『人間嫌い―孤客』モリエール作 辰野隆訳(岩波文庫)
20歳前後の頃だったろうか、モリエールの文学にかなり惹かれて岩波文庫の翻訳本を片っ端から読み漁って、感銘した片言隻句を書きためたことがあった。なぜモリエールだったのか?どこに共感していたのか?今となってはさっぱり思い出せないのであるが、たまたま見つけたノートの切れ端を眺めたついでにモリエール喜劇について考えてみようと思った。とは言いながら、いきなり日和見を決め込むようで申しわけないのであるが、膨大な彼の作品群の全体を網羅的に論ずるような力量も専門的な知識もないため、ここでは彼の代表作の一つといわれる『人間嫌い』を取り上げて、その滑稽さの一斑なりと追ってみたい。
確か、最初に手にして読んだモリエールがこの辰野隆訳の岩波文庫版『人間嫌い―孤客』だったと記憶している。なぜこれを手にしたかといえば、薄くて読みやすいということを除けば、多分この本のタイトル『人間嫌い』が気になったせいだろう。後になって振り返ってみるに、この本はまだ20歳ほどの「青二才」にすぎなかった者にとって、決して読みやすい本ではなかったはずだ。実際に私は最後まで、この本がなぜ『人間嫌い』というタイトルをもっているのか分からずじまいだった。あとがきで訳者が、この原文が『ル・ミザントロープ(“Le Misanthrope”)』=「孤客」(こかく:一人旅の人)であると説明しているのを読み、やっと少し納得できた。
書かれている内容はといえば、アルセストという謹厳実直男が、セリメエヌという蓮っ葉娘にあろうことか恋をして、そのせいでほとんど自縄自縛状態に陥って苦しみもがくありさまが、様々な場面での両者のやり取りを通じて描かれている。笑わせようとしてではなく、リアルタッチで描いて見せながら、アルセストが生真面目に懊悩し、深刻になればなるほど、観客にとっては滑稽さが増幅するという仕組みになっている。例えば、セリメエヌがちょっと見知っている男に気軽に声をかけたりしたものなら、たちまちこういう悩ましい状態が起きる。
アルセスト:そうさ、君なんかまさに愧死すべきだ。あんな仕種が許せるものか。いやしくも恥を知る人間なら当然憤慨するね。ほんの行きずりの男にもいやに愛嬌をふりまいて、とびきりの友情を示したり、やたら無性に抱きついて、やれお懐かしいの御用を勤めますの、必ずお約束いたしますのとほざくのだ。ところが今のは誰だと聞けば、ろくに名さえ知らないじゃないか。別れるそばから熱は醒めてしまって僕に話すときにはまるで馬の骨扱いだ。けしからん!
そこまで本心に背いて自ら軽んづるのは卑屈でもありゃあ下劣でも、破廉恥でもある。万一この僕がそんな真似でもしたら、悔恨のあまり即座に首をくくるね。(p.10)
我々はこのアルセストの大げさな苦悩を大いに笑い飛ばす。しかし、笑いながらも、ひょっとして自分にもありうるかもしれないと、心のどこかにおびえるところがある。更に次のようなやり取りがあるが、このやり取りを読んで、心中ひそかに同病の思いを確認しあうご仁も多かろうと思う。
アルセスト:うむ!これでもまだあなたが懐かしいのか?ああ!この心をあなたの手から取り戻せるのなら無常の悦びを天に感謝するでしょうに、本当に、僕は恐ろしい執着を断ち切ろうと全力を尽くしたのです。しかも今までのところ、渾身の努力も水の泡だ。何の因果で、これほどまでにあなたを慕うのか。
セリメエヌ:本当にそうよ、新しい愛し方なのね。だって喧嘩を売るために恋をなさるんですもの。人の気を悪くするような文句でなければ恋しさがあらわせないのね。そんな怒りっぽい恋なんて前代未聞よ。(p.36)
こんなやり取りに思わず笑いを誘われながらも、ふと次のように問い返すことがあった。「笑い(滑稽さ)とは何なのか?本当にこれは滑稽なのだろうか?本当は悲しいことではないのか?」と。
今日、お笑い芸人が年寄りや社会的弱者を笑いのネタにするケースがある。聞いていて不愉快になることがあるが、それはおおむねその芸人が年寄りや社会的弱者を見下したもの言いをする場合が多いように思う。上手な芸人は笑いネタの中に自分をも含ませながら、それを客観視する形で笑いをとりこんでいる。そこには本質的にペーソスが感じられる。チャップリンの笑いと共通する。アルセストの苦悩も、実は我々自身の苦悩とある通底する内容を孕むが故に、我々はアルセストの振る舞いを笑うことで、アルセストたる自己を笑うという構造が成り立っているのではないだろうか。笑いの向こうに哀愁を感じるのも、実際にはアルセストと自分とを同化しながら観るからに他ならないのではないだろうか。
ではアルセストは人間嫌いなのかどうか?私は、人を愛しうる人間が人間嫌いであろうはずはないと思っている。この作品が「人間嫌い」という標題をつけられたのは、多分次の個所辺りに起因しているのではないだろうか。
アルセスト:…世間の有象無象とは区別してもらおう。全人類の友なんて、僕の知ったことか。(p.11)
アルセスト:僕は人間というものがいやでたまらないのだから、彼らから君子と見られたらかえって気持ちが悪かろう。(p.13)
しかし、アルセストは「美しき魂の持ち主」=理想主義者であるだろうとは思うが、断じて「人間嫌い」などではないのではないか。彼はいかにも17世紀のフランス教養人らしく、後の「啓蒙思想」の方に目を向けている。彼にとって「蓮っ葉」なのは一人セリメエヌに限らず、当時のフランスカルチャーの軽薄さだったのではないだろうか。だから、他人に誠実さを求め、また古い因習とも非妥協的に戦うのである。その結果、刀折れ矢尽きて、再び孤高の人=孤客として漂流することになる。ラ・マンチャの男と同じ運命である。彼の惜別の辞は次のようなものだ。
アルセスト:あなた方は、真の悦びを味わわれて、お互いにその心持を長く抱き続けてください。至る所で背かれ、不正不義にさいなまされた僕は悪徳の栄える淵から逃れて、正道の人間たる自由を得られるような、地上の幽寂境を探しに出かけます。(p.103)
18世紀に花開くようになる「フランス啓蒙主義思想」の前段階を準備したといわれるモリエールらの「風刺文学(喜劇)」は、またフランソワ・ラブレーの流れをくむものでもある。更には、非キリスト教者とも言われるモンテーニュ(彼の『エセー』には聖書からの引用は全くないといわれているし、パスカルは彼を異教徒と看做している)からの影響も大いにあったことと思われる。
以下、仏文学者渡辺一夫の『曲説フランス文学』(岩波現代文庫)の当該関連個所を引用することで、この拙い書評を締めくくりたいと思う。
「ラルゥース辞典の創刊者たるピエール・ラルゥース(1817-1875)は、その最初の刊行物『19世紀万有大辞典』の「サロン」の項目中で、「サロンの存在のためには、フランスのような不順な気候と自由の欠如とを必要とする。厳しい寒さと警察当局の傍若無人な耳とを逃れるために、暖炉の周囲に人は集まる」という。」p.110
「ニノン・ド・ランクロの「サロン」…詩人ボワロー、ラ・フォンテーヌ、ラシーヌ、モリエールなど。また「リベルタン」と総称される一群の人々(哲学者・詩人)がここに集まった。リベルタンはルネサンス期からすでに用意されていた懐疑主義・批判主義・合理主義・反絶対主義・反教会権威主義の流れをくむものであり、18世紀のいわゆる「啓蒙」思想家の源流となっているとも申せます。…彼女の「サロン」にこうした「リベルタン」が集まったことは、彼女の人柄とともに、ルゥイ14世の御代の絶対王権が、政治・経済・文化…に、偉容を与え「平和」をもたらしたらしく思われても、この制度が、あらゆる制度と同じく、自らを粛正することを怠っていた結果、徐々に動脈硬化に陥ってゆく姿を側面から示しているかもしれません。つまり、「リベルタン」のごとき、いわゆる「アウトサイダー」的な人物が発生し、しかも、それが18世紀の「啓蒙」思想の母胎を少しずつ作って行ったことを思えば、刻々と変化してゆく時代の姿がうかがえるような感じがするからです。」pp.118-119
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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