教育再生実行会議の提言を読む

 11月初め、新聞各紙は「人物本位へ」などの見出しで、安倍内閣の教育再生実行会議が発表した大学入試改革に関する提言を報じた。提言は今後、中央教育審議会の検討に委ねられ、5,6年後の実現を目指すことになる。
まずこの会議であるが、奇妙なことにメンバーには教育学の専門家が一人もいない。大学経営者や大学教育を受けた経験者はいても、教育学の知見をもつものは含まれていない。そのため、「飲み屋談義」(佐藤学・学習院大学教授が森内閣の教育改革国民会議の議論を評した言葉)的な性格を免れない。患者の治療法をめぐる会議に医者を入れず、病院経営者や病気治療経験者に議論してもらっているようなものである。小渕恵三内閣以後、教育に関する首相の私的諮問機関が何度か設置されてきたが、申し訳程度にせよ教育学の専門家が委員に任命されていた。
安倍内閣では他の分野でも専門家が委員会などから排除される傾向がある。第二次安倍内閣も「お友達」内閣なのである。話の合う仲間や、本人にとって心地よい話をしてくれる人物ばかりを集めている。教育分野も同様だ。
しかし会議には資料の提供などの形で、文科官僚も関わっているので、すべてが飲み屋談義で終わっている訳でもなく、提言のなかに文科省の課題意識や意図している改革の方向を読み取ることもできる。

 提言の要点は以下のとおりである。センター試験を廃し、基礎レベルと発展レベルの「達成度テスト」を高校在学中に複数回受験可能な形で実施する。基礎レベルは推薦入試などで利用されるものとし、発展レベルは現在のセンター試験に代わる試験とする。発展レベルのテストでは、一点刻み(素点)ではなく段階評価とし、各大学はテスト成績に加えて面接や論文などを利用して、人物を多面的に評価して総合的に判定する。

 すでに新聞などでも指摘されているように難点はいくつも上げられる。第一に、受験機会の複数化の困難さである。アメリカの進学適性検査であるSATなどを念頭に置いているのであろうが、SATは「適性検査」であり、読解力テストなどによって論理的思考力などを評価するものである。一方の教育再生実行会議が提案しているのは「達成度テスト」であり、教科・科目別に知識量や理解度を問うことが想定される。SATの出題が過去の厖大な問題データベースをもとに作成され、問題作成が比較的容易であるのに対し、科目別の出題は難易度のコントロールをはじめ過去の問題(直近の予備校の模擬テストまで含め)との重複を避けるなど作業負担が大きい。
現在のセンター試験は、各科目、数十名の問題作成協力者によって一年がかりで3回分を作成する。ひとつは本番用、ひとつは事故があった場合の予備、もうひとつは再テスト用である。入念な点検にもかかわらず、29科目にわたって作成される問題は、毎年のように出題ミスが出ている。提案されている基礎的テストと発展的テストの二種類を複数回数分用意するとなれば、問題作成は容易ではない。誰がテスト問題を作るのか、作れるのか。

 第二に、「丁寧な選抜」を誰がやるのか、やれるのか、という問題である。共通一次試験が導入されてから、受験界では「一次が万事」という言葉が生まれた。1979年に導入された共通一次試験では、共通の基本的学力を一次試験で確かめ、各大学は独自のテストや論文などの二次試験を課して丁寧な選考をするという構想であった。しかし地方国立大学などでは人材的にも、時間と人手をかけた二次試験を課す余裕はなく、もっぱら一次試験の成績で合否を決める結果となった。その事情を揶揄した言葉である。現状では大半の大学に「丁寧」な選考をする余裕はない。ましてや数日の間に延べ10万人という受験生が殺到する大手私立大学には物理的に不可能である。
アメリカでも、論文や面接を含めた念入りな選考をしているのは、いわゆるアイビーリーグなどのトップクラスの私立大学であり、人的、財政的資源に恵まれているから可能となっている。全米から秀才中の秀才が応募してくるハーバード大学などでは、全米に広がるOBのネットワークから面接者を選び、遠隔地の応募者へのインタビューを実施している。逆に州立大学などでは、SATなどのスコアと高校からの成績証明などで機械的に合否判定しているのであり、面接や論作文を課すのは例外的である。
 文科省が以上のような問題を理解していないはずはない。では、どのような舵取りを考えているのか。

まず、在学中の「複数回受験」を、受験生の身になって先入観を除いて考えると、すでにそれが半ば実現していることに思い至るはずである。予備校などが行っている模擬テストである。新しいテストは現在の模擬テストと重なってくる。生徒たちは何回かの試験を通じて自分の「学力レベルを見極め」、学力相応の大学選択に落ち着いていくことになる。現在の模擬テストが果たしている役割を新しいテストが果たすことになる。
再生会議の委員たちは、複数回のテストが高校生の挑戦の気持ちを刺激するよい仕組みだと自賛しているのだろうが、逆に高校生たちのアスピレーションを冷却する効果が働くだろう。それでなくても日本の高校生たちの学習意欲は全般的に低下傾向にある。アメリカの教育研究者は「豚を太らせるのに、繰り返し体重計に乗せても意味はない」と言って、テストによって生徒の「やる気」を促そうとする考えをたしなめている。

 こう考えてくると文科官僚は、大学入試センターを解体し、二種類の高校生テストの開発を教育産業に委ねることを考えているのではないかという疑念が生じてくる。文科省と教育産業との敷居は、すでに相当に低くなっている。例えば、小学6年生と中学3年を対象に数年前から実施している学力調査の採点はベネッセなどが受託している。
ベネッセに百万人分以上の答案を採点する人的資源はないから、正規雇用からあぶれている高学歴の若者をその都度、雇用している。とくにセンター試験にはない記述式解答を求める問題が増えているので、一定以上の知的能力をもった人材を臨時雇いで働かせる仕組みが必要になっている。その効率的な採点作業の能力も証明済みである。
また問題作成についても大手の教育産業は、各地の信頼できる退職教員や現職教員の協力体制を構築しており、過去の出題と重ならないなどの条件をクリアする能力の点でも大学入試センターよりも上手であろう。これらのノウハウをもつ組織を非営利の法人として設置し、文科官僚と教育産業の人材が移れば、教育再生実行会議のいう複数試験の複数回実施も可能となるかもしれない。
アメリカのSATも主催者は、Toeflなども提供するCollege Boardというテスト企業である。下司の勘繰りになるが、日本版College Boardが実現すれば、文科省官僚の恰好の天下り先になるだろう。

 さて30数年間、日本の大学入試制度の柱となってきた大学入試センターであるが、センター試験自体が機能不全を起こしつつあることも確かなのである。少子化と過疎化の進行により、地方国立大学などでも学生募集に困難を生じている学科がすでに少なからず出現している。受験生の得点分布はその中央値付近に最大のボリュームがくるから、倍率が2倍程度にまで下がった場合、ボリュームゾーンに合否ラインが引かれることになる。一点刻みどころかコンマ以下で選抜せざるをえない。文科省からは学生定員の厳守を求められており、大学によっては、入学辞退者数なども勘案しながらの神経をすり減らすような入学者選抜をするところまで追い詰められている。

 現在の日本型大学入学者選抜は、大学進学率の上昇と18歳人口の増加(ピークは1991年に過ぎているが)という特殊な環境のなかで構築されてきた。現在、その寿命は尽きかけている。文科省が、再生実行会議の「先生方」に飲み屋談義をさせながら、入試制度をどう再構築しようとしているのか、注視していく必要がある。

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