教育を私物化する安倍政権 -教育委員会制度の変更について-

教育改革に力を入れる第二次安倍内閣は、自民党内に教育再生実行本部、内閣府に教育再生実行会議を設置し、幼児教育の無償化から、いじめ問題対策、教科書検定制度の見直し、6・3・3制の見直し、さらには大学教育改革まで、総花的に課題を取り上げている。
この政権の特徴は教育分野に限らず、政策の検討に利害関係者は入れても、専門家は排除するという点である。専門家を入れる場合も、NHK経営委員に任命された長谷川三千子のように、その世界では「際物」扱いされていた人物ばかりである。安倍政権は反知性主義的な態度で、まともな専門家の意見を聴く耳を持たない。あらゆる分野の政策が危うさを抱えて迷走気味となっているのは、そのためである。戦後政治に前例のない極端な党派集団の様相を呈している。「お友達内閣」と揶揄される所以である。

さて、数多く挙げられた教育政策の課題のなかで、先の国会で法案成立まで漕ぎつけたものが一つある。教育委員会制度を定める「地方教育行政の組織及び運営に関する法律(地方教育行政法)」の改正である。昭和31年に制定されて以来の大改正である。
この法律改正の目的について、当初はいじめ自殺問題への教育委員会の不適切な対応などが問題とされ、首長の関与による対応の迅速化の必要が唱えられたりした。しかし、首長の介入が適切な問題解決に有効である保証もなく、改正理由も曖昧なまま、審議は集団的自衛権をめぐる議論の陰に隠れる形で進められ、法案は国会を通過した。

法案提出の改正理由として上げられたのは「教育再生のため」である。「再生」では何も言っていないに等しい。実際の目的は何か。2月22日の本サイトに掲載された拙稿「教科書問題の影-教育委員会見直しの動きをめぐって」で指摘したように、安倍首相自身や下村文科大臣が肩入れしている「新しい歴史教科書をつくる会」系の教科書採択率を上げることしか考えられないのである。現在、2~3%程度に留まっている採択率を一気に上げるためには、地方自治体の首長に教科書採択への発言権を持たせることが効果的だと判断したのだ。そのような動機で教育行政の根幹を規定する法律を変えるということは、常識的にはあり得ないのであるが、そのような行為を躊躇しないのが、この政権の強みでもあり弱みでもある。

法案は教育委員会をどのように変えたのか。現行法では、首長が教育に見識のある人物を議会の同意を得て教育委員に任命する。その委員の互選によって教育委員長が選出され、委員のなかから事務を統括する教育長が任命される仕組みである。慣例として、教育長には大半が教員出身者か行政経験者が就任しており、教育行政の中立性とともに継続性と安定性とが保たれる仕組みである。

新しい法律では、教育委員長と教育長とを併せた強い権限をもつ「新」教育長という地位を設置し、首長に任免権を与えることになった。さらに首長と教育委員会は、「総合教育会議」を開催し、「大綱の策定・教育条件の整備などの施策」を決定することになっている。首長と個人的に親しく政治的立場も近い者が任命されるケースも増えてくるだろう。すでに大阪府では橋下徹府知事(当時)の大学時代の同級生の弁護士経験者が教育長の椅子に座っている。また従来のルートからの人材が教育長に任命されたとしても、首長に任免権が与えられることから、新教育長が首長の意図するところを忖度することになるのは想像に難くない。

法案成立後の7月17日付文部科学省の各教育委員会などへの通知には、この辺りの事情を知らなければ意味が分かりにくい個所がある。新たに設置される総合教育会議について以下の文章がある。

「総合教育会議においては、教育委員会制度を設けた趣旨に鑑み、教科書採択、個別の教職員人事など、特に政治的中立性の要請が高い事項については、協議題とするべきではない」としている。しかし、そのあとに続けて、「一方、教科書採択の方針、教職員の人事の基準については、(中略)、協議することは考えられるものである」とわざわざ付け加えているのである。教科書採択には口出しすべきではないとしながら、「採択の方針」は協議題になるというのである。
この法律の施行は2015年4月1日である。来年度は4年サイクルで採択される義務教育教科書の選定年である。安倍政権が数多くあげた教育政策の課題のなかでこの法案を急いだ理由はここにある。首長が来年度に設置される総合教育会議の席において「社会科の教科書は、教育基本法に基づいて愛国心を涵養するものが適当である」と主張すれば、「新しい歴史教科書をつくる会」系の教科書を採択するように、各方面に圧力がかかるだろう。

すでに高校段階では実教出版社の日本史教科書が狙い撃ちにあっている。教科書のなかの「国旗・国歌に」対して「一部の自治体で公務員への強制の動きがある」という記述が問題視されたのである。東京都、神奈川県、埼玉県などにおいて、首長の意向を受けた教育委員会が、自らの不当な行為が指摘されているという理由で採択候補から排除するという行動に出ている。このような環境の中で、来年度の中学校の教科書採択において、全国的にどのような動きとなるか注視していく必要があろう。

なお、現在の中学校の社会科歴史分野では東京書籍の教科書が50%以上のシェアをもっている。東大系の歴史研究者が中心になって執筆され、最新の研究成果も反映されたバランスのよい教科書である。
一方の「つくる会」の教科書は、会自体がイデオロギー対立や主導権争いから内部分裂を繰り返し、現在はフジサンケイ・グループ系の芙蓉社の子会社である育鵬社のものと自由社から出されているものの二種がある。両者に共通しているのは、育鵬社版に渡部昇一や岡崎久彦などが執筆陣に名を連ねているように歴史研究者が少ないことである。そのために両者とも東京書籍からの盗用が指摘される有様であり、教科書としてはお粗末なものというしかない。

この教科書が保守系政治家に支持される理由を論じようとすれば、「つくる会」の活動が始まった1990年代半ばの政治環境まで遡らねばならないが、ここでは二社のみが取り上げる「歴史上の人物」を指摘して教科書の特徴を指摘しておく。神武天皇、二宮尊徳、乃木希典の三人である。
神武天皇は『日本書紀』、『古事記』に出てくる神話上の人物である。幕末の国学者などが、西暦を意識してキリスト紀元よりも数百年前に即位したことにした。時代区分では縄文晩期である。神話として国語の授業で扱うならともかく、歴史の授業で扱えば生徒たちを混乱させるだけである。
また二宮尊徳は幕末期以来、修養主義のシンボルであった。社会変革よりは自己鍛錬や道徳的研鑽によって人格の陶冶を目指す態度を意味する。支配層のエリートからすれば扱いやすく、自分たちの支持者となる人々である。乃木希典は明治天皇に殉死するなど天皇への忠誠の権化として、一部の人々からは「軍神」として崇められている人物である。

要するにこれら教科書は、歴史研究に基づくものではなく、執筆者たちの「信仰告白」の書と考える他ない。信仰告白に付き合わされる国民には迷惑な話であるが、押し付けられた教科書によって、子どもたちの間に彼らの言う「愛国心」が醸成されるとすれば、それは戦後日本社会の完全な終焉を意味するであろう。

 

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