教育者、研究者の待遇は今のままでよいだろうか

私が定時制高校や私立高校の非常勤講師等をアルバイトとして務めていたのは、現在から50年以上も以前の大学院生の時期である。大学院を修了後は教育者のみならず念願の研究者の役割を40年以上にわたって果たすことになった。それ故、現在の教育界や学会における教育者、研究者の処遇を論ずるには私はその実態を詳細には把握していないため、年をとり過ぎているのかもしれない。にも拘らず日本の将来のためにこの件に関して一言いっておきたいという衝動にかられるのである。

 

昔から「職業に貴賎はない」といわれてきた。私もこの言葉に表面上は異存はないと考えている。だが一歩進んで本当にそうか、と問われるなら疑問がわく。それは、例えば人間の生活に必要な品物としての商品を販売する商人のような職業人と、人間の生育、人格の成長、人間形成のために教育活動を行う小・中・高の学校の先生や教育、研究活動に献身する大学の教員と同列においてよいかの問題である。実際どのレベルの学校であろうと、学校の教員たる教育者の生徒に対する影響は絶大である。生徒、学生の方からみれば、人生においてどのような先生に出会うかによって、その人の人生が左右される程の大きな影響が及ぼされる。私自身の個人的経験からいっても何人かの立派な先生との出会いがあったればこそ現在の自分があると思い感謝の念がたえないという気持ちがある。

 

それ故、私は学校の先生は通常のサラリーマンより待遇がよくてもよいのではと考えている。だが今日の教育界、学界での教育者・研究者の待遇は全く反対であるように思われる。それは現在の国や地方自治体の財政状況が困難を極めていることの反映でもあろう。まず小・中・高の学校の教員の処遇から取り上げよう。

 

中等教育までの教育者の待遇は、専任教員であればそれ程の問題はないかもしれない。だが最近は第1には、公立の学校でも私学においても非常勤の先生が増えてきているようである。非常勤講師の手当は低いので、学校当局としては財政難を緩和する動機からこうした先生を増やすであろう。もっとも専任教員になると余りにも教育負担が過大になるので家庭の主婦を兼ねている時等は非常勤講師を選ぶケースもあることも確かである。しかし第2の問題はより重大である。それは最近は、学校当局が2年なり3年なりの任期をつけて教員を採用するケースが増えていることである。本当は専任教員になりたくても、その機会に恵まれなかった人は、任期制の教員採用募集に応募するであろう。だがそもそもなぜ教員募集に任期制の導入が必要なのであろうか。それは、私の推測も入るが、学校当局が教員によい人材を採用したいという名目で、人材の採用に競争原理を導入せんがためというのであろう。これは米国流の発想によるものであろう。実際、日本では今日に至るまでの20数年間、新自由主義の時代であったが、米国での中長期の研修に赴いた政治家、官僚、学者達が帰国後は、米国流の思想、発想法を広めた結果、教育界にもその影響が現れたとみられるのではなかろうか。

 

だが、教員に任期があることによって、来年度は教育活動を続けられるだろうかと心配するような教員が生徒への教育に一心を捧げられるだろうか。可能でなければそのことは当然に生徒への好ましくない教育結果をもたらすだろう。教員にはできるだけ安定的な身分保障が与えられるべきである。私は現在の日本の教育界にはさまざまな歪みがあるが、とりわけ次の2点は問題だと思っている。一つは、いじめのような現象が生ずる問題であり、第2には小・中・高の学校の生徒が本来の学校以外に塾や予備校に通うことを希望するという問題である。ここでは第1の問題のみに主に論及し第2の問題は本稿の趣旨から、かけ離れたテーマなので後に簡単に取上げるにとどめる。

 

今日の教育環境におけるいわゆるいじめの問題は極めて深刻なテーマで種々の角度から論じられるべきだろうが、生徒間のいじめが生じないように最も責任を有する立場にある人物は担任教員であろうと思う。担任教員が生徒の動向に注意を払い、生徒自身の性格を深く知るために愛情を以て接触すればいじめを未然に防止することも不可能ではないと考える。しかるにそのような重責を担う教員は、現在は、提出書類の作成作業等の仕事できわめて多忙であり、生徒との交流も不十分であり、しかも経済的な恩恵に浴することも少ない。教育者をこうした地位に貶めることなく、自由に教育活動に専念できるように権限を与えるべきである。文部科学省の官僚はこうした問題をいかに考えているのだろうか。

 

次に高等教育を担う大学・大学院教員をめざす教育・研究者の処遇問題に言及しよう。第2次大戦前には、世上「末は博士か大臣か」というような言葉が聞かれたものである。この言葉には、博士も大臣も尊重されるべき地位にあるという含意があったのではないか。だが現在は全く違っている。博士の地位は少しも尊重されていないし、これによって学問というものも貶められている気がする。なぜこうした風潮になったのであろうか。

 

現在博士の学位をとるためには大学院の博士課程を修了し、2、3年以内に論文を提出し課程博士号をとるか、どこかの大学か研究機関に就職して長期にわたって研究を続け博士論文を書きそれを大学に提出して論文博士号をとるかが通常の道といえるだろう。だがこの通常の道さえかなり困難な厳しい道なのである。なぜなら、以下に述べることは、各種の大学によって異なるし、また各種の専門の学部によっても異なるだろうが、普通のサラリーマンになるよりも5年も6年も多く学問・研究に携わって博士課程を修了しても、その修了者を採用する大学や研究所のような研究機関はそれ程多くないし、企業のような利益追求型の組織は学問研究者に対してきわめて冷淡だからである。これによって、専門分野での差異はあるとしても大学院修了者の中には失職してしまう人も少なくない。せいぜい塾や予備校の講師のような教職につきここで糊口を凌ぐしか道はないことにもなりかねない。(これによってかなり以前から塾や予備校の講師は公立、私立の中学、高校の教師より質的に優秀だといわれてきた)それ故に大学院博士課程を修了しても、決して修了者にとってはスムーズに博士学位がとれる状況にあるわけではない。この状態の修了者をオーバー・ドクターと呼んでいるが、ではなぜこうした人達が出現するようになったのだろうか。

 

それはいうまでもなく、20年以上も前から文科省(当時は文部省)が大学院の拡張政策をとってきたからであると思う。20年以上前の話であるが、私が大学院の研究科委員長であった頃、勤務校に文部省の課長級の人が来て、なぜ大学院を拡充せねばならぬかについて話していった記憶がある。その話の内容とは、「日本はこれから情報化、高度化、複雑化した社会になるのは必至であるから、多くの知識人が必要になる。それ故に大学院教育を拡充し、量的(院生数)に拡大する」というものであった。私はこの話は逆転していると思っていた。なぜなら大学院修了者の社会からの需要は容易に増えず、失業者がでることが話題になっており、大学院教員も皆困っていたからである。しかも文部省の官僚は大学は学問の質的向上、発展を図らねばならず、大学の教員にはその義務があること等には一つも触れないからである。彼等には単なる量的拡大しか念頭にはなかったのではあるまいか。実際その後文部官僚が行ったことは、1流の国立大学、私立大学以外に2流大学、3流大学(実は私は2流大学とか3流大学とかの言葉は使いたくない。それは差別用語となってしまうからである。しかし大分以前から一般人においても偏差値による大学の序列の実態等は念頭におかれるようになっているため、事実の重大性から2流や3流の用語を使用することをここではご寛恕いただきたい)に対しても大学院を設置することを補助金を支えるという条件で導入することであった。大学院生の量的拡大を企図すればその質的低下をも招くことは容易に予想されるにも拘らずである。

 

もっとも大学院の拡充政策は、文部省のみによって推進されたとはいえないだろう。文部省はあらかじめ日本学術会議や大学設置審議会のような学者によって構成される組織にも意見を聞いているからである。学術会議の会員であった私の友人の経済学者に聞いたところによると、法学部、経済学部、商学部、文学部のような文化系の教員では、拡大の提案に反対する人が多いが、理工系の教員、とくに産学協同にも賛同する工学部、医学部、薬学部の教員等においては、提案に賛同する人が多く、数の論理におされて拡充が決まってしまう、とのことであった。このようにして大学院の制度改革が行われてしまうと、博士課程修了者のうち運のよい人は大学専任教員の就職が決まる場合があるが、運に恵まれなかった人は専任教員になれずに留年したりすることになる。しかも不運だった人の方が幸運だった人よりも学問的に優秀な場合も少なくないのである。すなわち若手研究者の進む道が「運」に左右されことになってしまう。私は大学の教員が「運」に左右されるような職業になることには反対なのである。

 

さらに文部省は、10数年前から、大学の教員に対して任期制の導入を働きかけるようになった。すなわち3年任期や4年任期の教員の採用である。これは自然科学系の学部にとっては任用者に競争原理を導入して早く結果を出させるのが肝要といった配慮からこうした制度が導入されたのかもしれない。これも中等教育における制度変更と同様に、米国流の発想が取り入れられているのかも知れぬ。しかしながら文科系の大学学部においては専門分野にもよるであろうが、それ程容易に学問が成熟するということは考えられないであろう。しかもこのような任期制教員の採用ということは、学問研究者にそれ程経済的恩恵を与えるということでもないので、私は常に反対であった。

 

大学、大学院の運営で最もむつかしくかつ慎重に扱わねばならない問題は人事の問題である。大学の自治、教授会の自治が保証されねばならぬというのも、人事の問題が関連しており、学問が分からぬ人が学者を評価することができないからであろう。もとより、これはたてまえではある。

 

現実には大学の教員は学問研究以外に、教育と行政(大学行政)の仕事がある。どこの大学でもそうであろうと思うが、大学の教員といっても、学問にはひいでていても、教育や行政には不向きの人がいるし、教育にはひいでていても、学問や行政には不得意な人がいるし、行政には卓抜していても、学問と教育には不十分という人もいる。一人の教員において容易にバランスはとれないのである。通常は、教員相互の関係において、他の教員の弱点をかばいあって何とか問題が生じないように平常に生活を維持するように努力している。だがこうした平常の学部運営において最も学部長が苦労するのは新任者人事(専任講師、准教授の採用)のときであろうと思う。新任者の人事・採用がどのようにして行われているかは、大学や学部によってそれぞれ異なると思う。昔の私の勤務校では、新任人事は原則公募で行われていたが、常時資格審査委員会という委員会が設置されており、応募してきた志願者の論文、業績を専門が近い3、4人の審査委員が読み、資格審査委員会と教授会に報告するのがならわしであった。私も20年間程は資格審査委員であったと思うが、応募者の多数の論文、業績を読んで理解すること等は大変にエネルギーを消耗する、自らの教育や研究以上に困難な仕事であったことを想起する。新任者の採用は最終的には教授会での採決によって決するが、必ずしも最も優れた人物が採用されるとは限らない。審査報告で主査と副査の意見がくい違ったり、教員間で対立が生じたりすることがありうるからである。(論文等は公開されている)

 

20年、30年前に比較して現在の方が、大学、大学院は発展しているかといえば、私は逆に劣化傾向を辿っているという気がしている。それは、例えば日本人なら誰でも一流大学と思う東京大学ですら国際的観点からは30位ぐらいまで地位低下してしまったという事実からも明らかではなかろうか。もっとも大学評価の基準は多様であり、必ずしも学問研究水準から推測することはできないとしてもである。他の最近できた無数の大学の水準は推して知るべしということになる。大学、大学院の研究教育水準を著しく低下させてしまった責任の一端は監督官庁にもあると思うが、官僚が責任を問われるということもない。私の親族が大学院に進学したいがと相談を受けたとすれば、お金を十分に出すことのない、魅力のない日本の大学院にいくことは薦めないだろう。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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