今年も「反核の夏」が近づいた。今夏も広島原爆の日の「8月6日」、長崎原爆の日の「8月9日」を中心に核兵器廃絶を目指す大会や集会、イベントが繰り広げられるだろう。そんな季節を前にして、私は一人の人間の問いかけを心の中で反芻している。3月20日に65歳で亡くなった占領史家の笹本征男(ささもと・まさお)さんが提起した問いかけである。その問いかけの根底にあったのは、原爆被害、とりわけ被爆直後の日本政府の対応への憤りであったとみていいだろう。
笹本さんは島根県益田市生まれ。益田高校を卒業すると東京に出、働き始めた。やがて、市民グループ「原爆文献を読む会」に参加し、そこで、フリーライターで原爆被爆問題に詳しい中島竜美さん(故人)に出会い、当時、援護の外に置かれていた在韓被爆者の存在を知り、その支援活動に加わる。
その一方で、働きながら中央大学法学部に通い、そこで竹前栄治氏(日本占領史専攻。その後、東京経済大学教授に就任)に占領史を学ぶ。
卒業後は塾講師やビル清掃などの仕事に携わりながら国立国会図書館などに通って文献を読破し、米軍による日本占領、米国による原爆投下などに関する論文、著作を発表し続けた。08年1月に中島竜美さんが亡くなると、中島さんの後を継いで在韓被爆者問題市民会議の代表となった。
著作の代表作は『米軍占領下の原爆調査――原爆加害国になった日本』。1995年に新幹社から刊行された。
笹本さんは広島に近い島根県の生まれということもあって、若いころから原爆被害に関心があったようだ。占領史研究で広島を訪れ、被爆者に会い、その苦しみに接するうちに、原爆を投下した米国への反感を強めていったらしい。とりわけ、米国が設立したABCC(原爆傷害調査委員会)が被爆者に治療を施さず被爆者をモルモット扱いしたことや、米国がプレス・コードで原爆被害に関する報道を禁止したことに強い反感を抱いたようだ。「アメリカは何とひどいことをするものかというのが若い日の私の感慨であった」と、笹本さんは本書の中で書いている。
しかし、敗戦後の日本側の対応を調べてゆくうちに、笹本さんは愕然とする。米国が日本敗戦直後に原爆調査団を広島、長崎に派遣して被害状況を調査した後、日本政府が当時としては莫大な国費を投じて「原子爆弾災害調査研究特別委員会」という大調査プロジェクトを組織して、米軍の原爆調査に全面的に協力していたことを知ったからだった。しかも、この調査にあたって出された日本政府の通達には、どこにも原爆被害者に対する救援・救護の方針はなかった。アメリカ占領軍への協力という言葉もなかった。そして、この特別委員会による調査の一環として製作された原爆記録映画は「アメリカに送られ、核戦争の準備のために利用された」(本書から)。
こうした事実から、笹本さんは問い続ける。「大量虐殺を受けた側が、それをなした側に全面協力して、その大量虐殺兵器の効果を徹底的に科学調査し、その成果を余すところなく提供する、という転倒がなぜ成立したのか」と。そうした視点からの研究成果をまとめたのが『米軍占領下の原爆調査――原爆加害国になった日本』だ。
笹本征男さん
本書は書く。
「原爆被害国の日本は原爆被害を利用するという国策のもとに、原爆加害国のアメリカと利害を一致させてきた。なぜ利害が一致したかといえば、日本が『原子力国家』としての第一歩を踏み出したからである。この場合の『原子力国家』とは、核分裂の軍事的応用である原子爆弾を開発したアメリカという文字通りの原子力国家ではなく、核分裂の軍事的応用の結果としての原子爆弾の効果(影響)を国策としてアメリカと共同して調査研究できたという意味である。このような日本国は言葉をかえていえば、『原爆加害国』である。つまり、日本は広島、長崎の原爆以前も侵略国家であった。そして原爆以後も日本は加害国家であったということである」
「次のことを強調したい。占領下の原爆調査の中心は、妊産婦と新しく生まれてくる乳幼児、成長していく子どもたちの徹底した調査であった。女性と子供が最も調査対象になったのである」
「なぜ日本国家は原爆調査との関わりにおいて被爆者と非被爆者を冷酷に扱ってきたのであろうか。私はその答えは『来るべき平和な《原子力時代》』という、(原爆調査にあたって出された)厚生省の計画書の中の言葉に含まれていると思う。当時の日本国家は原爆という兵器を研究開発する能力も可能性も皆無であった。しかし、日本国家は原爆という核分裂の軍事的応用の結果である原爆の効果(影響)を国策として調査研究できたのである。それは『来るべき平和な《原子力時代》』に向けての『原子力研究調査』と考えていいであろう。……『来るべき平和な《原子力時代》』という、当時においては、果たして本当に到来するのかどうか分からない時代に向けて、日本が国家予算を支出して、その第一歩を踏み出したのである。……『来るべき平和な《原子力時代》』にいう『平和』とは、原爆という核兵器に守られた『平和』であることは言うまでもない」
「加害者側のアメリカだけが問題であるという被害者意識から生み出された歴史意識は普遍性をもつのであろうか。一九四五年から五〇年経過した現在、被害者意識だけから広島、長崎の歴史を語るだけでいいのであろうか」
被爆者の救済よりも米軍調査への協力を優先させたとして政府や学界を批判した本書に対し、「身が震えるほどの感動を覚えた。内容も文体も怒りに満ちている」(猪野修治・湘南科学史懇話会代表)という賛辞もあった(在韓被爆者問題市民会議発行の『在韓ヒバクシャ』第55号・笹本征男追悼号から)が、笹本さんが在野での孤独な研究者であったためか、それとも論旨の展開に問題があるとされたのか、刊行当時はアカデミックな世界ではあまり注目されなかった。最近になって、海外の研究者や国内の一部メディアの注目を集めるに至った。
8年前に、がんを発症、生活保護を受けながら1人でアパートで闘病と研究を続けていたが、今年2月半ばに入院、3月20日、誰にも看取られず前立腺がんで亡くなった。身寄りがなかったため、在韓被爆者問題市民会議が遺体を引き取り、葬儀を営み、残された資料や書籍の整理に当たった。
7月3日、東京・阿佐谷で「偲ぶ会」が開かれた。在韓被爆者問題市民会議のメンバーをはじめ、学者・研究者、放送・出版関係者、被爆者、反核運動関係者らが集まった。
「笹本さんが『米軍占領下の原爆調査――原爆加害国になった日本』で提起した問いを今後さらに検証しなくては」「笹本さんの話の最後は、いつも原爆だった。最後まで原爆にこだわっていた」「原爆を投下した米国に強い怒りをもっていた。原爆を投下された、という表現を使うな、米国が原爆を投下したと言え、と言っていた」「報道にあたっては、一次資料に当たれ、といわれた」「君は、いかなる立脚点に立ってものを言うのか、とよくいわれた」「独善的な側面もあったが、若い人たちには優しく、若い人たちを励ました」といった発言が相次いだ。
偲ぶ会では、笹本さんの詩が朗読された。笹本さんは詩人でもあった。
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