教育の本旨に背理する最高裁の君が代命令合憲判決

 6月6日、最高裁第一小法廷は学校行事で教職員に日の丸起立・君が代斉唱を指示した東京都の校長の職務命令が、憲法19条の保障する思想、良心の自由に反し、違憲かどうかが争われた訴訟の上告審判決で、5月30日の第2小法廷判決に続き合憲と判断した。
 今回の判決の骨子は、国旗掲揚時に起立して国歌を斉唱するよう義務付ける職務命令が個人の思想・良心の自由を「間接的に」制約する面があることを認めながら、本件職務命令は学校の式典の場で儀礼的な所作を求めるものであり、そうした場面では生徒等への配慮を含め、教育上の行事にふさわしい秩序を確保する必要があるため、個々の職員が自らの歴史観・世界観を外形的に表す行動に制限を課すことは許容され、思想・良心の自由を保障した憲法19条に違反するとはいえないと判断した点にある。しかし、私は以下の理由により、この判決には根本的な誤りがあると考えている。

自主自律の精神の涵養に背理する判決
 第1は、「生徒への配慮も含めた教育上の行事にふさわしい秩序」とは何かを一切、説明せず、「式典の場での儀礼的な所作」といった、合憲性を争う裁判にはおよそ疎遠で不確定な文言を引いて、かかる「秩序を確保する必要」を、憲法19条が保障した思想・良心の自由に優越させてしまった点である。
 宮川光治裁判官の少数意見でも指摘されているように、東京都立高校では国旗・国歌法施行後も少なくない学校の校長は式典において内心の自由告知を行い、一部教職員に不起立不斉唱行為があったものの式典は支障なく進行していた。このような経過からして、式典の秩序を乱す原因を一部教職員の不起立不斉唱行為に帰すのは現場の実態を無視した虚偽の認識である。式典の秩序を乱した原因を挙げるとすれば、職員を派遣してまで式の進行を監視し、命令に従わない教職員を不利益処分に課してきた都教委の理不尽な「踏み絵」指導にこそあったといえる。

 第2は、本判決は学校教育が目標とする「自主自律の精神の涵養」に背理するという点である。
 文科省が2008年3月に行った「君が代」に対する意識調査では、君が代の歌詞の意味を正しく解説できたのは小学生では1割以下、中高生・保護者でも3~4割程度だったという。そして誤答の中では、「君が代は」を「君が弱っ」(お前、弱いなーの意)と解釈する例、「千代に八千代に」を「千代・八千代という姉妹」と受け取る例、「さざれ石の」を「下がれ石野」(石野さんを退席させる)と解釈する例などが多かったといわれている。これほどに意味を理解できていない歌詞を斉唱するよう強制するのは教育ではなく「調教」であり、「個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養う」ことを謳った教育基本法第2条2に真っ向から反する行為にほかならない。

 このことからすれば、断罪されるべきは、自らの歴史観、良心に反する行為を強制されない自由を行動で示した教職員ではなく、「形から入り形に心を入れればよい」、「形式的であっても立てば一歩前進だ」などといった方針で国旗・国歌に敬意を払うよう強制した都教委の反教育的行為である。なぜなら、「形から入り形に心を入れればよい」などと呼号するのは、行政権限を振りかざして個人の内心に手を突っ込む野卑な行為であり、これこそ、思想・良心の自由を保障した憲法19条を蹂躙するものだからである。
 また、私は自分の歴史観からして国歌・国旗に敬意を払う意思を持っていないが、「形式的であっても立てば一歩前進だ」などと言って、起立を強要すること自体に意味を置く行為は国旗・国歌への敬意を冒涜するものであり、自己欺瞞でもある。

社会的儀礼、多数の意思でも侵せない個人の良心の自由
 3.第3は、本判決は学校教育が目標とする「個人の価値の尊重」に背理するという点である。
 先に挙げたように、本判決は国旗掲揚時に起立して国歌を斉唱するよう義務付けた都教委の10.23通達と、それに従った校長の職務命令は個人の思想・良心の自由を「間接的に」制約する面があることを認めながら、個々の教職員が自らの歴史観・世界観を外形的に表す行動をするのは「社会一般の規範等と抵触する」とみなして、憲法19条に抵触しないと判示した。
 しかし、行政上の不利益処分(これには「再発防止のため」と称して行われる研修を受忍することに伴う精神的身体的苦痛も含まれる)を予告して起立・斉唱を強要する行為は露骨な「直接的」指導であり、これを「間接的制約」などと表現して、軽微な制約であるかのように印象づけるのは反近代的な「踏み絵」を突き付けられた教職員の苦悩に対する想像力の欠如を物語るものである。そもそも自分の内心に反する外形的行為を強制されない自由も含めた個人の内心の自由は、社会の多数の意思を以てしても制約されない絶対的自由である。こうした精神的自由権に対する制約(実態は不利益処分を予告した脅迫)を「社会一般の規範等」などという茫漠とした価値で正当化した最高裁は憲法の番人たる職責を放棄したのも同然である。

今に生きる内村鑑三の静かなる無意識の「愛国心論」
 かつて私はこのブログに「今に生きる内村鑑三の『愛国心』論」と題する記事を掲載した。
 http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_65ff.html
 その中で紹介した内村鑑三の愛国心論を引いておきたい。

 「愛国心が純粋にして真実なる為には、其は無言にして無意識ならざるべ可からず。真実なる人にして 己が国に対し熱裂なる愛を有せざる者は有り得ざるなり。・・・・・・我等に真の人を示せ、然らば彼の愛国心を保証せん。然れ共、人の真心は其愛国心に依て保証すること能はざるなり、そは愛国心は餘りに屢々『悪漢の最後の拠り所』なればなり。」

 「しかして愛国心とは、我等が己れの国に負う明白なる義務を果すこと以外の何物なりや!隣人に親切 なること、貧しき者乏しき者に同情すること、謙遜にして鄭重なること、等々は、我等の見る所に依れば、 国家の拡大を策し我国民の美徳を誇ることと同じだけ愛国的なり、多くの場合は其以上に愛国的なり。芝居がかりの愛国心は、実に十分以上を有せり。日本が大いに必要とするものは、深き、無言の無意識なる愛国心にして、今日の騒々しき愛国心にあらざるなり。」
 (「病的愛国心」『万朝報』1898年3月11日掲載)

 私は隣人への愛情と国家への熱愛を同一視することはできないと考え、無意識的にも愛国心を自分の内面に取り込む必要を感じていないので、この点では内村鑑三の愛国心論とは不一致がある。しかし、国旗・国歌への「敬意」を強制する権力、そしてそれを免罪する司法によって学校現場での思想・良心の自由が窒息させられる現実は、広く社会全般の思想・表現の自由まで窒息させられる危険が切迫していることを告げる「カナリア」といえる。恐ろしいのはこうした思想・良心の自由の侵害を追認する司法の判断を式典の「マナー論」、「社会の常識論」で受容してしまう市民の感性である。このような感性が社会に浸透している状況だからこそ、「深き、無言の愛国心」を本旨とし、「騒々しき愛国心」を拒んだ内村鑑三の思想が放つ理性の輝きを再評価したいのである。

 庭に咲いたアマリリス(6月5日撮影)

 

夕方、巣に戻ってきた子ツバメ(6月4日撮影)

初出:「醍醐聡のブログ」より許可を得て転載
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/

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