「新聞は政府に乗り越えられてしまったな」。4月1日付の新聞各紙を見ての感想だ。各紙が、菅首相が前日に記者会見し、原子力発電所の新増設を盛り込んだ政府のエネルギー基本計画の見直しを検討する意向を表明したと伝えていたからである。
新聞6紙(朝日、毎日、読売、産経、日経、東京)の社説・主張は、3月11日の東北地方太平洋沖地震によって福島第一原子力発電所で事故が発生して以来、連日のように原発事故について論陣を張ってきたが、そのいずれもが事故を早急に収束するための緊急対策を論じたもので、原発推進を柱とした政府のエネルギー政策の見直しを求めたものはなかった。
そこで、私は3月26日付の本ブログに「今こそ『脱原発』の提起を 福島原発事故でジャーナリズムに問われていること」と題する一文を載せ、「(ジャーナリズムとしては)重大な事故であればあるほど、適切な緊急対策を素早く提示することが必要だが、同時にもっと根本的な“療法”すなわち本質的な解決策を提案することが求められるのではないか」「ジャーナリズムには、事故への緊急対策にとどまらず、日本のエネルギー政策の今後のあり方についての本格的な論議を提起してもらいたいと切に思う。今こそ『脱原発』に向けての論議を巻き起こしてほしい」と書いた。
しかし、その後も6紙の社説・主張の論調は、進行中の原発事故に対する対症療法的なものが大半だった。
この間、注目すべき発言があった。自民党の谷垣総裁が3月17日、記者会見で「原子力政策を推進していくことはなかなか難しい状況になっていることは事実だ」と述べたことだ。自民党こそ、これまで原発推進政策を積極的に進め、日本を原発大国にした、かつての政権党である。その党首が原発推進政策の転換を示唆したわけで、大いに注目していい発言と言ってよかった。が、各紙の扱いはいずれも小さく、この発言を評価し日本におけるエネルギー政策の見直しを提起したところはなかった。
もちろん、この間、こんどの福島原発事故を機に「脱原発」を唱えだした人の主張を紹介した新聞もあった。例えば、朝日新聞は3月24日付のオピニオン欄に「原発依存からかじを切れ」と題する川勝平太・静岡県知事の意見を、同月25日付の同欄に「石炭火力にシフト 現実的」と題する澤昭裕・21世紀政策研究所主幹の意見を掲載した。また、毎日新聞は3月20日付総合面に「浜岡6号機先送り」「中部電 原発計画見直し」「電力各社、対応迫られ」という3本見出しの記事を掲載したが、これは、前文に「国がエネルギー政策の大黒柱としてきた原発増強策は抜本的な見直しを迫られている」とうたっており、問題提起を感じさせる、印象に残る記事だった。
が、両紙とも、こうした意見や問題提起が社論として社説で展開されることはなかった。
そして、ついに菅首相による原発新増設の見直し表明。昨年6月に閣議決定された政府のエネルギー基本計画によれば、現在54基ある原発を2030年までに14基以上増やすことになっており、うち2基は建設中。この基本計画が見直されることになる。日本のエネルギー政策の見直しというテーマでは、新聞は政府に先を越された形となったわけで、いわば新聞は政府に乗り越えられてしまったといってよいのではないか。
それにしても、6紙は、なぜ政府より先に「原発新増設の見直し」を言い出さなかったのだろう。
それは「原子力なくして今の暮らしも産業も成り立たない。温暖化防止時代の欠かせぬエネルギー源でもある」(3月14日付東京)、「日本にとって安価で安定的な電力の供給源である原発の意味は大きい」(3月13日付産経)、「欧米諸国では、79年の米スリーマイル島、86年の旧ソ連・チェルノブイリの両原発事故でも原発の安全性への不安が広がり、新規建設の停滞を余儀なくされた。だが、エネルギー安全保障や地球温暖化対策の観点からも、原発は安全に管理する限り、電力供給で重要な位置を占め続けよう」(3月29日付読売)といった認識があるからだと思われる。
ジャーナリズム界での原発観に大きな影響をあたえたものに、1976年の7月から9月まで朝日新聞に48回にわたって連載された『核燃料 探査から廃棄物処理まで』がある。これは原発の仕組みと現状を紹介した企画記事で、当時大きな反響を呼んだが、その結論は「核燃料からエネルギーをとり出すことは、資源小国の日本にとっては、避け得ない選択である」というものだった。
その後の原発に対する新聞論調を見てきた者には、こうした考え方がその後、新聞論調の大勢になっていったように思える。だから、こんどの福島原発の事故に際しても「原子力なくして今の暮らしも産業も成り立たない」といった考え方に立脚した社説・主張となり、「脱原発」を説く社説・主張は現れなかったのだと私は見る。
いわば、新聞界は「核燃料からエネルギーをとり出すことは、資源小国の日本にとっては、避け得ない選択である」という考え方に金縛りされて来たかのようなのだ。でも、その“呪縛”も福島原発事故がもたらした未曾有の深刻な脅威によって解かれてしまったのではないか。総理大臣が原発の新増設をためらわざるをえないほど、原発の安全性に対する信頼性がこの原発事故によって失われてしまったのである。
ジャーナリズムに求められているのは、社会にとって重要な問題では、常に政府より、あるいは世論より一歩先に行くということではなかったか。改めて、そう思う。
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