日本の文化にとって原発はどのような存在であるか

2011年11月3日 連帯・共同ニュース第181号 

9条改憲阻止の会

■ 田舎の農家で育った僕は農作業をよく手伝った。特に取り入れ時期には家族総出の作業だったから、収穫の喜びはよく知っている。秋祭りの楽しみはよく分かった。夏祭りには心踊らされるものもあったが、それでも秋祭りには格別のところがあったのだ。かつての新嘗祭は秋祭りの象徴というべきところがあったのだろうと想像できる。戦後に新嘗祭は文化の日となったのだが休日という以外に特別の感慨はなかった。要するに印象の薄い日であったのだ。今さら文化の日でもあるまいとは思うけれど、日本の文化と原発の存在が思い浮かぶ。村上春樹の「非現実家の夢想として」という演説文を想起してもいいのだが、「文化概念としての天皇」を唱えていた三島由紀夫は原発についてどう思うだろう、ということも頭を掠める。文化にはナシュナルな要素がある。これは日本の文化というとき、日本列島の住民が育ててきたものと言う意味であり、縄文時代から長い歴史を有するものである。千数百年の天皇や天皇制文化は日本文化の一部であり、相対的なものに過ぎない。日本列島の住民の文化である日本の文化はもっと包括的で深い。ナショナルなものとナショナリズムは違うものだし、ナショナリズムがナシュナルなものを代表するようになったのは明治以降の近代の現象であり、近代の幻想の解体の中でそれも力をうしなってきている。ナショナリズムは意味を失って行くがナショナルなものはそうではない。

■ 日本列島の住民が長い歴史の中で育んできた文化(精神の結晶)は自然(対象)に対立・克服する人間的自我というより対象を受け入れその中で生成される精神である。「物のあわれ」といわれる情緒が日本の文化概念の根本にあるとはその意味である。自然(対象)との関係の中で僕らが感受する喜怒哀楽と言うべき精神の動きを享受し慈しみ詠うものに他ならない。日本列島は自然が豊かであるがその自然は脅威を随伴していた。自然は美しいだけでなく禍々しいものでもあった。この自然と対立ではなく、むしろ共生を選んだ日本の文化は自然の脅威に無常感で対しただけではない。自然の脅威を超えていく知恵を持ちその所業もなしてきた。生活や生産の場に行けばすぐに見いだせる。物のあわれを詠うだけではなかった。それでもなお、自然との関係を共生のうちに維持しようとした。原発は人間的自然としての科学の産物ではるが人間と自然の代謝関係(循環関係)を壊すものであり日本列島の文化(人間的所業)とは相入れないのだ。人間的存在(倫理)に反するのだ。文化の日は感慨薄いけれどこんなことを想起した。 (文責 三上治)