政教分離は、政府と靖国との厳格な分離を求めている。靖国公式参拝は、明らかな憲法違反である。

(2021年12月10日)
 戦争を反省すべき12月8日に、静岡新聞『論壇』は、屋山太郎の記事を掲載した。「靖国参拝を外交問題にすべきではない」というタイトル。典型的な右翼靖国派の語り口であるだけでなく、高市早苗の持ち上げ記事でもある。これが総選挙後のメディア状況の断片であろうか。
 つまらない文章だが、その冒頭だけを引用させていただく。

  自民党総裁選にあたって、高市早苗氏(現政務調査会長)が「当選したら、靖国神社に参拝する」と宣言した。
戦いで亡くなられた方を国家が追悼するというのは、国事で最大の行事だ。それが1985年中曽根康弘首相の靖国参拝を最後に途絶えている。86年に後藤田正治官房長官の中止説明が発表され、公式参拝が終わった。
  85年の中曽根参拝に先立ち、首相は識者を集めた「靖国懇談会」をつくり「公式参拝は合憲」とする答申を得た。にもかかわらず翌年に中止というからには裏がある。裏の事情とは、中国の胡耀邦主席筋から中曽根氏に「胡主席が困った立場になる」との情報がもたらされたからだという。…公式参拝中止の真因は、突き詰めれば中国問題なのだ。高市氏の「外交問題にしない」というのは問題の神髄を突いている。(以下略)

 こんな論調に反論も大人げないが、「公式参拝中止の真因は、突き詰めずとも憲法違反」なのだ。この点を真正面から判断した最高最判例はない。明確に違憲と述べているのは、 1991年1月10日仙台高等裁判所判決(昭和62(行コ)第4号 損害賠償代位請求控訴事件)である。最高裁が、同判決の判示を以下のとおりに要約している。

 「天皇及び内閣総理大臣の靖国神社公式参拝は,その目的が宗教的意義をもち,その行為の態様からみて国又はその機関として特定の宗教への関心を呼び起こす行為というべきであり,しかも,公的資格においてされる公式参拝がもたらす直接的,顕在的な影響及び将来予想される間接的,潜在的な動向を総合考慮すれば,前記公式参拝における国と宗教法人靖国神社との宗教上のかかわり合いは,憲法の政教分離原則に照らし,相当とされる限度を超えるものであり,憲法20条3項が禁止する宗教的活動に該当する違憲な行為であるとして,前記公式参拝が実現されるよう要望する旨の県議会の議決は違法であるとした」
https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail5?id=16653

 なお、屋山の「85年の中曽根参拝に先立ち、首相は識者を集めた『靖国懇談会』をつくり『公式参拝は合憲』とする答申を得た」という記述は、明らかに間違っている。意識的な嘘と言っても差し支えないレベル。靖国懇は、政府が最初から「公式参拝は合憲」とする結論を得ようと作ったものである。そして、事務局が強引に議論を誘導した。が、どうしても政府の思うとおりの結論をとりまとめることはできなかった。
 「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会報告書」 (1985年8月9日)の関連部分は以下のとおりである。(読み易いように段落の変更などを行っている)

 【公式参拝の憲法適合性に関する考え方】
  靖国神社公式参拝が憲法第20条第3項で禁止される「宗教的活動」に該当するか否かについては、討議の過程において、多様な意見が主張された。これらの意見の対立は、おおよそ次のように集約することができる。

  (その一) 憲法第20条第3項の政教分離原則は、国家と宗教との完全な分離を求めるものではなく、靖国神社公式参拝は同項で禁止される宗教的活動には当たらないとする意見
  (その二) 最高裁判決の目的効果論に従えば、靖国神社公式参拝は神道に特別の利益や地位を与えたり、他の宗教・宗派に圧迫、干渉を加えたりすることにはならないので、違憲ではないとする意見
  (その三) 最高裁判決の目的効果論に従えば、我が国には複数の宗教信仰の基盤があることもあり、靖国神社公式参拝は現在の正式参拝の形であれば問題があるとしても、他の適当な形での参拝であれば違憲とまでは言えないとする意見
  (その四) 公的地位にある人の行為を公的、私的に二分して考えることに問題があり、
  ①私的行為、
  ②公人としての行為(総理大臣たる人が内外の公葬その他の宗教行事に出席するごとき行為)、
  ③国家制度の実施としての公的行為、
の三種に分けて考えるべきであるが、閣僚の参拝は②としてのみ許され、その故に、私的信仰を理由とする不参加も許されるとする意見
  (その五) 憲法第20条第3項の政教分離原則は、国家と宗教との完全な分離を求めるものであり、宗教法人である靖国神社に公式参拝することは、どのような形にせよ憲法第20条第3項の禁止する宗教的活動に当たり、違憲と言わざるを得ないとする意見
  (その六) 本来は(その五)の意見が正当であるが、最高裁判決の目的効果論に従ったとしても、宗教団体である靖国神社に公式参拝することは、たとえ、目的は世俗的であっても、その効果において国家と宗教団体との深いかかわり合いをもたらす象徴的な意味を持つので、国家と宗教とのかかわり合いの相当とされる限度を超え、違憲と言わざるを得ないとする意見

  しかし、憲法との関係をどう考えるかについては、最高裁判決を基本として考えることとし、その結果として、最高裁判決に言う目的及び効果の面で種々配意することにより、政教分離原則に抵触しない何らかの方式による公式参拝の途があり得ると考えるものである。
  この点については、最高裁判決の解釈として、靖国神社に参拝する問題を地鎮祭と同一に論ずることはできないとの意見もあったが、一般に、戦没者に対する追悼それ自体は、必ずしも宗教的意義を持つものとは言えないであろうし、また、例えば、国家、社会のために功績のあった者について、その者の遺族、関係者が行う特定の宗教上の方式による葬儀・法要等に、内閣総理大臣等閣僚が公的な資格において参列しても、社会通念上別段問題とされていないという事実があることも考慮されるべきである。
  以上の次第により、政府は、この際、大方の国民感情や遺族の心情をくみ、政教分離原則に関する憲法の規定の趣旨に反することなく、また、国民の多数により支持され、受け入れられる何らかの形で、内閣総理大臣その他の国務大臣の靖国神社への公式参拝を実施する方途を検討すべきであると考える。

  ただし、この点については、前記(その五)、(その六)記載のとおり異論があり、特に(その六)の立場から、靖国神社がかつて国家神道の一つの象徴的存在であり、戦争を推進する精神的支柱としての役割を果たしたことは否定できないために、多くの宗教団体をはじめとして、公式参拝に疑念を寄せる世論の声も相当あり、公式参拝が政治的・社会的な対立ないし混乱を引き起こす可能性は少なくない、これらを考え合せると、靖国神社公式参拝は、政教分離原則の根幹にかかわるものであって、地鎮祭や葬儀・法要等と同一に論ずることのできないものがあり、国家と宗教との「過度のかかわり合い」に当たる、したがって、国の行う追悼行事としては、現在行われているものにとどめるべきであるとの主張があったことを付記する。

 この答申を、「靖国懇は『公式参拝は合憲』と答申した」と言うのは、牽強付会も甚だしい。答申の「両論併記」は珍しくない。しかし、「6論併記」は前代未聞ではないか。まとめた人物の見解も加えると「7論併記」にもなる。しかも、この答申の後に、前記仙台高裁の公式参拝違憲判決が出ている。

 靖国神社とは、天皇の神社であり軍国神社であった。天皇のための戦争を美化し、天皇のために闘って戦没した兵士を、天皇への忠誠故に英霊と呼称し、護国の神として祀ったものである。その合祀の目的は国民的な戦意高揚を目指してのこと。皇軍の兵士は、死してなおその霊を国家の管理のもとに置かれたのだ。
戦没者は、天皇制政府の誤った国策による犠牲者である。その犠牲者が死して後まで、国策に利用されたのだ。それは過去のことではない。それが、屋山や高市の立場が今なお、靖国を利用しようとしている。

 国家神道の軍国主義的側面を象徴するものが、靖国神社であり靖国の思想である。日本国憲法の政教分離とは、靖国を意識して制定された。ふたたび、天皇にも、閣僚にも、靖国神社を公式参拝させてはならない。屋山や高市の立場は徹底して批判されなければならない。

初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2021.12.10より
http://article9.jp/wordpress/?p=18108
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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