(2020年7月30日)
西川重則さんの逝去を本日(7月30日)知った。7月23日のことという。1927年のお生まれで享年92。死因は老衰と報じられている。敬虔なクリスチャンだったこの方。きっと、穏やかに神に召されたのであろう。
西川さんの逝去を報じる限られたメディアでは、西川さんの人生の紹介を、「政教分離、天皇制問い続け」「20年間国会傍聴」などと報じている。まことにそのとおりの方なのだ。
私が西川さんに初めてお目にかかったのは、盛岡を舞台に岩手靖国違憲訴訟の準備が始まったころのこと。あれからもう40年近くにもなる。当時西川さんは、「政教分離の侵害を監視する全国会議」事務局長の任にあった。先輩格のいくつもの訴訟の運動体や学者文化人に顔が広く、いろんな運動のまとめ役となっていた。世の中は広い、こんな凄い人がいるものだと感心するばかりだった。
高柳信一さんも村上重良さんも、そして大江志乃夫さんも。みんな西川さんの紹介で知り合い、親切にしていただいた。それぞれのご自宅に伺って、貴重な助言を得、訴訟の証人にもなっていただいた。その経過は、私の「岩手靖国違憲訴訟」(新日本新書)に詳細である。今はその全員が鬼籍に入られた。
西川さんから学んだことは多いが、印象に深い言葉がある。盛岡での集会で、西川さんは発言の最後をこう締めくくった。
「皆さん。よく心に留めおいてください。人権は、多数決を以て制約することはできません。人権は、民主主義にも屈することはありません」
当時、なんとなく平板に聞いた。人権とは当然そんなものだろう、教科書にもそう書いてある、と。しかし、だんだんと、この西川さんの言葉が、身に沁みるようになってくる。西川さんにとって、人権、とりわけ信仰の自由は、何物にも換えがたい宝ものであった。その自由は、最高度に民主的な政権の、最高度の民主的手続によっても、傷つけられてはならない。そう考え続けられた人生だったに違いない。
この社会の少数派にとって、自分らしく生きること、自分なりの価値観で、自分の信じるものを大切に精神生活を全うすることが、実は難事なのだ。そのことの意識が、民主主義ではなく、人権こそが大切なのだという認識になる。さらに、精神的自由を全うするためには、権力を抑制し、平和を守り、巨大な精神的権威形成を拒否しなければならない。
戦時下の苦い歴史の反省から、政治権力が天皇を神と崇める宗教と癒着することへの警戒の念は強く、それが、当時右翼勢力の靖国神社国営化実現要求や、天皇・首相の靖国神社公式参拝要請運動などに反対する「政教分離の侵害を監視する全国会議」の活動となった。
西川さんの心の中では、信仰の自由と平和と憲法が緊密に結びつき、これと対峙するものとして、権力と戦争と天皇という結びつきがあったように思う。とりわけ、天皇を神と仰ぐ宗教と権力との癒着が、信仰を弾圧し戦争をももたらすことになる、そのような信念をもって、祈りつつ、一貫した行動をとり続けた。
報じられている経歴を見ると、次のようである。
「1927年香川県生まれ。69年に靖国神社法案が国家に提出されたのを契機に「キリスト者遺族の会」が発足し、同法案反対の運動を展開、同法は74年に廃案。同会実行委員長。「昭和」から「平成」の代替わりに際しては、1990年参議院予算委員会で、参考人として、即位の礼・大嘗祭について憲法的根拠が無いことを指摘した。自身の兄がビルマで戦病死したのを原点に、「靖国神社国営化反対福音主義キリスト者の集い」代表、「平和遺族会全国連絡会」代表、「日本キリスト教協議会靖国神社問題委員会」委員、「重慶大爆撃の被害者と連帯する会・東京」事務局長。「戦争被害調査会法を実現する市民会議」共同代表、「政教分離の侵害を監視する全国会議」事務局長などを歴任し、キリスト教会内外で、政教分離を監視し、天皇の戦争責任を問い続けた。25日に家族葬の形での葬儀が、熱海市火葬場において、今井献氏(改革派・東京教会牧師)の司式により行われた。喪主は長男の西川純氏。1999年の周辺事態法、国旗・国歌法を機に、国会傍聴を2019年まで続けたことで知られる。
西川重則さん。祈りの人であるだけでなく、信念の人であり、行動の人でもあった。
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2020.7.30より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=15342
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion9984:200731〕