日中関係を考えるための基礎文献 -王元の著作*について-

*王元『中華民国の権力構造における帰国留学生の位置づけ、南京政府(1928~1949年)を中心として』、白帝社、2010

 本研究は日本の中国侵略期に留学生として日本に学んだ中国人の帰国後の活動をテーマとした著作である。著者によれば1840~1945年の中国人留学生は15万人であったが、うち11万人は日本留学生であった。2番目はアメリカ留学で2万人である。

 私は本書を読んで、日本で学んだ中国留学生が多かったこと、かれらが中国史でこれほど大きな役割を果たしたことを初めて知った。しかし。日本はその歴史に生かせなかったのはなぜかと考え、さらに概説書や研究などを読んで、孫文や蒋介石、留学生が働いた南京国民政府について基本的な事実をおさえ、日本人の中国人への対応の問題点を知り、今後の日中関係を考えていくための出発点にしたいと考えた。

 1949年の中華人民共和国成立のさい、農村からきた共産党の幹部や人民解放軍の兵士たちが都市の生活や文化に慣れるのは容易でなかった。民間企業や公共機関のスタッフから協力者を選び、また欧米や日本に留学していた5500人のうち53年までに約2000人が帰国した(久保亨他『現代中国の歴史』、東京大学出版会、2010、170)。共産党は革命直後から知識人の「改造」を指示し、胡適ら自由主義的知識人批判もおこなった。56年のソ連のスターリン批判のなかで中国も「百花斉放・百家争鳴」政策をとったが、それは共産党への批判を呼び起こした。それに対して57年6月以降、「反右派」闘争がおこなわれ、学生・知識人・専門家が攻撃された。同じような攻撃は、66年からの文化大革命によってもおこなわれる。王元は、1995年ごろ上智大学で反右派運動について研究し1280人の「大右派」とされた人物の資料を分析した時、留米学生に比べ留日学生が僅かであることに気付いた。すなわち、「大右派」のなかで、留米学生が300人強であったのに対し、留米学生の6倍以上の留日学生では17人にとどまっていたのである。これが、帰国留学生について興味をもつことになったきっかけということである(147)。

 このような問題意識の下に、著者は、南京国民政府期の留学生6000人について、留学先・学歴・学習内容・留学期間・帰国後の地位についての詳細なデータ・ベースをつくった(35)。これは留日学生の20分の1、留米学生の10分の1にあたるとのことで、この膨大な資料を統計的に正確に整理したものが、本研究の基礎となっている。

 帰国留学生の活動分野は留日と留米で相反する特徴をもっている。すなわち、分野を軍・党・政・教育・科学研究 の順で並べると、留日は軍・党・政の側に、留米は教育・科学研究の側に集まる。このように、帰国後の状況に着目して新たな研究分野を拓き、留学先別に特徴を引きだした。本稿では、1でその主要部分である第3章、第4章の要旨を紹介した。

 ここで分析する帰国留学生の中国史における影響、役割、地位は、留学先の国や地域の中国史に与える影響、役割、地位と混同されることがあるが、後者は本研究の主目的ではないと断っている(108)。その部分について考えるため、本稿では2を付け加えた。

王元の著書構成は次の通りである。

第1章 課題と意義 ( 問題提起  枠組みと方法  先行研究  資料と史料 )

第2章 近代における中国人の留学 ( 背景  日本留学 米国留学 欧州・ソ連留学各時期  各国の態度 )

第3章 南京国民政府における帰国留学生 ( 1927年以前の国民政府  南京国民政府内外の権力関係  統計方法  帰国理由学生の勢力の変遷  学歴の総括と分析  上中下層への分布  各部への分布)

第4章 中国社会各領域への進出 ( 軍  政党など  教育研究 ) 

第5章 政治傾向の形成  (ミクロ的分析  マクロ的分析  留日・留米学生の帰国後 の関係)

第6章 結論と今後の課題

付録   南京国民政府成員学歴総表  参考文献

1.王元の研究について 

1) 南京国民政府における帰国留学生(王元著書 第3章要旨)  

 国民党結党以来、革命政党として党が最高政治機関であるべきと考える左派が強大であり続けた。しかし、蒋介石は国家統一を成し遂げるため政府と軍に依存して左派を党内から一掃した。各地の軍閥や政客が南京に殺到し、1929年には行政院の10の部のうち4つの部長職が国民党の手を離れていた。この状況のなかで帰国留学生が重要な役割を果たすようになった(85~86)。

・南京国民政府以前の国民政府(第1節、86)  

 1924年の第1次国民党全国代表大会の5人の主席団は全員が留日経験者であった(91)。27年以前の国民党政権の内閣(各部の総長、部長など)のなかの留日学生の比率は40%でしかも最上層を占めた。国民党中央執行委員会でも45.3%を占めたが、留米学生の比率は12%であった。張海鵬の研究によると、しばしば移転した国民党政権の幹部は、一貫して留日学生が過半数かそれに近い比率を占めた(89

・内外の権力関係(第2節、91)

  法理・制度の上では、党が政府と軍を指導することは孫文以来の伝統で、最高機関は国民党中央執行委員会中央政治委員会議で、治権はこれを中心として国民政府が行なうことになっていた。しかし、国民党軍の政権内における地位と権勢は、実質的に国民党よりも上で、藍衣社など黄捕系の軍人団体が力を振るった。蒋介石は、絶えず職権を拡大した国民政府の主席であるとともに行政院長で、国家元首が陸海空三軍総司令を兼ねていたので、南京政府は本来あるべき地位にはなかったが、権力構造内の重要な一部ではあった。これが国民政府等の分析を必要とする理由である(103)。政府の組織は、制度化、法律化や帰国留学生の任用などたゆまぬ努力をおこなった。 

 藍衣社の文書は南京陥落前と1949年に処分されたので、組織の背景分析のためには、ランダムサンプリング法で全貌をうかがう他はない。南京政府は蒋介石集団の政府にすぎなかったとの批判もあるが、簡単にそのようには言えない。

 南京国民政府は一面では孫文の思想的影響を受けているが、他面では国民党の「党国(党天下)」である。孫文の「三民主義」「五権憲法」の思想は、行政院、立法院、司法院、考試院、監察院からなる五院制政府を生んだが、実際は行政院優位であった(104)。したがってここでの分析は行政院が中心となっている。

・統計方法に関する説明(第3節、108) 歴代政府における勢力の変遷(第4節、112) 

 勢力変遷を見ると、留日はこの期間に大幅に減少したが第1位を維持し、上層に集中し政府の要所を占めた、留米、留英は、留日に接近するが、外交と教育に限られ、非権力志向型である。留仏、留獨、留露・ソは、留日と留英の減少を補う。教会系・米国系は、外交部門に集中しているが、1930年代以降凋落する、国内の大学は北京大、実業・外交・教育部門が多く、北大の3分の1は留米経験がある。清華は当初留米予備校で留学できなかった者は敗北者とみなされた。軍事学校は、保定軍校、黄埔陸軍軍官学校は少数で、科挙も減少する。

・南京国民政府メンバーの学歴について総括と分析(第5節、120) 

 政府内で留学生が6割を占め、その4分の1が留日(内政と国防で要職の45%)を占めた、国内大学出身は、保定が7.4%  教会系大学14.8%  北京・清華・北洋11.6、計34%である。

・国民政府組織の上中下各層への分布(第6節、127) 

 状況は、131~133ページの表に示されているが、北京大は、派閥の形成がなく反政府の代表的存在であり、人文系が中心で技術官僚(財政経済・外国語に)の養成は少なかった、全体として上層ほど権力が集中し兼任現象が目立つ。

 南京政府各部への分布について見ると、留日-北大-科挙-留独-教会-留仏-留米-留英の順で、これは各集団の権力性の強さの順を表したものと言える、

 軍事留日学生は、権力の中の組織や機能性といった比較的具体的で固定された部分に、一般的留日学生は、権力の中の権威性など比較的抽象的で柔軟な部分に多い。

2) 帰国留学生の社会各領域への進出(第4章の要約)

南京政府以外の軍隊、政党、大学・研究組織について検証する、

・軍への関与(第1節、158)

 軍事費は、戦争のない1927~37年でさえ 財政支出の3分の2であり、軍人は29年には 国民党員の半数以上、35年党の中央執行委会の43%、党員省主席33人中25人を占めた。

 近代兵器、編成、訓練はドイツ式から日本の軍事制度と軍事用語に変えられ、1908年には70人の日本人将校と士官が招聘されていたのに対し、ドイツ人は5人であった。袁世凱は02年に55名を選抜して日本に派遣したが、04年日本の軍事学校に200人、07年520人余となり、11年中国陸軍の800名の軍人官僚が日本の軍事学校卒業生かそこで学んだ経験のある者でうち630名は士官学校で訓練を受けていた。

 国民党軍のトップはすべて日本留学生であったので、上級将校に占める留日生は20%を越えていた。黄埔軍官学校は設立が1924年と遅く政治学校の側面もあり30年代半ばに閉鎖されたためそれほど突出していたわけではない、保定軍校出身者の職業軍人の中での勢力は強かったが、政界への影響力は弱い。

 劉志強は、自然科学や工業技術を学んだ留学生は生産力の近代化に、経済管理、文学、芸術を学んだ留学生は生産関係とイデオロギーに作用し、政治、軍事、法律、外交を学んだ者は直接上部構造に作用したとする。留学生あがりの将校はプレステージが高く主導的役割を果たしたが、その役割は過渡的であった。

・政治団体への関与(第2節、182) 

 1905年に東京で設立された最初の近代的政党で国民党の前身、中国同盟会をはじめ、政治団体はほとんど留日学生を中心に結成された。11年の武昌蜂起指導者にも留日学生が少なくなかった。留日学生が中国統一の基礎を築いたのである。32年中華民国の中心人物(政府主席、政府委員、五院院長など)45人中留日は18人、留米は6人、45年の中国国民党第回中央常務委員会メンバー45人中8人(32%)が留日であった、40年代は国内組への権力移行期であった、国民党の留日組の多くは事実上は軍事関係で共産党の文科系と大きく違っている。中国人は日本を通じてマルクス主義を受容し、帰国して共産党に入った、毛沢東を除いて農民運動参加者で中央委員会のレベルに達したものはほとんどいない、共産党中央委員会メンバーは最初は留日、北大で、次第に留仏、さらに留ソへ、民主諸党派は、44年成立の民主同盟(民盟)と農工民主党((農工)について分析したが、大体において、留日学生が創った国民党と共産党に対して、民主諸党派の創立者は英米に留学した学生である。共産党は「土着化」を通じて「留日学生の党」とは言えなくなった。中国国民党革命委員会と台湾民主自治同盟を除く民主諸党派には「土着化」が見られず、基本的には留米学生に支配されている政党であった。

・文化教育と学術研究分野(第3節、210)

  1949年国立大学47校、私立大学が85校であったが、、学長級指導者の16.6%が留日、33.1%が留米である、国立中央研究院院士の9.9%が留日に対し60.5%が留米である、

 すなわち、軍事留日学生は日本の軍事思想と制度を中国軍部内に導入したのみならず、軍部の重要な地位を占めて政界の支持を取りつけ中国社会全体に影響を与えた。辛亥革命は、留日学生によって組織され、その指導の下に推進された。国民党の留日者の多くは軍事関係、共産党の留日者は文科系で理論型、留仏学生は実践型であった。欧米への留学生は大学教授や科学者、留日学生は初等・中等教育者の担い手となった、

3) 結び

 「人数及び組織力を後ろ盾として、留日生の影響力は中国社会のほぼ全ての面に及んだ。留日生の特に軍事、政治及び人文方面における影響は多大かつ深く、その中で最大の貢献は、中国国民党と共産党の創建を通して、中国統一のために思想と組織面における基礎を打ち立てたことにある。このため、多くの留日生が、民国期全体で、為政者の地位に就いた。・・・今後中国の近代化の前進に伴い、留日生の祖国統一の基礎を打ち建てた貢献は、適切な再評価がなされるであろうことを信じている。」(268)

 「第3章では主に、縦(上・中・下層)と横(国防、内務、外交、教育などの各部)、時間(歴代政府)というこの三つの軸をめぐり、南京国民政府内の帰国留学生について三次元の立体分析を行った。」(268) そして、軍事留日生ばかりでなく一般的な留日生も強い権力傾向を備えていたとしている。

2. 背景、補足、感想 

1) 孫文の三民主義と毛沢東の新民主主義論

 王元は、「特に、改革開放以後、共産党は次第にマルクス・レーニン主義を放棄し、認識と行動の両面においても日増しに孫文思想へと回帰している」(230)と書く。大陸と台湾両者の交流は盛んになり、接近が進んでいるかに見える。

 孫文の三民主義は、民族主義、民権主義、民生主義からなる。 民主体制は、1906年の「軍政府宣言」によれば、3年間の「軍法の冶」、6年間の「約法の冶」、「憲法の冶」の三段階を経て実現される(外務省調査部編『明治百年史叢書 孫文全集』中、1967、7~11)。これは19年の「建国方略」の第一章心理建設(孫文学説)で軍政、訓政、憲政と呼ばれ(同上、上567、『孫文』第2巻、伊藤秀一他訳、社会思想社、1987、91)、始めは大元帥による軍事独裁体制、第二段階には地方議会を置いて部分的な民主化をおこない、第三段階では「国民ハ大総統ヲ公挙し、議員を公挙シ、国会ヲ組織シ、一国ノ政事ハ憲法ニ依リテ之ヲ行フ」(外務省、前掲書、中、10) 。28年6月、南京国民政府が全国統一を実現し、軍政期の終息を宣言し、国民党独裁の訓政期にはいり、革命政党による政治的軍事的支配が始まる。

 国民党は、三民主義の理念を前提として、あらたに連ソ、容共・農工援助の三大政策、軍閥打倒、反帝国主義のスローガンを掲げ、国民の支持を得ていたが、1925年の孫文没後、蒋介石は、後述するように27年までに反ソ・反共に転換した。蒋は三民主義「約法の冶」を開始し、国民政府は1940年4月孫文を「中華民国国父」と称するよう通令したが、宋慶齢は蒋にそのような立場を認めない。汪兆銘も40年3月に日本軍の庇護の下に南京に「遷都」したさい三民主義を掲げた(安井三吉「毛沢東の孫文・三民主義観」、藤井省三・横山宏章編『孫文と毛沢東の遺産』、研文出版、1992、218)。

 中国共産党は、当初三民主義を支持したが、1927年12月には全面的に否定、王明は「大中華民族主義」と批判したが、35年のコミンテルン第7回大会では中国共産党こそ孫文の革命的伝統と理念の継承者と述べた。しかし西安事件後変り、、毛沢東は、37年3月スメドレーとの会見で、「われわれは早くから三民主義を信奉してきました」(藤井、同上書、228)と言い、40年1月の「新民主主義論」で、三民主義の政治原則は、中国の民主主義革命の段階における共産主義の政綱と基本的に等しいとした上で、違っている点をあげた。すなわち、1. 民主主義革命の段階においては、人民革命の徹底的実現、八時間労働制、徹底的な土地改革といった綱領がない、2.社会主義革命の段階がない、3.弁証法的唯物論と史的唯物論の世界観がない、4.理論と実践との一致がない、の4点である。

 孫文、毛沢東ともに党の独裁による統一を追求し経済を発展させようと考え、1923年国民党に共産党員がはいるという形で、また解放区という形で、社会主義を追求した。

2)  蒋介石と南京国民政府

 辛亥革命後、1913年7月12日の第二革命(議会重視に不満の李烈均ら国民党急進派が挙兵、南方各省が独立して袁世凱を倒そうとしたが失敗)、袁世凱の帝制復活に反対する第三革命(1915~16)、軍閥割拠の時期を経て孫文没後の25年広州に革命の政治・軍事拠点の構築に成功し26年7月北伐を開始する。孫文は「建国方略」で軍政・訓政・憲政のプログラムを提示していたが、国民党は28年に五権憲法の構想によって五院を設置し、10月3日に採択した「訓政綱領」であり方を決めた。すなわちこの訓政の期間は、国民党全国代表大会が国民を代表し政権を行使するがその閉会中は党中央執行委員会に付託される、国民政府が五権を執行するが重大な国務の執行は党中央委員会政治会議が指導監督すると規定した。10月8日、国民政府主席(兼陸海空総司令)蒋介石ら最高責任者を決定した。

 中国共産党は、1921年7月第1回全国代表大会を開き陳独秀を総書記に選び、22年にコミンテルンに加盟した。23年1月孫文とソ連代表ヨッフェは共同宣言、10月にはボロディンを顧問とし国共合作をおこなった。それは共産党員が党籍を保持したまま国民党に加入する(二重党籍)という形態であった。24年1月の国民党第1回全国代表大会で承認される。25年6月蒋介石を校長とする黄埔軍官学校が設立され、将校を養成し7月に広州に国民政府を、8月に党軍として国民革命軍を発足させる基礎となった。このころの国民党内の蒋の地位と名声は、胡漢民、汪兆名らに比べ低かった。26年1月に広州で開かれた国民党第2回全国代表大会の代表256名中90名が、中央執行委員と同候補のほぼ4分の1が共産党員であった。このとき国民党左派の汪兆銘が国民政府主席であった。蒋は孫文没後1年は共産党との協力を求めていたが、3月に反共クーデター中山艦事件を起こすと汪は抗議してフランスへ去った。蒋は、6月に国民革命軍総司令などとなり、7月に広州から北伐に出発した。26年11月武漢へ遷都、27年1月に活動を開始し、駐留した南昌に中央党部・政府をおくよう主張、汪は27年4月1日帰国して武漢にはいった。4月12日、蒋は上海の共産党政権を武力鎮圧、18日に南京に反共の国民政府を樹立、7月15日武漢政府から共産党を分離し、武漢、南昌が分裂後8月に下野を宣言し、9月29日~11月7日、日本に滞在した。

 1927年12月1日蒋介石は、宋美齢と結婚し、後30年10月に洗礼をうけキリスト教徒となる。孔の夫人宋愛齢、孫文夫人宋慶齢とともに三姉妹によって、宋、孔、蒋3家族が結びつき、それを後ろ盾とした。宋慶齢は蒋に対抗してソ連に支援を求めたが、おりから27年11月にトロツキーが党から除名されヨッフェは自殺、スターリンは中国革命を支援しない方針をとった。汪が27年12月西欧に去り、12月に広州コミューンが成立するなかで、蒋は28年2月国民革命軍総司令に復活、会議で連ソ容共のすべての決議を取り消し、対ソ国交を断絶した。蒋は中央政治軍事会議主席・軍事委員会主席に就任し、1928年4月第二次北伐を開始し、6月に北京に入城、10月南京で国民政府は蒋を主席として訓政を実施、12月張学良も加わり、法制上、全国が統一された。29年6月蒋介石は孫文の遺体を北京から南京に移し、建設した巨大な陵墓中山陵に埋葬した。こうして孫文の後継者であることを示したのである。このとき宋慶齢も参加したが、8月にベルリンの国際反帝連盟あての電報の形で、蒋介石を国民革命の裏切り者として攻撃した。

 蒋介石は、1887年生まれで、1907年に日本留学、振武学堂に入学、09年11月日本陸軍第13師団野砲兵第19連隊に士官候補生として入隊、日本に立ち寄った孫文と会った。11年帰国して中華革命党に入党した。24年黄埔軍官学校創立とともに校長として、国民党の軍隊の創出にあたったが、その際、日本陸軍での経験は役立った。

 蒋介石は長い展望をもち重要案件にさいしては沈着で気迫をもって処断したが、身近な短期的刺激に対しては衝動的な反応を示した(黄仁宇、北村稔他訳『蒋介石 マクロヒストリー史観から読む蒋介石日記』、東方書店、1997、244)。共産党を投機的で狡猾な態度をとり信義を顧みないと非難しているが(同上書、201)、他方では政治生活はすべて権謀術数で、道義など問うまでもない、とも書いている(同上書、207)。また蒋介石軍について、将校たちは「五つの不和」として、政府と軍、党と軍、人民と軍、軍と軍、将校と兵をあげ、三つの気にかけてならぬこととして、たたかい、人民、自分を挙げている(ジャック・ベルデン、安藤次郎他訳『中国は世界をゆるがす』下、筑摩書房、1953、148)。 

 野村浩一は、蒋介石について、強烈な個性の持ち主で、国民党が複雑かつ多面的なこともあって行動、思想、意識は十分に明らかにしにくい(野村浩一『蒋介石と毛沢東』、岩波書店、1997、410)、としている。様々な側面と幅広い視野をもち国際関係の中で判断していたように思われる。彼の功績は、中国の統一で、毛沢東がそれを完成した。これが南京国民政府のトップ、蒋介石のプロフィールである。 

3)  留学生の日本での生活と対日観

 留学生は日本でどんな生活をし、日本についてどう考え、なにを学んだのであろうか

 2008年の中国人の日本留学生は約7万3000人(台湾からの留学生を含まない)で、留学生12万4000人の6割を占めているが、清国期には大学は少なく、中華民国の日本侵略期にはおもな大学が重慶などに疎開するなど国内の教育条件が悪く、留学生、とくに日本留学生の役割が大きかった。

 日本は、中国に近く比較的安く渡航でき、日本語の習得が容易であったことなどから多くの留学生を受け入れてきた。清末の啓蒙家梁啓超は1899年に、英文の習得は5,6年かかるが、「日本文の学習は、数日で小成し、さらに数日で大成して、日本の学はことごとく自分のものとなる」(伊東昭雄他『中国人の日本人観100年』、自由国民社、1976、66)と日本留学を勧めている。かれらは、先んじて西欧化・近代化した日本を通じて軍事技術、科学技術、社会科学を学ぼうとしたのである。

 清末の留学については、厳安生『日本留学精神史、中国近代知識人の軌跡』(岩波書店、1991)に詳しいが、清政府は辮髪を切らないよう監視したため子供たちに笑いはやされ、上層から選ばれたため日本の畳敷きの狭い家屋では不自由であった。日露戦争のさいには、留学生も日本の勝利を喜び興奮したが、1904年10月帝大教授戸水寛人が、「今日本人ガ数十万ノ兵ヲ発シ血ヲ流シ財ヲ費シテ満洲ヲ占領ス誰カ無代償ニ之ヲ支那ニ還付スルモノゾ」(厳、182から再引用)と書いていることも紹介する。辛亥革命のさい武昌蜂起に真っ先に呼応した昆明で新軍の一斉蜂起を画策・指揮した将校21名のうち19名は日本士官留学生、雲南省内要地で統一行動を指揮した将校や活動家も19名中14名は日本留学生であった(厳、203)。魯迅は1907年から7年間日本に留学し仙台の医学専門学校で学び、「藤野先生」に、教室で見た幻燈で日本軍に捕えられた中国人が銃殺される場面で学生たちが上げた歓声がかれの進路を変えさせ仙台を離れたと書いた。1903年に来日して法政大学で学んだ陳天華は、「清国留学生取締規則」に抗議して自殺したが、日本の新聞が規則に反対する留学生を放縦卑劣と非難し、嘲笑、愚弄したとを記している(玉嶋信義編訳『中国の眼、魯迅から周恩来までの中国観』、弘文堂1959、12)。

  辛亥革命後、二十一カ条に抗議するため、留学生代表が神田の中華料理屋で秘密会議をおこなっていた汪洪玉らは、治安を乱すと踏み込んだ警官に逮捕された。孫文は、1924年に日本での記者会見で「もしアメリカが日本に二十一カ条の要求をつきつけたら、日本は

 それをうけいれようとするでしょうか」と言っている(玉嶋、24)。「西洋覇道の走狗となるのか、それとも東洋王道の守護者となるのか」(伊東、165)と日本の対中姿勢を問うた。蒋介石は1935年に、「現代科学と武器を除いて、日本国内のすべてのものは、完全に中国のものを学んだものだ。・・・中国のものを学んで中国を侵略し、中国を消滅しようとしているのだ」(同上、214)と講演した。

 河上肇は、留学生を通じて、また中国語に翻訳出版された多くの著作を通じて、中国に大きな影響を与えた。毛沢東は、日本の学者にそのことを語っており(竹内実『毛沢東ノート』、新泉社、1971、68~69)、周恩来も河上の『社会問題研究』の熱心な読者であったという(松原谷夫、『朝日ジャーナル』1980.2.8, 28)。日本語に翻訳されたマルクス主義の文献などはかなり読まれたようである。

 ソ連崩壊後、大量に古書店にでたレーニン全集などが留学生に買われていると聞いたことがあるが、いまの中国人留学生も、経営学を学ぶばかりでなく、社会主義について深く考えているように思う。私が大学で一度社会主義論の講義を開いたとき、かなり広い教室が留学生ばかりになり、レポートの内容が優れていたのに驚いたことがある。

 日本人は、欧米への留学生と違って日本への留学生が、なぜ中国で侮日、抗日の源となるのか不思議だと言う。郭沫若は、1936年に日本の国民教育の根本が忠君愛国であるからだと答えている(伊東、前掲書、240~241)。スメドレーやスタインは、八路軍の地域で捕虜となった日本人兵士の様子を報告しているが、ある兵士は日本にとっての危険は語ったが中国人の苦しみについては一言も語らず、ある兵士は、「僕らはつまらない人間です」(アグネス・スメドレー、高杉一郎訳『中国の歌ごえ』、みすず書房、1957、324)と言った、と書いている。教育の根本が間違っていたのであろう。

 また戸部良一は「支那通」について、「彼らは自分たちが共鳴し援助してきた国民革命であるだけに、その国権回復運動が日本を特別に例外的な特別あつかいにするものと信じ込んだ」(戸部良一『日本陸軍と中国、「支那通」にみる夢と蹉跌』、講談社選書メチエ、1999、224)。それは中国理解が一面的であったためではないかと記す。私がコミットした留学生関係の仕事でも、このような思い込みが残っていると感じられることがあった。

終わりに 

 1945年に閻錫山の下で国民党軍の一部として八路軍と戦い、1954年に帰国したもと日本軍兵士奥村和一は、軍命令で残留したのであるが、残留兵2600人中550人が戦死したとのことである。1990年以降、この問題について調べて、次のような事実を書いている。司令官は澄田來四郎中将であったが、かれはA級戦犯の容疑がかけられており、「八路軍との戦いの功績と引き換えに自分たちの身分保証を画策して、戦後日本での延命をはかろうとしたようなのです」(奥村和一・酒井誠『私は「蟻の兵隊」だった』(岩波ジュニア新書、2006、38ページ)。帰国してはじめて現地除隊になっていることを知った奥村は、そのはずはないと思い防衛庁で資料を調べたが、情報公開法が施行された後、一部削除されていた。「閲覧させてはいけない部分をぜんぶ抜き出して、新しく製本しているわけですよ」。日本という国は恐ろしい国だと思いました、と書いている(奥村、128~129)。

 基本的データがそのまま保管・整理されなければ、中国を侵略した日本は戦後歴史を正確にふりかえることは不可能になる。

 第二次世界大戦では、ソ連は2700万人、中国は1000万人の犠牲を払って反ファシズム連合国の勝利に最大の貢献をおこなった。中国を承認したのは戦後27年を経た1972年であり、ソ連とはいまだに講和条約を結んでいない。そもそも中国、ソ連は日本をファシズムの支配から解放したのである。ところが日本政府、日本支配層は、奥村の本で示されているように、現在も昔と同じように、外国人・日本人の人権を少しも守ろうとしていない。

 このままでは、いま日本に留学している中国人は、帰国後日本に戦前と違った態度をとることは期待できない。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  http://www.chikyuza.net/

〔opinion0453 :110510〕