日本はどんな社会に向かうのか(その1)

著者: 岡本磐男 おかもといわお : 東洋大学名誉教授
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まえがき

本年1月8日の『朝日新聞』では、2人の民主党政治家の「日本再生の基本戦略」についての論議を掲載している。一人目のそれは、政調会長の前原誠司のもので、あくまで成長路線を追究し、そのためグローバル市場に進出するという主張である。第二のそれは、経済産業省の枝野幸男の主張で、「成長にはこだわらず、新産業を育てあげ内需を拡大すべきだ」というものである。私は2人の民主党の有力政治家の主張がこの程度のものであることに失望するものではあるが、先ず2人の見解に対して私見をぶつけることから本稿を書き始めよう。

成長戦略論

先ず前原氏流の経済成長戦略が重要であるという所説から吟味しよう。この所説はかなり以前から多数の政治家によって主張されてきたのであるが、実際はこの20年間ほどの間、日本はGDP(国内総生産)成長率をほとんど高めることはできず0%に近いほどであった。その理由は主に世界経済の構造的理由によるものと思われる。日本はBRICSのような新興工業国との間の競争関係ではほとんど敗退してきたのである。更に日本は、国内的には少子高齢化社会の下で人口は減少傾向にあるから、国内需要も減退傾向にあるため、今後成長を高めることは困難と見られる。もっとも前原氏の主張は、専ら海外市場―商品市場・資本市場―に向けられており、ここへの日本企業の進出が成長を高めると見込んでいるようである。しかし日本製品の海外への輸出は超円高の下では減退傾向のあるし、資本の輸出は、資本輸出国のGDPを高めるとしても、日本のGDPへの寄与度は企業の利益部分にとどまるから、一定の限度がある。これによって日本の成長率が大幅に高まるなどとは考えにくい。更に前原氏のような政治家はGDP(=国内総生産)の中身については論議することがほとんどないが、GDPの中身の6割程度はサービス産業であり、そのサービス産業には富(または剰余価値)の生産に寄与するものとしないものとがあり(生産的労働と不生産的労働との区分に関連する)、この点を考慮しないで、単にGDPさえ増えれば国民生活が向上すると見るのは誤りであるという問題もある。

内需拡大論

次に、内需を拡大して経済を活性化すべきだとする枝野氏の議論も決して期待の持てるものではない。日本の内需(個人消費)は全体の需要の6割前後で推移してきたが、内需拡大論は20数年前から主張されてきたとはいえ、容易には実現されてこなかった。枝野氏が説くような、国民生活にとって便利で、生活を豊かにするような新産業が発展する可能性が、今日あるだろうか。10数年前には携帯電話が発明され、国民大衆の日常生活に普及したため、新産業として景気回復の一要因となるかもしれぬとして注目されたが、人々の消費金額に占める割合は低いため、そのような要因とはなりえなかった。その後はデジタル・カメラや液晶テレビなどが発売されるようになったが、これらの新産業が景気回復をリードするような基軸産業となったとはいえない。また今日では、家庭用ロボットの開発などに注目が集まっているが、これらも多くの家庭が購入するとは限らないであろう。多くの家庭は、今日では消費を増やすよりは、生活の安定を求めているからである。

また内需が拡大しない他の重要な要因としては、デフレ問題がある。政治家たちは常日頃、日本経済の活性化のためにはデフレ脱却が最重要な課題であるといっているが、そのデフレがなぜ生じているかについては深く追求せず、単に商品の需要量が供給量を超えているためとする近代経済学的発想にとどまっている。それゆえ、その解消のためには、日本銀行の金融政策緩和を必要とするとの論議にとどまっている。だがこうした表面的な発想はおかしいのである。この問題については、私は以前にも論じたことがあるので詳細には論究しないが、他国に比して遅れた側面があるとはいえ、日本でも技術革新が進み労働生産性が上昇している点や、海外の労働者の低賃金を利用していることによって商品価値(投下労働量)を低下させていることに依拠しているとみている。それゆえにデフレを政府が政策的に解消させるなどということは容易にはできないのである。

財政危機と重税路線

このように見てくると、前原・枝野の両氏の主張は実現可能性は少ないと考えられるだろう。もとより両氏の主張は、今日の日本の危機を背景に提起されている。その危機の中心は言うまでもなく財政危機である。日本の中央政府と地方自治体の財政赤字の累積額は1000兆円に及ぼうとしている。それゆえ、政府の発行する国債金額も世界一の膨大な規模に達している。1月13日に成立した野田改造内閣が社会保障と税の一体改革を中心課題として掲げ、消費税増税を含む重税路線を設定しているのもそのためである。今日の日本は少子高齢化の進展が見通されるため、一方では、年金、医療、介護などの社会保障費の漸進的拡大が見通されるが、この費用を負担する若年層や壮年層の人々は減少傾向をたどるため、世代間格差の拡大、不平等の発生が懸念されているわけである。だが消費税増税を実現させれば財政悪化を食い止められるかといえば、事はそれほど簡単ではない。今後日本の景気がどうなるかにもよるが、消費税の引き上げの時期如何によっては、不況を一層深化させ消費を冷え込ませることによって税収を減少させることもあり得るからである。今日、日本の財政が極めて危機的状況にあるというのは、政府の税収を上回るほどの借金を行うことによって一般会計の歳出をまかなっているという事実に明らかであって、こうしたことを持続させることは到底不可能なのである。更に現在、日本の国債は大量に発行されていても、国際市場での価格下落→国債金利の高騰が生じないのは、国債の消化が日本人(日本の個人、企業金融機関)の貯蓄[約1400兆円]によって行われており、外人投資家によってあまり消化されていないためであるといわれている。もし国債発行額が更に拡大し、日本人の貯蓄の相当部分を上回るほどになり、外人投資家による保有部分が増えていけば、国際市場での国際化化の変動(低下)が生じがちとなり、国債金利が万一高騰すれば、政府の財政危機は一層深刻化していくとみられるが、私はこうなる時期は余すところ3~4年と見ている。

ギリシャの危機

財政危機の陥っている諸国の中では日本は世界第一位であるが、ギリシャを筆頭とする多くのEU諸国では、事態はより深刻のようである。諸国の財政資金の借り入れは、国際金融機関、国際通貨基金(IMF)、諸国の南欧支援ファンドから行われ、赤字財政の規模に応じて金利は上昇する傾向にあるからである。これによってEU諸国の国家の中では財政破綻に陥るかもしれない国々が続出し、これによってEU諸国の資本主義も、極度に低迷する国々も現れてきた。さしあたりここではギリシャのみを取り上げて、福祉国家の破綻とはどのような事象であるかについて見るなら、勤労者の4分の1の数を占めるといわれる公務員の給与は極度に切り下げられるとか、高齢者に支払われる年金や失業者に支払われる失業手当はどしどしカットされ、他方で消費税のような税金は引き上げられるような、通常の人間らしい生活は送れず、ホームレスに近いような人があふれる社会となるのではあるまいか。このように消費支出が極度に抑制されるならば、資本主義の経済システム自身も破綻し、崩壊するかもしれない。ここで問題となってくるのは民主主義国家自身の(財政)破綻が資本主義システムの破壊を導くのか、あるいは資本主義システムの破壊が民主主義国家の破綻をもたらすのかという問題である。ここではまずギリシャのみを取り上げてしまったために、国家の財政破綻が経済システムを破壊するがごとく捉えてしまったが、―この点は私自身の力量の不足によって断言はできないのであるが、―逆に資本主義の経済システムの弱体化、衰退が国家の財政破綻をもたらしている国もある、といえるのではあるまいか。

日本の財政破綻の日は近い

日本においてはまさにそういえるのであって、第二次大戦後自民党政権が発足してしばらくたった1965年から建設国債が発行されるようになり、更にその後には特例国債(赤字国債)も発行されるようになり、80年代末期のバブル経済崩壊以後は、不況発生によって不況克服のための公共事業支出や失業支出のような社会保障費の増加のための財政赤字の累増、国債発行の拡大が更に一層顕著となっていった。また08年のリーマン・ショックと11年3月の東日本大震災の発生の影響によって、その傾向に拍車がかけられつつある。更に付け加えらるべきは、ここ10年間ほどの間、労働者の賃金はほとんど引き上げられず、非正規の労働者は1300万人を超えるほどになっているので、財政収入も低下する傾向にあるということである。それゆえ、消費需要の低迷によって商品販売も円滑には進展せず、日本資本主義のシステムは限界に近づきつつある。それゆえ日本では明らかに、経済システムの衰退が、国家の財政破綻を招来しているとみてよかろう。

国家の破綻と資本主義の破壊

このように今日の民主主義国家の政治は、一応資本主義の経済システムとは分離しており、経済システムは実は政府によって操作されるのではなく、資本の論理によって動いている。それゆえ、国民大衆は資本主義によって生活しているのであるが、資本主義が破綻すれば、―失業などの形によって―生活しえないことも起こりうる。その場合には国民大衆は国家の政治家に支援を要請せざるを得ない。自由・平等・友愛などの理念に基づいて成立した民主主義の国家である限り、〈憲法に定められた〉生存権を保障する建前からいえば、政治家は本来は大衆を―生活保護のような形で―救済せねばならない。だが、生活困窮者の救済が十分に行われているかといえば、必ずしもそうとはいえないであろう。民主主義国家が、いかに自由と民主主義を標榜したとしても、それがイデオロギーにとどまる限り、それが達成されるとは限らない。それゆえ民主主義下においても―平等などという理念を主張したとしても、実際は機会の平等があるにすぎぬとされて―一握りの極度の富裕層と大勢の貧困層が並存するという事態が生じうるのである。今日日本人の多くの人々が、日本を変えてほしいと政治家にいっている。だが問題は日本をどのように変えるべきなのかである。単に日本の政治を変えるだけで暮らしが楽になるなどと考えているとすれば、今日の私たちが生きている社会がどのような特性をもつものかについて全く理解していないことになる。

危険な独裁への道

私も日本は変わってほしいと思う。しかし、経済成長率を高めることが可能とか、デフレ脱却が可能であると見るような民主、自民の保守政治家たちによっては、決して日本社会を変えることはできず、極度の貧困にあえぐ悲惨な社会が到来するとも考えられるのであるのだが、最近注目すべき事態が発生した。それは大阪維新の会の私事によって大阪市長の地位についた橋下徹氏が、今日では独裁といわれるほどの強い政治力をもたなければ、世の中は変えられないと言明したが、この言葉に多くの大衆も共感を示したからである。

この言葉は現在の世の中が1930年代半ば以後の日本とドイツの社会情勢に類似してきたといわれるその情勢を想起させる。

1930年代半ば以後のドイツと日本

周知のように、ドイツでは33年にナチスが政権を獲得して以来、ヒトラー独裁体制が成立していくし、日本でも30年代後半以後次第に軍部独裁体制が確立されていく。先ずドイツからいえば、ナチスとは、日本語の正式名称は「国家社会主義ドイツ労働者党」であるが、ヒトラーが「社会主義」という言葉を使ったとはいえ、ロシア革命後のソ連の様な左翼の社会主義ではなかった。確かにヒトラーは歴代の首相とは違って、大衆運動を行ったし、ユダヤ人が経営する金融業や流通業の資本を弾圧し、利潤を収奪したりして、一面では社会主義的要素を顕示しようとした側面はある。だが他面では、巨大独占資本から多額の金を受け取ったり、労働者を弾圧したりした国家主義、軍国主義の色彩の強い右派の正統だったのである。奇妙ではあるが、ファッシズムを標榜するヒトラーの政権が、中産階級をはじめとする国民の大部分(9割以上)の支持を獲得し、45年の第二次世界大戦終結時に至るまで、その支持が続いたのは、30年代半ばから国民の完全雇用維持・失業解消に成功してきたからと思われる。それはナチスの政策が当初は公共事業中心のケインズ政策であったが、30年代末からは再軍備→戦争政策へと推移していったためと考えられる。次に日本であるが、日本も30年の頃の昭和恐慌の時代は世界大恐慌の影響から都市でも農村でも大量の失業が発生した困難な時代であった。31年の満州事変を契機として軍部が台頭し、軍国主義化・国家主義化への道を歩むようになる。37年には中国との間で日中戦争が開始され、41年には米・英国との間で太平洋戦争(第二次世界大戦)が勃発する。この間の日本の政府はナチス政権とはかなり親密な関係を結んでいたので、協調して歩みを進めたと思われる。戦争が開始されるや、資本主義の内的矛盾は少しずつ解消されたせいか、経済は不況・失業からは脱するようになる。軍部台頭→軍部独裁に対しては一部の知識人は別にして、大部分は支持しており、特に太平洋戦争への戦争政策に対しては大衆の圧倒的多数はこれを支持したと思われる。戦争中は海外の日本軍隊への物資補給のため国内での食糧等の物資は欠乏したが、配給制度のような統制経済によって大衆は最低限の生活は保障されたので、辛うじて生き延びることはできた。

市民独裁への道

さて、このように見てくると、ドイツのヒトラー独裁政権も日本の軍部独裁政権も、第二次大戦の終結まで持続してきたのは、戦争政策によって失業を解消し、辛うじて国民大衆の生活を維持しえたが故に大衆から支持を与えられたためであるように思われる。しかし今日では、いかなる意味でも戦争は絶対に回避されねばならない。それゆえ、軍国主義やファッショ的独裁は排撃されねばならぬ。だが今日ではインターネットが普及し、欧米や中東諸国での市民の蜂起が見られる時代になった。私は今日ではますます市民・大衆が歴史を動かす時代に入ったとみている。それゆえ、レーニンのいったようなプロレタリア独裁ではなく、むしろ民衆は誰でも生きていける、民衆のリーダーによる市民独裁の体制が構築されるような時代が到来するのではあるまいか。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study436:120131〕