル全体に及んでいる。いや、議会制民主主義と政党政治の危機という観点からは、真の勝者は不在で、すべての政党政派の在り方に関わるものとして捉えるべきではなかろうか。本論攷では、とりあえず共産党論を主題とするも、しかしそれだけでは視野狭窄に陥りかねず、日本の政党全体を視野に入れた議論が必要であろう。その意味では、我が国においても政党政治の劣化、機能不全に対処すべく、政党法の制定も視野に議論を進めるべき時に来ているのではないか。近時の選挙ごとの民意の振幅の大きさの根底には、政治不信という魔物が潜んでおり、これに不況や失業による社会不安が重なれば、「成り上がり者」政治家――ヒットラー!――が登場するやもしれない。政治不信を取り除く事業は、一党一派でなしうるようなものではない。すでに政党法の制定については、財界(経済同友会)も声をあげ始めているだけでなく、自民党と日本維新の会の連立政権合意書にも盛り込まれている。彼らには邪悪な意図があると警戒するむきもあるかもしれないが、しかし議論を始めるべき時に来ているのはまちがいないであろう。
そこで、政党に関する法制化が一番進んでいると言われるドイツを参照基準に、日本共産党について議論してみたい。まず、ドイツでは憲法(ボン基本法)で「政党とは何か」を、以下のように規定している。
自由な結社たる政党の役割は、政党が国民の意思(要求)を集約し、選挙を通じてこれを議会に送致し、国家政策として実現すること、換言すれば、市民社会と国家(政府)とを橋渡しして、※国民の政治意思の形成(とその実現)に寄与することである。ルソー流にいえば、政党は一般意志の形成と実現という任務を負っているということである。市民社会と国家とを媒介する政党は、したがって市民社会に根差す限りにおいて私法人的性格をもち、また国家機関の一部として機能する限りにおいて公法人的性格を有することになる。
さらに、条文は政党の内部秩序が民主主義的であることを厳命している。具体的には、
① 選挙への参加が政党の任務であること政党の公選職候補者を提案する機会が党員に開かれていること
②選挙により選ばれる党役職に任期を設けること
③多数決原理と少数者保護原則を採用すること
④党の組織と権限が、各党員の参加を可能とするように階層化されていること
⑤は、党の組織構成原理についての規定であるが、さらに具体的に言えば、①政党が地域支部から構成されること、②連邦組織(党中央―N)と各地域支部が、党員総会(代議員大会)と理事会(執行機関―N)を設置すること、さらに連邦組織と最上級地域支部が、仲裁裁判所を必ず設置すること、としている。仲裁裁判所とは、除名など規約の解釈や適用に関わる党員と党機関の間の紛争、あるいは党員間の紛争について、調停し、裁定する党内機関である。しかも重要なのは、この機関の独立性、裁定の客観性を保障するため、その構成員は、政党の役職者は除き、最高4年の任期で選挙するとされている。※
※判例時報649号「90 年連合 / 緑の党の「底辺民主主義的」組織と近年の改革動向 (短報)」
●日本共産党に関して言えば、③の任期の規定はない。したがって、党勢の著しい退潮が続いても、志位現議長は33年間党首であり続けている。専制国家であったソ連や現中国における終身制に近い。しかも当事者である志位氏本人が、路線が正しいのであるから、退位する必要はないと公の席で強弁するにいたっては、病膏肓に入るというべきであろう。路線が正しいかどうかを決めるのは、マルクス主義に従えば、実践、つまり中長期的にみての日本の国内政治の動向全体であり、志位議長や最高幹部たち一部の判断ではない。トップのこうした態度を許すのには、一般党員の受動的精神態度にも責任がある。しかし、党首や党中央の方針に納得できないものがあっても、もの言えば唇寒しの雰囲気が蔓延していれば、面従腹背で応ずるというのも党内処世術であろう。ただしその場合、党中央がいくら党勢拡大を怒号しても、大半の党員は冷めて動かないということになる。
●ドイツの「政党法」には規定はないが、緑の党、社会民主党、左翼党などは女性の比率を高めるため「クォータ制」をとっていて、役員や候補者名簿の女性比率を50%(!)またはそれに近い数値に定めている。日本共産党は、各種選挙の女性候補者数は他党に比べ比率は高いであろうが、「クォータ制」を採ることは到底無理筋であろう。社会進歩を掲げる政党といえども、一般社会のジェンダー差別の水準から自由ではないということか。
●⑤については、共産党の正式見解は、ほとんどの場合除名者などの言い分とは大きく食い違っている。最近では、除名処分を不当であるとして、その撤回を求めて提訴した松竹伸幸氏の裁判の行方が注目されている。ドイツの政党法は、どんな政党であろうとも避けがたい党内紛争に対して、上級組織内に仲裁裁判所(Schiedsgericht)を設置することを義務付けている。これはすばらしいアイデアであると思う。政党規約、方針、規律、除名問題、党内選挙の有効性などについて、党員が党の決定に不服がある場合、党内で提訴し解決を求める制度である。それは、党員の権利を保護するとともに、それを極力党内で自律的に処理し、紛争が破局に至らず和解できるよう配慮したシステムではなかろうか。
日本共産党においては、党の路線、綱領、規約などの解釈権は党中央が独占しているのが実情であろう。その有様については、筆者の知る限りでは、1979年から翌年に行われた「田口―不破論争」での、「民主集中制」原則をめぐっての不破氏の強烈な異端審問官ぶりとして記憶にある。※
※その論争の田口氏側からみた全容は、インターネット「田口―不破論争と雑誌『現代思想』」https://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/kojimatagu.htmで知ることができる。
ともかく、この制度を生かすには、それなりの時間と熟練が必要だとは思うが、ダイレクトに公権力が介入して解決を強制することとちがって、治安維持法で痛めつけられた記憶が刷り込まれている共産党のような組織でも、自主性自律性が担保されており、受け入れ可能ではなかろうか。
●民主集中制に関連して。
日本共産党の組織原則である民主集中制が、袋叩きにあっている印象をもつが、しかし議論にはいくらか偏りを感じる。というのは、共産党はこの原則を近代政党の証だとして大いに主張していたからであり、一昔前は、むしろ民主集中制を日本共産党の組織政党としての立脚点として評価する政治学者も少なくなかった気がする。日本のほとんどの政党は、組織政党ではなく議員政党(あるいは議員集団)か準名望家政党である。日本社会党や民社党は、職場や居住に党支部を有する位階制の組織ではなかった。各級議員は、党という名の議員会派を成して議会活動に専念し、それを官公労や大企業の労組が丸抱えで動員、資金、選挙面でバックアップするという構造であった。労組丸抱えであるため、社会党を支持していなくても社会党へのカンパや投票を強制された。これは個人の自由意志を蹂躙するもので、労組と政党の退廃の一因であった。自由民主党は、旧い名望政治家体質の政党であった。都市部では業界団体や大企業、宗教団体から資金や票で支えられ、地域においては個人後援会を立ち上げて町内会や商店会、老人会などの草の根票を取り込んできた。しかし大衆社会化と個人のアトム化にともなう地域コミュニティの縮減により、新しい都市型の組織政党への変化を迫られている。
ドイツの諸政党は、政党法で規定しているように垂直的な位階構造によっている。この限りでは日本共産党と同様である。しかし異なるのは、領邦国家という過去の歴史につながる連邦制国家であるがゆえに、中央組織と地方組織(州)との関係が対等に近く、自然と分権的でフラットな関係になっていることである。
――中央と地方ではなく、連邦政府と州政府という言い方。政党のヒエラルヒーにあっても、地方組織が大きな自己決定権を有しており、州政府に連立で参加するか否かも独自で決定できる。党中央の政策決定にも強い影響力を行使する。その意味で、機構面での垂直構造に対して機能面での水平構造によってバランスがとれていて、下から上へのフィードバック機能が働き、それだけ組織の官僚主義的硬直化の危険性を免れているといえる。緑の党は、党首は二人(男女)、短い任期制をとって、できるだけ権力の固定化を避けようとしている。
対する日本共産党は、党機構の官僚制化と高齢化により硬直化が進行し、ますます空虚なトップダウンが横行している感がある。民主集中制の形骸化といえる事態で、人材の枯渇もひどいのではないか。知的な不寛容さが、若い知的に優れた人材を排除することになり、何十年かたってそのツケがまわってきたのではないか。丸山眞男から「理論信仰」と揶揄されように、日本の左翼は理論偏重甚だしく、日本のマルクス学は世界トップレベルとされたが、その影響力は大学や知的なサークルに限られていた。しかしその限られた理論能力すら、とめどなく劣化する事態には驚きを禁じ得ない――長い海外生活から帰ってきての印象。
かつて外交部門で活躍した最高幹部(常任幹部会委員)に聴涛弘という人がいた。帰国してなにかを検索しているときに、共産党系ではない集まりに氏の名前を発見して、おやっと思った。今回、松竹氏の説明で納得がいった。聴涛氏は正規の教義からはずれているということで、党中央から著述活動に制限が加えられていたというのである。聞き捨てならないのは、氏が偏向的な著述活動を続けるなら、党独自の最高幹部用の年金支給を止めるという脅しにあったということである。聴涛氏については、斉藤幸平氏らの問題提起に応えて、氏はマルクスの生産力概念の再検討を精力的に進めていたというくらいの知識しか筆者にはない。しかし志位執行部は、神聖なる唯物史観の生産力概念に異を唱えることは許さないというのであろう、まさにカトリックの異端審問に等しいその態度には、いやらしさ、下劣さを感じる。志位院政と評していい現在の執行部体制は、すべてではないにせよ、コミンテルン的な先祖がえりをしているのではないかと危惧される。
現在、松竹氏らから直接民主主義的要素を取り入れて、党首を公選制にするというアイデアが提案されている。公選制の議論をテコに、党改革に本格的に踏み込んでいくということなのであろうが、しかしゴルバチョフ改革がソ連共産党の瓦解に終わったように、権威主義的体質の組織は下手をすると総崩れになる怖れがある。ドイツ「緑の党」のように、最初から「直接参加・開放・分権」を本旨とする規約となっている場合と違って、組織性が柔軟性に欠けるので、そのあたりの怖さがある。それくらいなら、新しい党を立ち上げる努力をした方が生産的ではないかとも思うが、どうであろう。
おそらく共産党関係者の影響力がどういうふうか働いているのであろう、日本共産党の組織形態と活動についてのAIによる検索回答を紹介する。
「職場や居住地(地域)に基礎組織(支部・班)を設けている代表的な組織政党は日本共産党です。職場支部は労働者の要求実現を、地域支部は住民密着型の活動を行い、党員を主人公とする組織運営が特徴です」とか、「日本共産党: 職場、地域(居住地)、学園に支部を配置。特に職場支部は労働者の要求に寄り添う活動を展開している」 とか、「地域ごとの支部活動を通じて草の根の活動を重視する政党はあるものの、職場・地域を網羅した組織構造を持つのは共産党が典型です」とある。
――形式的にはその通りかもしれないが、しかし本当にそのような活動をしているのであれば、今日のような体たらくにはなっていないであろう。民衆の生活と意識から浮いているからこそ、ここ十年ほどで何百万という票を失っているのである。私考える人・あなた命令を実行する人という権威主義と党内愚民政治、進取の気風の喪失と官僚主義、下部のあきらめや事なかれ主義等々、いくらでも思いつく。宮本・不破体制のよき遺産――コミンテルン型の前衛党から、先進資本主義型の大衆政党への転換――を食いつぶし、教義にしがみつく世界観党としての悪しき面だけが目に付いてくる。
自民党などは党外の専門のプランナーに委託して、かれらが選挙戦略・戦術立案やデジタルマーケティング、ネット動画作成、SNS運営のコンサルティングを行なっている。共産党も含め、他の政党も党外に依頼するかどうかは別にして、同じような運動形態をとらざるを得ないだろう。しかし変革の党の正道は、かつて先人たちが行なった地を這うようなひとの組織化、要求の運動化であろう。これは保守や中道にはまねできないものだ。これだけ苦しんでいる人、悩んでいる、困っている人がいるのに、見て見ぬふりはできない。ドイツの左翼党の再生、ニューヨーク市長選でのマブダニ勝利も、一人一人の面接から始まって、もたらされた勝利だという。やるべきことをやってダメだったのではない。やるべきことを やらないためにもたらされた敗北だった。言い方は変かもしれないが、そこに希望がある。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion14718:260310〕









