断捨離とはいうけれど、時間ばかりがすぎてゆき、いろんな場所から、いろんなものが出てきて、手がとまる。先日、見つけたのが、白茶けたコクヨノートのジョギング日誌であった。東京の職場での昼休み、皇居一周を始めた1972年5月から、長女の妊娠がわかる1975年末までの記録であった。
1970年代といえば、マラソンブームのハシリではなかったか。身近な男性職員たちが、昼休み、皇居一周を走ってきたと汗をぬぐうのを見て、「まあ、ご苦労さまなこと」と思うことが多かった。
生家を出て、登戸に転居してまもなく、一人暮らしの緊張と不安や職場のストレスもあったのか、肩の凝りや背中の張りが気になるた日々だった。休日になると、住まいの近くの多摩川でも、土手を走る人をよく見かけていた。わたしもと、散歩がてら、少し走り始めたのが1972年春、まだ、土曜勤務があった時代である。日曜日というのは結構雑用で忙しく、長続きはしなかった。
そこで、同じ課の上司に先導されて、隣りの課の少し先輩のMさんと一緒に、そろりと走り始めたのである。1972年5月25日、職場から千鳥ヶ淵の土手まで10分走って、一休み、5分走ったとの記録である。5月中は毎日のように走って、1・2分の単位で距離を伸ばしている。6月7日には、皇居一周デビュー、4.9キロとのこと、30分かかっている。週に1・2回では、タイムはたいして縮まらず、いつも先をゆくMさんとは離れてしまうのだった。ときには、ほかの女性職員も加わり走ることもあった。コースは、社会党文化会館前の三宅坂から濠沿いに、最高裁判所、東条会館、国立劇場、英国大使館を左に見て、千鳥ヶ淵の土手に上がり、たいてい小休止をしたり、ストレッチをしたりする。グリーンコースと称して、北の丸公園に入ったりすることもあった。ずっと空き家だった?近衛師団司令部庁舎が国の重要文化財に指定され、竹中工務店による改修工事始まりかけていた。皇居前の広場の砂利は、走りにくかった。団体の観光客にもよく出会う。やがて、桜田門前を通り過ぎて、出発地に戻る。
こんなミニ・ジョギングでも、走っているさなかは、体調によって息苦しくなったり、脚が痛くなったりするが、走った後の爽快さは、それまでに体験したことのないものだった。そして、もう一つの楽しみは、濠端の風景が四季によって、さまざまな表情を見せてくれること、千鳥ヶ淵の土手の草木の営みを肌で感じられることであった。
春は、濠沿いの柳、土手の桜、斜面の菜の花と馬酔木、対岸の連翹。躑躅の季節を過ぎると、紫陽花や夾竹桃・・・。当時の都心は、毎日のようにスモッグに覆われ、車の渋滞も日常茶飯であったようだ。土手の残雪を踏んで、椿の花にも癒された。クサギの花とかトベラの実なども初めて知った。ランナー仲間からは、セイヨウタンポポとカントウタンポポの違なども教えられたりもした。
まだ、女性のランナーはめずらしかったのだろう、すれ違った年配の男性からは、「警視庁の方ですね」と手を振られることもあったし、巡回中の二人連れの警官には、「ご苦労様です!」と敬礼をされたこともあった。
男性職員のランナーは、マラソンクラブを立ち上げ、数カ月に一度記録会を開催、20人近くが参加しているようで、その記録が私の日誌に、何枚か貼り付けられている。1972年10月31日の記録会(快晴、少し強い北の風、正午の気温19.4度、湿度34%)では、25歳から48歳、18分28秒から29分56秒まで。また、クラブの会員はこぞって、青梅マラソンに参加していたらしく、手元には、第10回「青梅・報知マラソン大会」(1976年2月15日)の記録票がある。手書きのコピーで、だいぶ劣化している。30キロのコースに22人が参加、完走16人、トップが32歳のKさん、全体の完走者3382人中623位、2時間4分21秒、51歳のNさんは3時間23分で完走した歓びを「感想欄」に記している。いつもの記録会で、トップを争っていたMさんは18キロで徒歩、棄権とあった。欄外には、「1位ビル・ロジャース1:33:06」、「394位美智子・ゴーマン1:57:37」と記されていた。1972年には全国で「走ろう会」ができ始め、1976年には『ランナーズ』が創刊されている。
第10回青梅・報知マラソンのマラソンクラブ、面々の感想が面白い。下から6人までが棄権したらしい。
左が山田敬蔵さん、真ん中が美智子ゴーマンさん。ネットから拝借した写真です。
私のマラソン歴?は、名古屋への転職と出産でひとまず終わる。以後、子育てと仕事でそれどころではなかったからか、名古屋では、夫の方が、マラソンにはまることになる。朝食前、出勤・退勤時、休日の天白川の土手・・・と、走っていた。娘が小学校に上がると、私と娘、三人で、天白川の記録会に参加するようになった。夫と娘は、名古屋の市民マラソン大会などにも参加するようになった。そして、夫は、とうとうフルマラソンにも挑戦、篠山の生家の前の道がコースとあって、完走したのである。1986年には、車山高原のマラソン研修会なるものに三人で参加、私にとっては、あの頃がマラソンならぬジョギングのピークだったかもしれない。
1988年、夫の転任に伴い、千葉の佐倉に転居、私も転職し、片道8キロの自転車通勤を5・6年は続けただろうか。冬の帰り道は、もちろん真っ暗になった畑道や大型トラックが行き来する”産廃道路“を、漕ぎに漕いで・・・、よく事故に遭わなかったかと、今考えると恐ろしくもなる。その後、夫の方は、NTTの墨東マラソンや富里のスイカマラソンなどにも参加していたが・・・、だんだん仕事も忙しくなり、遠のいていったのではないか。
次は、ちょうど半世紀前の『ポトナム』のコラムに寄稿した短いエッセイだが、これも、日誌のノートに貼りつけてあったものである。かなり気負いも見えるが、いま日誌を見ながらの思い出と、さして変わりがない?!
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なにも走らなくても、と人は言う。私もそう思っていた。昼休み、マラソンにと飛び出して行く同僚を笑っていた。運動不足の解消といったってほかにいくらでも方法があるだろうに、この排気ガスの中を。そんな私がついに走り出してしまったのだ。職b座の裏手になる三宅坂を起点に、桜田門、皇宮外苑、大手門、竹橋、乾門、千鳥ヶ淵を経て、内堀通りの英国大使館、最高裁判所庁舎前に戻る約五キロのコースを、若いひとは二十分前後で走る。
都心の風は思いのほかやさしかった。街路樹の芽吹きを、濠端を飛ぶ水鳥の影を、土手の草いきれを風は確かに伝えてくれた。いまは、木枯らしも冬の汗に快い。だが頭上にのしかかる高速道路、荒れるにまかせた近衛師団司令部の洋館、スモッグに霞む国会議事堂が問いかけてくるものは、いつも暗くて重い。それでも走り続けるのはなぜだろう。自らの新しい汗と一緒に、いまの自分の曖昧さがいくらかでも噴き出せるものならばと・・・。だがうつむくほかない。が、走りつけてみよう。ゆっくりと。(『ポトナム』1973年1月号所収)
初出:「内野光子のブログ」2024.2.19より許可を得て転載
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