新局面を迎えた普天間問題  政府対沖縄の対立構造浮き彫りに― 沖縄から(1)

「日本政府」は3月22日、普天間基地の移転先として、名護市辺野古沿岸の埋め立て申請を沖縄県知事に提出した。これにより、普天間問題は新たな局面を迎えることになった。それを簡単にいえば、普天間基地の建設は「米軍対沖縄県民の闘い」だったが、その代替基地の建設は「日本政府対沖縄県民の闘い」になったということだ。これほど沖縄基地の歴史的変遷を象徴する「事件」はない。沖縄にとっては、日本とは何かを問う問題である。

 そもそも普天間問題とは何か。今でこそ海兵隊基地として、抑止論で論じられているが、元はといえば、沖縄戦の真最中に、本土爆撃のために米軍によって沖戦で初めて建設された飛行場である。1945年4月1日、沖縄本島に上陸した米軍が狙ったのは、日本軍が構築した読谷飛行場(北飛行場)、嘉手納飛行場(中飛行場)、小録飛行場(現那覇空港)、伊江島飛行場などであった。早くも4月9日には米国海軍元帥ニミッツによって米海軍軍政府布告第1号が発布され、南西諸島における日本帝国政府の一切の行政権が停止された。

 第32軍司令部が首里から摩文仁へ撤退を開始したのは5月27日だった。そして牛島司令官が自決したのが6月23日未明。これにより沖縄での日本軍の組織的抵抗は終わったとされるが、日本軍の無条件降伏調印が行われたのは9月7日だった。場所は米軍基地に変わっていた嘉手納飛行場。日本が無条件降伏した8月15日の後だった。

 米軍は、牛島中将が自決した6月には普天間飛行場の滑走路建設に着手していた。しかし、米軍基地建設が本格化したのは、1952年4月28日に発効した対日講和条約、日米安保条約、行政協定の後である。1947年5月3日、日本国憲法が施行されたとき、沖縄県民はまだ法的には日本国民であった。しかし、対日講和条約第3条によって沖縄が米国の施政権下に分離されてから、沖縄は日本の視野から消え去り、“忘れられた島”の無国籍者として本格化する米軍の基地建設に対峙しなければならなくなった。

 講和条約発効後の1953年4月3日、米軍は土地収用令(布令109号)を施行、4月11日から武装米兵による土地の強制収用が始まった。1954年3月17日、米国は強制収容した軍用地料を米軍の決めた賃借料で一括払いし、永久的な使用方針を発表したことから、いわゆる“4原則”をめぐる“島ぐるみ闘争”が起こり、現在の反基地闘争の根底となる闘争となった。
 なかでも1955年3月17日、普天間基地建設に伴う伊佐浜地区の強制収用は、武装米兵による「銃剣とブルドーザー」による弾圧収用となり、沖縄県民に広く知られるようになった。この闘争は、忘れられた島の県民だけの“孤独な闘争”だった。

このようにして建設された普天間基地の返還要求に対して、今度は米軍に代わって日本政府が立ちはだかり、代替基地を強権によって辺野古に建設するという。圧倒的な日本国民も見て見ぬふりをする。
しかし、沖縄県民の自らの存在をかけた闘いを、もはや無視はできまい。たとえ、「アメとムチ」で日本政府が仲井真知事を抱き込み、埋め立て認可を取り付けようとも、沖縄県民の抵抗闘争の構図が米軍から日本政府に移っただけである以上、闘争が止むことはない。沖縄の問いかけに本土国民がどう答えるかである。

山根安昇(やまね・あんしょう)氏略歴
1939年 石垣市生まれ
1965年 琉球新報記者
1969年 沖縄県マスコミ労協議長

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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