本書は、文庫本の「解説」を「解説」した本である。
解説の解説なんて何が面白いのか。面白いのである。
著者の斎藤美奈子(さいとう・みなこ)は、1956年生まれの文芸評論家。「序にかえて」の副題に「本文よりエキサイティングな解説があってもいいじゃない」とある。結論からいうと本書はなかなかエキサイティングなのだ。
《三点の面白さを箇条書きすると》
私は、三点に絞って、その面白さを紹介したい。
第一 文庫の解説は玉石混交であること
第二 分からない本はやっぱり分からないこと
第三 文学観は随分と変化すること
いずれも当たり前のことではないか、という読者の反応を予想して、内容に触れて面白さの理由を述べる。
第一点 文庫の解説は玉石混交であること
「玉」の例を挙げる。
「ヘーゲルはどこかでのべている。すべての世界史的な大事件や大人物はいわば二度あらわれるものだ、と。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」。これは、マルクスによる自著の冒頭の言葉である。その書とは、『ルイ・ボナパルトのブリューメール18日』(植村邦彦訳、平凡社ライブラリー版・二〇〇八年)。
訳者植村による本書要約は、「男子選挙権を実現した共和制の下でルイ・ボナパルトのクーデタが可能になり、しかもこの独裁権力が国民投票で圧倒的な支持を獲得できたのはなぜなのか」というものである。文庫の解説者は、柄谷行人(からたに・こうじん)。その解説を、斎藤は「解説の解説が必要」なほど難解だと言いつつ、次のようにそのサワリを引用する。(■から■)
■一九八〇年代の終わりに「共産主義体制」が崩壊し、民主主義と自由主義的経済の世界化による楽天的な展望が語られたとき、マルクスの『資本論』や『ルイ・ボナパルトのブリューメール18日』といった著作はその意味をなくしてしまったかのように見えた。しかし、これらの著作が鈍い、だが強い光彩をはなちはじめたのはむしろそのときからである〉。/(『ブリューメール』は)一九三〇年代のファシズムにおいても、九〇年代以後の情勢においても貫徹するものをはらんでいる。/ヒトラー政権はワイマール体制の内部から、その理想的な代表制のなかから出現した。/日本の天皇制ファシズムも一九二五年に法制化された普通選挙ののちにはじめてあらわれたのである。/(ルイ・ナポレオンは)メディアによって形成されるイメージが現実を形成することを意識的に実践した最初の政治家だといってもよい■
これに続いて著者斎藤の感想がくる。(■から■)
■ここまで読んで、私たちは忽然と思い当たる。こここ、これって、ほとんど二一世紀の日本じゃないの!?
三年で頓挫した民主党政権の後、圧倒的な支持を得て成立した安倍政権、特定機密保護法の制定から集団的自衛権の行使容認、安保関連法の成立まで、そいつが暴走しまくっている歴史の反復。いやいや、日本だけではない。二〇一六年の米大統領選で、希代の不動産王ではあってもなんの政治的実績もないドナルド・トランプがまさかの勝利を収めたのも、まさに「ボナパルティズム」の再来だ。■
「玉」に対する「石」の例は紹介する必要を感じない。文豪や大家によるものも含めて、「解説」なんて、いい加減なものが山ほどある。それが分かることも本書の楽しみである。
《「分からなさ」の説明に納得し時代の変化を知る》
第二点 分からない本はやっぱり分からないこと
小林秀雄を読んでも分からない。天才であるとか、日本における近代批評の創始者である、という評価は理解できない。これは私(半澤)個人が、ずっと思ってきたことである。斎藤は、『無常という事』、『モオツァルト』を引いてコバヒデ(小林秀雄)の難解さをこう書く。
■そうだった、思い出したよ。コバヒデの脳内では、よく何かが「突然、降りてくる」のである。こういう箇所を読む人は(少なくとも私は)鼻白む。しかし、小林にとってはこの「突然、降りてくる」が重要で、こうした一種の神秘経験を共有できるかどうかで、コバヒデを理解できるか否かが決まるといっても過言ではない。■
神秘体験を共有しないと理解できないという認識は、ある種の、徹底した小林批判である。これは「分からない本はやっぱり分からないこと」と思ってきた私への援軍となった。
第三点 文学観は随分と変化すること
本書が最初に取り上げる書物は漱石の『坊ちゃん』であり、その解説論である。
「発表以来、痛快な勧善懲悪劇と受けとめられてきた『坊ちゃん』。しかし、文庫解説の世界では、別のとらえ方がむしろ主流になりつつある。えっ、どこが?」と、斎藤は始める。「別のとらえ方」は、勧善懲悪劇論へのアンチテーゼとして、江藤淳らにより提起されたあと、いくつかの変奏を生んだという。一〇種を超える『坊ちゃん』文庫本の、対立的な解説を詳説した斎藤の、結論部分を次に掲げる。
■江藤淳や平岡敏夫をはじめ、『坊ちゃん』悲劇説を唱える解説者たちは、おおむねみんな大学人。江戸ではなく明治、坊ちゃんでなく赤シャツ、近代の勝者の側に入る人たちだ。その視点で見れば、学校を去った坊ちゃんは哀れむべき敗者、学校に残って出世する赤シャツたちが権威の側に立つ勝者である。だが夏川(宗介、医師。小学館文庫版『坊ちゃん』の「解説にかえて」の筆者)が指摘するように、庶民にとって、その程度のことは武勇伝のタネにこそなれ、敗北などではまったくない。むしろ学校を辞めたからこそ坊ちゃんはヒーローで、『坊ちゃん』は「痛快」なのだ。そうした読者にとって『坊ちゃん』=敗者の文学は意味不明である。■
《文豪の名作から官能小説まで》
以上の紹介で、「解説の解説なんて何が面白いのか」という本稿読者の疑問は変化したであろうか。
244頁の本書で、「解説」が論じられる作家・批評家は32名。
夏目漱石、川端康成、太宰治らの文豪・大家から、シェークスピア、サガン、カポーティ、チャンドラー、フイッツジェラルドの外国文学を経て、庄司薫、田中康夫、柴田翔、島田雅彦、吉本隆明、百田尚樹、渡辺淳一ら、同時代作家や批評家に至る。
本書の軽妙な表現に惑わされないこと。「解説の解説」という形式を借りて、本書は21世紀が直面する多様なテーマを論じている。ポストモダン色に糖衣された文学批評の力作である。私はそう読んだ。(2017/02/02)
■ 斎藤美奈子著『文庫解説ワンダーランド』、岩波新書1641、2017年1月刊、 本体840円+税
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0406:170206〕