文化大革命と『ラストエンペラー』について

まえおき

本日、TV放映を交えて「TPP特別委員会質疑」がある様だ。

戦争法問題とTPP、資本主義グローバリズム問題に迫っていかねばならないのだが、まだまだ〔昭和史ー現代史〕の積み残し問題、世界の地獄と現実の在り方についてと介護離職問題までの遠近法的問題点までどの様に位置づけるべきかの圧倒的整理、整合性、体系化の問題はどの様にあるべきであるのか?

そのテキスト化(=論理学的普遍性)の在り方が問われているのではないかと感じている。

しかし、現代アニメ世代、ゲーム世代、LINE世代にとっては、雲の上の様な問題意識でもあるのではないかと感じている。

またスポーツ好き、プロ野球やサッカーにどっぷりはまるおやじ世代にとっても同様であり、「そんな歴史的過去など大河ドラマまでで精一杯」と言う状況が庶民の中で渦巻いていて、政治は、やはり貴族や武士、そして、自民党アベ政治、一強多弱としての階級化に任せると言う限界を打開できずにいる事をどうするのか?

時間は、限られているのだから整理されて説明する事が出来る人がいなくてはならない。

その窓口となっている入門的導入道場となっているのが、「ちきゅう座」であったりしているのではないかと思うのだが、なかなか「独白」状況から「対話」へ「弁証法」的整理にまで到達できないもどかしさの中で足踏みしている状況をどうするのかとそれぞれが、ない頭を悩ませている?のではないかと考えている。

日本にもほうっておけない「地獄」があちらこちらにある。

それが、フクシマ原発事故であったり、かつてのサリドマイド問題から今日の子宮頸がんワクチン問題、薬害医療問題としてのTPP前哨戦問題の様な事情であるだろう。

更に、「介護離職問題」としての日々報道される悲劇の結末、介護苦による殺人や自殺事件ではないかと感じている。

《資料1》(再リンク)

http://revolutio.exblog.jp/23039234/

 

人生も後半に差しかかかり、いよいよ青年期以来、太宰治を読んでいた10代の頃、ハイデガーに思いをはせた青春と影の時代から終焉が近くなり、その生と死の狭間において、誰もが、そして、サルトルさえ「恍惚の人」として「老い」と終末医療的最終的落とし穴に対策を示す事が出来ず、更に、ドゥルーズの自殺的結末に迫らねばならない最終段階が、それぞれにとって避けられないものとして考察にあげねばならない段階に来ている様に思うのだ。

ショーペンハウアーであったか、ちょうど、手元にあったので、全集2「意志と表象としての世界 正編(Ⅰ)」

〔自然というものは結局のところ究められないのではないだろうか〕ゲーテ(1)

注釈1(ゲーテの1816年の詩『祝いの席の人びとによせて』より)

歴史を究められない、死を究められない、人生を究められない。

社会主義の理想と科学、更には、資本主義と市場経済を究められない。

大部分の人は、「ちきゅう座」に辿り着けない、政治的民主主義の対話に辿り着けない。

諦めさせているのである。諦めさせるのが、独裁的統治であり、政治、官僚の独占として横行してきたのがあちらこちらのちきゅうの歴史、地域に点在して来ている状況となってきた悲劇の構造である。

諦めさせられてアベ政治、戦争法、TPPグローバリズム再植民地化政策に甘んじていると言う図式になっていると言うわけである。

資本主義を究め、そして、対峙する事こそが、民主主義の宿願としての最終戦争であり、「ピケティからマルクスへ」の論理的整理点としていよいよ現れてきているのではないだろうか?

この主張を連日、断続的に展開して来ているわけである。

人は、ローマ・アメリカ帝国同様、一日にしてならない。認知症も一日にしてならないのであるから早急に、教育改革から着手し、そして、真実を失わない、愛を失わない生き方としての「世界一貧しい大統領」としての紆余曲折があったとしても「到達」「達成感」が、真にある有意義なる人生、資本主義的詐欺まがいの他者を欺き、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」黒澤明の「羅生門」の様な袋小路から脱するにはどうしたら良いのか?

亡霊的生き方から人間として共同体として、公共性として生きる「社会主義」としての真の理想としての人類に到達する道を問い直さねばならない時であると言う事ではないだろうか?

さて、今回は、少し迂遠に問いながら論理的な穴埋めをしながら進めてみたい。

本編(その1)

文化大革命と『ラストエンペラー』について

文化大革命の思い出

https://chikyuza.net/archives/61728

個人的年代史が綴られている。

1960年代

70年以後

1980年代前半まで

盛田常夫氏の翻訳によってコルナイ・ヤーノシュの著作

http://revolutio.exblog.jp/23046023/

ラストエンペラーは、1987年公開された映画である。

163分(劇場公開版)

219分(オリジナル全長版)

この短さの中で、文化大革命について語りつくせるものではないとしても、監督であるベルトルッチが、当時の左翼たちの様な混乱の中にあってこの映画に挑んだわけではないと感じている。

イメージトレーニングとしてまず、この映画は理想を決して失ってはない。

しかし、宮崎駿監督作品黒澤明監督作品にも通じる事であるが、制作側の高尚な高みに観客である庶民の側も到達しなければ理解されたことにならないと言うわけではない。

常に、そこに、「わかり易さ」の出発点があり、展開されるべき、導入と全体像が、まず、与えられているに過ぎないのだろうと考える。

左翼の思考停止をそのままにしておくことは出来ない。

それを今こそ乗り越えて、「ちきゅう座」において、独白から対話・弁証法へ、「論理学的普遍性」=テキスト化へと進まねばならない時ではないだろうかと考えている。

それは、スターリンを語る池上彰現代史にも通じる。

http://revolutio.exblog.jp/23045973/

絶望的であり、気が遠くなるような膨大な情報量の中で、それを、それぞれの生涯としての限られた時間の中で、どの様に、体系化出来るのか?共有、共同化、公共化されるべきであるのか?

この問いを仕上げる事と多くの被曝問題、薬害問題、医療独占問題と終末医療問題としての「到達点」問題としての

認知症、介護問題、誰もが避けることが出来ない「死」の問題までを問い直す事にまで「自己完結」

更に、「エゴイズムの克服」こそが、理想であるのだから、現代的で唯物論的なる『精神現象学』体系の完成こそが、人生の目的であり、幸福感である事を社会主義的理想として、具体的で、科学的地平の中で、示していく生涯教育課程として

認知症問題、医学独占問題としての最後の資本主義的弊害の牙城について問い詰めていこうとするのが、反TPPグローバリズム帝国支配への個人主義的抵抗の前哨戦としての理論武装が、これであると言うわけであるのだ。