ミャンマー(ビルマ)では1月13日、テイン・セイン大統領の恩赦により受刑者651人が釈放された。政府当局者によると、民主化運動の指導者アウン・サン・スー・チーさんが率いる国民民主連盟(NLD)が釈放を求めてきた政治犯591人全員が釈放された。釈放された中には、1988年の民主化デモの学生リーダーだったミン・コー・ナイン氏らの著名人や2007年のデモで逮捕された僧侶たち、少数民族指導者らの顔ぶれがあった。
これを受けてヒラリー・クリントン米国務長官は、米国とミャンマーの間の外交関係を大使級に格上げすると発表した。米国は長らく軍事政権の支配下にあったミャンマーに厳しい制裁を続けてきたが、昨年3月の民政化で登場したテイン・フセイン大統領が始めた民主化の動きを評価して、クリントン長官が昨年12月に米国務長官としては56年ぶりにこの国を訪問、全政治犯を釈放すれば大使級への格上げに応じる方針を示していた。全政治犯の釈放は、欧米諸国のミャンマー制裁を解除するきっかけとなり、長らく孤立にあえいでいたこの国が世界から受け入れられる道が開けよう。
政治犯釈放に先立つ1月9日、NLD書記長のスー・チーさん(66)はヤンゴン(ラングーン)で開いたNLD中央執行委員会で、4月1日に予定される連邦議会補欠選挙にヤンゴンの下院選挙区から出馬すると正式に表明した。1962年から半世紀に及んだ軍政から“民政化”されたばかりのこの国の民主化を進めるために、敢えてリスクを背負って旧軍事政権改革派の開国・民主化路線に賭けたものと解される。
本ブログ昨年10月20日のエントリーで紹介したように、軍政の首相から民政に天下ったテイン・セイン大統領(陸軍中将)はミャンマーの「解放」に矢継ぎ早に手を打った。特に軍政下で厳しく制限されていた報道を大幅に自由化し、スー・チーさんの動静や写真、ビデオを解禁した。当初はおっかなびっくりでビジネスを始めた出版社や映像業者は、国民に圧倒的人気のあるスー・チーさん関連の商品の販売が規制されないので、関連商品を売りまくってスー・チー・ブームを巻き起こし、大儲けしたという。
2011年11月にインドネシアで開かれた東南アジア諸国機構(ASEAN)首脳会議で、ミャンマーが2014年のASEAN議長国に選ばれたことは画期的だった。1962年の第1次軍事クーデターで権力を握り、4半世紀に及ぶ鎖国型“社会主義”でビルマを東南アジアの最後進国にしてしまったネ・ウィン将軍の軍政。1988年に決起した学生など民主化勢力がいったんは軍政を打倒したものの、同年に軍上層部が起こした新たなクーデターにより、ビルマはさらに23年間も軍政下に置かれ、スー・チーさんは軟禁に次ぐ軟禁生活を強制された。新軍事政権は1989年、国名をビルマ連邦からミャンマー連邦に、首都ラングーンをヤンゴンに改名した(首都は2005年ネピドーに移動)。
軟禁されたスー・チーさんが政治活動できないのに、ビルマ国民は1990年の総選挙でNLDに国会議席の8割を占めるまでの大勝を与えた。しかし将軍たちはこの年、事前の約束に違えて国会を開かせず、民政移管を拒否して軍政を続けた。その軍事政権は日本を含む西側諸国から厳しい制裁を浴びながら、中国、インド、ロシア、北朝鮮など限られた國との関係を通じて生き延びた。この過程でとりわけ北隣の大国である中国が、孤立した軍政ミャンマーの生き残りを支えたことが大きかった。
こうした過去のいきさつをミャンマーの人々は充分承知している。その上で、彼らは中国だけに依存することの危険にも気付いてきた。だからこそ昨年9月、中国国境に近いカチン州のイラワジ川上流で計画され、中国国営企業が工事を始めたミンソン・ダム大型発電所プロジェクトの中止を中国の意向に反して、テイン・セイン大統領が決断したのだった。
この地域は少数民族カチン族の居住区である。もともとビルマにはカレン、ラカイン、シャン、カチン等々約50もの少数民族が各地域に住んでおり、人口の67%を占める多数派ビルマ族(ミャンマー族)の支配になかなか従おうとしない。将軍たちに言わせると、こうした少数民族がいつ中央政府に反乱を起こすか分からないので、これに対抗するためには軍事政権でなければならないという理屈になる。こうした民族事情を心得ているスー・チーさんは、いつも少数民族の権利を中央政府は理解するべきだと主張し、テイン・セイン政府と少数民族の和解のためにNLDは調停役を務める用意があると言い続けている。
こうした中でミャンマー政府は1月12日、東部カイン(旧カレン)州の州都パアンで1949年から独立を求めて武力闘争を続けてきた最も歴史の古い少数民族武装組織、カレン民族同盟(KNU)と行ってきた和解交渉が妥結、停戦合意したと発表した。これは欧米による制裁解除を目指すテイン・セイン政権がKNU側に譲歩した結果のようだ。昨年12月にクリントン米国務長官、今月初めにヘイグ英外相が相次いでミャンマーを訪れた際、両者ともテイン・セイン大統領との会談で、制裁解除の条件として全政治犯の釈放とともに少数民族との和解を明言していた。
国際的孤立から脱却し、海外からの投資を得て経済発展を図りたいミャンマー政府はKNUなど少数民族側に対する武装解除要求を取り下げるなど、これまでの強硬姿勢を転換して停戦合意を優先させた。テイン・セイン大統領はまず各少数民族と地元の州政府が停戦交渉を行い、それが成功すれば連邦政府が交渉に乗り出すという2段階方式を進めてきた。KNU以外では東部のシャン州軍と同州政府の間で12月に停戦合意が成立している。
ともあれテイン・セイン大統領に代表されるミャンマーの「改革派」軍人たちは、これまでの軍事政権のやり方では国の発展はあり得ないことに気付いたようだ。世界の大勢である自由・民主に抗して軍人支配を続けるか、それともノーベル平和賞に輝く国の至宝アウン・サン・スー・チーさんが、「改革派」軍人たちに賭けた願いに応えるか。今回の政治犯釈放は「改革派」が開国・民主化の方向に大きく踏み出したことを意味しよう。
ミャンマーでは報道規制が緩和されたことにより、現地の新聞がある程度まで政権の内部情報を伝え始めている。そうした情報によると、テイン・セイン政権内にはティハ・トゥラ・ティン・アウン・ミン・ウー副大統領をリーダーとする「守旧派」がテイン・セイン大統領らの「改革派」の足を引っ張っていると言われる。彼らは「改革派」がスー・チーさんに過剰に譲歩しているとの不満を抱いているようだ。1月3日の独立記念日を期して行なわれた大統領恩赦で200人ほどの受刑者が釈放されたが、このうち政治犯は約30人しかいなかった。政治犯の釈放が進まないのは「守旧派」の抵抗のためだったという。
長かった軍政の間に、改革が少し進んでは逆行する事例を何度も目撃してきた市民の間には「現在の政府指導部と軍政指導部のメンバーはほとんど一緒だ。きっと同じことが起こる」といった反応も根強い。軍政下の2008年に制定された現在の憲法は、上下両院664議席の定員中議席の4分の1を投票に依らず、軍人に割り当てている。しかも2010年11月に軍政下で行われた総選挙では、NLDが合法政党として認められなかったため選挙をボイコットした。そこで軍部がお手盛りでつくった翼賛政党「連邦団結発展党」(USDP)が議席の8割を獲得した。
4月に行われる補欠選挙では空席となった48議席が争われる。新たに合法政党として認められたNLDが仮に48議席全てを獲得したとしても、国会でUSDPや軍人議席の多数派に太刀打ちできるわけはない。こうした不利な事情を、軟禁処分を8回も受けるなど軍政に迫害されてきたスー・チーさんが知らないはずはない。しかし彼女は、将軍たちがいつでも実質的に軍政に戻れるような枠組みを整えながらも、世界の世論やミャンマー民衆の「声なき声」に圧されて民政に踏み切ったことをチャンスと捉えた。この機会に自由、人権、民主を市民の間にできる限り広げ、内外にアピールすること、それこそが軍政への逆行を防ぐ唯一の道と期しているのは疑いない。政治犯の釈放はこの選択が正しかったことを示している。今後のミャンマーの動静に注目しよう。
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