日中首脳会談で大東亜戦争を語れるか(1) ―『保守と大東亜戦争』を読んで考える―

著者: 半澤健市 はんざわけんいち : 元金融機関勤務
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 靖国神社秋の例大祭への閣僚の集団参拝はピタリと止んだ。安倍晋三が習近平に会いに行くからである。この「ピタリ」ほど、政治家のご都合主義と軽薄な信念を示すものはない。

《リベラル保守による「保守言説」の再評価》
 著者中島岳志(なかじま・たけし、1975~)は大学へ入った1994年に、西部邁の『リベラル・マインド』(1993)を読んだ。この一冊は中島の人生に「決定的な意味」をもったという。
「保守」とは、人間に対する懐疑的な見方、理性の万能性への懐疑的な見方であり、他者との対話や議論を促進し相手に理があれば協議の上で合意形成するのが「リべラル」である。「革新」とは、理性への全面信頼、設計主義への確信、システムによる統治といった合理主義の思考であり、「自由」を抑圧する方向に傾斜する。彼が読み取った「リベラルな精神」をとは、おそらく、以上のようなことであった。

 さて、戦後政治を支配した自民党政権が、左翼の革新政策―広義のケインズ政策―を先取りしつつ高度成長を達成するなか、革新左翼は万年野党として保守政権を補完してきた。
この分析は戦後の政治経済論に伏流した言説である。私(半澤)は、とくに1960年以降には、金融社会の実務家としてこの認識を容認してきた。
今世紀に入り小泉政権による新自由主義、安倍政権による大国主義の政策が進んだ。
いまや改憲が具体的な日程にのぼりつつある。そのとき、「改憲が革新で護憲が保守」だという逆説的なテーゼは、具体的にどう作用するのだろうか。

本書は、戦後に「保守派」、「保守反動派」と呼ばれた知識人の言説を精読して再評価を試みている。内容は、西部邁グループの月刊誌『表現者』に連載したもので、登場する保守派の名前を登場順に掲げると次の通りである。

田中美知太郎、猪木正道、竹山道雄、下中彌三郎、河合栄治郎、福田恆存、池島信平、山本七平、会田雄次、林健太郎、田中正明、小堀桂一郎、中村粲である。

《「ビルマの竪琴」の竹山道雄は》
 上記の論者は職業、世代、思考も異なるが中島は、彼らの思考や言説には聞くべきものが多かったという。たとえば哲学者の田中美知太郎についてこう書く。
田中はここではっきりと浜口雄幸内閣のような「リベラル派」を支持し、超国家主義からは距離をとっていました。彼は満州事変以降の「軍閥の独裁政治」を「いつわりの神聖観念の上に強行された」ものと捉え、「にせ天皇」が氾濫した歪(いびつ)な時代と捉えていました。軍閥独裁政治に対する嫌悪感を露にし、「二度とくりかえし経験したくない時代」と明言していました。/彼は戦前・戦中を主体的に経験し、戦後、保守の論客として活躍した人物でした。/その彼が、大東亜戦争に至るプロセスへの嫌悪感をつづり、超国家主義に対する痛烈な批判を展開していたのです。私は驚くとともに、田中の論理に強い説得力を感じました。保守派だからといって、みんなが大東亜戦争に至るプロセスを肯定的に捉えていたわけではない。超国家主義に対して懐疑的なまなざしを向けながら同時代を生きていた保守思想家が存在する。そのことに安堵するとともに、ここに忘却された重要な論点があると直感しましたからが引用部分。「/」は中略を示す)

これを機に中島は保守論客の回想を読み漁った。
次に竹山道雄の反共言説に関して中島が引用しているところを挙げたい。
ドイツ文学者竹山道雄は、『ビルマの竪琴』で知られる。私は、1947年頃に、児童雑誌『赤とんぼ』に連載されたのを読んだ記憶がある。

既定の前提から発する「上からの演繹」は、論理によって事実をゆがめてしまう。「天皇制ファッショ」がそのプログラムにのっとって歴史をつくったとする進歩主義の主張も被告たちが全体としてはじめから侵略の野心を蔵して共同謀議をしたとする極東裁判の判決も、共にこのあやまちを犯している。/はじめに原始共産社会があって、それから階級闘争の悪の歴史がつづき、最後に文明共産の理想社会に達するという、科学的理論の感情的に訴える部分が、ここには素朴な形で再現している。そして、この将校が熱心に説く国体明徴をきくと、そこに思いうかべられている一君万民の天皇とは、国民の総意の上にたつ権力者で、何となくスターリンに似ているもののように思われた。/革新勢力は、政党・財閥・官僚・軍閥による「天皇制」を仆そうとして、ついにはほぼ所期の目的を達した。その無謀な対外政策の結果、戦争はいよいよ広範囲に深刻となり、ついにはぬきさしならぬどたん場まで追いつめられた

ここで「既定の前提」というのは唯物史観的思考のことである。ビルマの戦場で日英兵士が戦闘の合間に合唱で交歓する。「埴生の宿」を唄い合う。一人の兵士はビルマに残って戦友の遺骨を回収する。市川崑はこの作品を二回も映画にした。そいう叙情的な作品の書き手が、上記のような反共の言辞を発しているのに驚く。それを想像もしなかった自分は何を見ていたのかと思う。

《中島の革新批判はハンパでない》
 今のところはサワリの抜粋だ。全体に中島は、竹山の「ぬきさしならぬどたん場まで追いつめられた」論に同調的な記述をしている。それは彼のいう無謬と独断を内蔵した「革新」の思考が「どたん場」へ繋がりやすいからである。中島の「反革新」思考はハンパでない。しかし中島は全ての保守論客の発言に共感しているわけではない。(続く)

中島岳志『保守と大東亜戦争』、集英社新書、2018年7月刊、900円+税

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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