今年8月は第2次世界大戦後70周年を迎える。終戦当時私は中学3年生の15歳であった。従って戦中派といわれて当然だが、戦争中を回想してどうしても述べておきたいことがある。
先日テレビで安保法制をめぐる国会中継をみていたさいに、日本共産党の志位委員長が安倍総理に対し、「第2次世界大戦は誤った戦争と認識しているか」といって迫る場面があった。私はとっさにあの戦争は誤った戦争だったと思う人が多いだろうなと思いながら、しかし私と同世代の人達は簡単にそうともいえないだろうという感じももった。なぜならあの戦争は日本が経済的に追いつめられて必然的に起こったものであり戦争しなければ日本人の大多数は死んだであろうと思うなら、戦争せざるをえなかったともいえるかもしれぬからである。それ故に私の問題設定は、「あの戦争は誤っていたのか」というのではなく、「あの戦争は回避できなかったのか」ということにならざるをえない。
1941年12月8日の朝、「日本の帝国陸海軍は南太平洋において、アメリカ・イギリス軍と戦闘状態にいれり」というラジオ放送による大本営発表があったとき、欣喜雀躍した日本人は相当数を占めていたと思われる。それは、29年世界恐慌後の日本社会は、30年代の大不況によって生活苦にあえぐ人々が多く鬱屈した精神風土が支配していたからである。31年の満州事変以後に徐々に台頭してきた軍部及びその関係者は、36年の2・26事件以後、財閥支配層との関係を深めつつ独裁体制を強化していく。翌年には日中戦争も開始されアジア民衆を苦しめることになるが、これについては考察を省く。本稿では第2次大戦についての考察にかぎるが、日本の戦争参加は確かに、多くの一般大衆が賛同し、多くの新聞、雑誌が軍国主義、国家主義の風潮をあおり、小・中の学校教育、その他の高等教育機関もこれに便乗してイデオロギー教育をするという風潮のもとで生じたのである。だが国家の上層の階級の人々がその戦争指導者となっていったこともいま一つの側面であった。
1941年12月8日に日本海軍が真珠湾奇襲攻撃を行い太平洋戦争が開始された直接の契機は、日本が米英国によって石油の輸入を妨害されたためであるといわれてきた。そういえば確か日本陸軍の部隊は当時、仏領インドシナに進出していたが、このこともこの問題に関わっているとの情報を聞かされたことを記憶している。しかし戦後になって聞いた話ではあの時海軍は大むね、戦争に反対であったといわれている。また連合艦隊総司令長官であった山本五十六氏はやはり戦争勃発を危惧し、短期決戦であれば勝てるかもしれないが長期間にわたれば敗北すると考えていたようである。開戦間もなくして山本長官は南太平洋の孤島で殉職したさい、日本国内の葬儀では国葬が営まれ、海軍軍楽隊が「海ゆかば」を演奏したが私は涙を抑えることができなかったことを想起する。また私の親戚では、海軍機関学校出身の海軍少尉の軍人がいて拙宅に遊びにくると、いつもこの戦争は、負けるといっていたが、この人がその後新鋭の空母「ずい鶴」の乗務員でありながら「ラバウル」島で戦死したとの報に接したときも、胸がはりさける思いがした。わが国の陸海軍は、確かに緒戦においては勝利をおさめたのではあろうが、その後一年もたたぬうちにミッドウェイ海戦があり、この戦いでは海軍は致命的打撃を受けたにも拘わらず、わが国の大本営は、その敗北を隠蔽し、わが軍の損害は軽微であると報道し、その後も損害の真相を隠すような情報の発表を流しつづけた。そして民衆もまたこの情報を信頼せざるをえなかった。
開戦から一年数ヶ月後の43年4月に中学生となった私は、全くの軍国少年であったが、海軍の学校に入り海軍軍人となることを夢みていた。当時から、中学生であろうと学校への往復には足にゲートルを巻くことを強制され、通学時に軍人と出合うと敬礼することを強いられていた。軍部からは中学校に配属将校が派遣されており、一週間の授業のうち4〜5時間は教練の時間があり、本式の銃剣に代えて木銃を使って敵に銃剣をつくような真似をする訓練等を行っていた。また私が中学校に入学した頃から既に物不足は進行しており、炭や米・魚、野菜等の食料には配給制度がしかれるようになっていた。軍需産業における生産が優先されていたからである。それ故、失業者はかなり減少していたが、厳しい時代であった。少年時代とはいえ、肉類や甘い物は一切口にすることができず辛い思いをしていたことが想起される。
フィリッピン群島におけるレイテ島、ミンドロ島、ルソン島等において日本軍が米軍に敗退し、ついでサイパン島と硫黄島での日本軍の玉砕が報じられたのであるが、その直後に中学校2年の末期を迎えていた私達の学校は三鷹市の中島飛行機株式会社(現在の富士重工)への学徒勤労動員を命じられ、同会社の工場に勤務することとなった。ところで勤務についた11月下旬の当日に同工場は米国のグラマン戦闘機により機銃掃射を浴びせられたのである。
工場での作業は、航空機生産のための部品としての鉄片を、やすりで磨くというごく簡単な手作業で全くの単純労働であった。一部の部署では旋盤を使っていた学徒もいたようだがごく限られた人達であった。私はこんなことをしていて果たして日本は戦争に勝てるだろうかと心配になる程であった。そして仕事は概して非効率的であった。予感は適中した。サイパンの米飛行場が完成したためであろうか、44年暮れから45年にかけて警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴り響くようになり、米国爆撃機B29が日本本土を襲うようになったのである。
B29の編隊は首都東京においても容赦なく、無差別に無数の焼夷弾、50キロ爆弾、100キロ爆弾等を投下した。なかには1トン爆弾の投下さえあった。爆弾が投下されるさいには、ガラ・ガラ・ガラという電車が走るような音が聞こえ地上に落ちるさいにはドン・ドン・ドンと地響きがするので、すぐに防空壕にとびこむのだが敵機の攻撃の規模がどの程度のものかが判断できた。3月10日の大空襲の場合には、下町方面の空が火災で真赤に染められていたことが記憶に残っている。私の住居は当時西武鉄道沿線の沼袋駅近くにあったが、首都空襲では2番目に大きかったとされる5月25日の大空襲で、50キロ爆弾が家に落とされ全焼した。いつも不思議に思っていたことはあれだけ大規模に編隊をくんで襲来する米B29に対して、これを迎撃するような日本の戦闘機などは、ごく稀なケースを除けば、殆どなく、また日本の高射砲がこれをうち落とすこともなく——たまには高射砲の弾が数発炸裂するようなことはあったが、うち落とすことはなかったと思う——、米機は首都東京の空を悠然とわが物顔に飛び回り、去っていったのである。否、45年初以後の情報の取得によって判明したことは、東京ばかりでなく、日本全土の全ての地域の空がこうした情況におかれてしまったということである。いい換えれば、日本本土の制空権は45年初以後完全に米国軍の手に握られてしまったということであろう。B29に立ち向かう日本の航空機がどの程度の規模で存在していたのかは分からぬが、きわめて少数の規模でしか存在しなかったのであろう。それ故に実質的には日本は、3月10日の東京大空襲の頃の時点で米国に敗北したという以外にないのではなかろうか。
日本の戦争指導者達は、サイパン島で日本軍が玉砕し米国の手中に帰すれば、サイパンから米国爆撃機が飛びたち本土を空襲し、本土の都市を焼け野原にする等ということがありうる、ということを想定していたであろうか。想定していなかったとするなら、米国の生産力、科学技術力、研究能力等について全く見識がないことになり、無責任であったということになろう。また反対に想定していたとするなら、日本および日本人をどこに導こうとしていたのか、その戦争の理念が全くわからなくなる。まさか当時から囁かれるようになっていった一億玉砕等という理念を本気で考えていたのではなかろう。
ここに戦争指導者という言葉を重視しているのは、当時は今日に較べてはるかに階級社会であったことが明白だからである。それは軍隊における厳格な階級制度が一般社会にも反映されていたからだと思われる。下級の兵士達は上官の命令をきかねばならず、上官といえども自らより上位の位の人の命令を受け入れねばならなかったわけである。それ故日本にとってあれほど悲惨な結果となったあの戦争の開始を決断し、戦争の指揮をとり戦争を指導していた人々は必ずいる筈である。私は必ずしも13人のA級戦犯をさしていっているわけではないにしてもである。このように言及しているのは、今日の安倍総理が「第2次大戦に参加し生命を捧げた人全員に対しては尊崇の念を持たねばならない」といって靖国参拝をしていることは、きわめて奇異なことであると指摘したいためである。上位の者が戦争を続行すると言えば下位の者はいかにひどい情況であろうとこれに追随せざるをえない社会的雰囲気が当時は厳存していたためである。戦争指導者は敗北の責任をとらねばならぬことは当然であろう。
最後になったが、冒頭で提起しておいた問題について考えよう。さしあたり述べたいことは、私達の世代の者は、B29の焼夷弾攻撃によって焼け野原と化した地域で、焼けた自宅の跡にトタンを外壁とした小屋をたて1個か2個のはだか電球のもとで、1年も2年もの間暮らしていた人々が結構何軒かいたのであり、人間の生命力の強さに驚かされてきたということである。
終戦時の数年以上前からの配給制度としての統制経済について立ち戻って考えることにしたい。あの配給制度はうまくいっていなかったと指摘する人が少なくない。だが私は戦争中の統制経済を肯定的に評価したい。実際私達が勤労動員先において、戦局が悪化し「一億一心」「進め一億火の玉だ」「一億玉砕」という言葉につき動かされ、自分も天皇のため国家のために死を賭して米軍と戦うのだという決意をもって働いていたとき現在考えても不思議な程友人間の関係は良好で、厚い友情と共同体意識のもとで生き生きと生活していた。その生活の基礎となっていたのが、昼食時に配給される握り飯2個の食事であり、また家庭に配給される米・麦・野菜類であった。それ故、戦争中は貧しかったとはいえ、人々はまだ食べられたのである。
むしろ食料事情がより悪化するのは、戦後の方である。戦後3〜4年の頃が、最も苛酷な情況であった。東京近郊の農家にいって野菜や食べ物を売ってほしいと頼んでも、必ず断られるのが常であった。それ故私の家でも200坪程度の庭を全て家庭菜園とし自給自足を図る以外に生きるすべはなかった。
こうした歴史的経緯を通じて考えられることは、日本は太平洋戦争開戦の頃に、農業・畜産業・水産業等に注力し、食料を中心に自給の方向に舵をきっていれば、何も戦争する必要はなかったであろうということである。石油の輸入路が断たれそうだったというが、何も石油だけがエネルギー源ではなく、戦後の日本でそうだったように、石炭の利用も考えられたのではないか。41年末の頃でも、その後しばらくの間時間が経過すれば日本と米英との関係が改善されることもありえたであろう。
日本には、きわめて貧弱な軍事力しかなかった——戦争末期には、もし米軍が本土に上陸してくれば、敵の戦車に対して日本人は竹槍と手榴弾をもって立ち向かうことをおしえられていた——にも拘わらず、戦争指導者が戦争を遂行させようとした点を強調したので、それでは逆に優越した軍事力があれば、戦争を勃発させ、遂行させてよいのか、との反論があるかもしれぬ。私自身は現在は決してそんなことを良しとは考えていない。戦争はいかなる場合でも愚かなことと考えている。
戦後になってよくいわれた言葉は、日本が米国に負けたのは、経済力・科学技術力において劣っていたからだ、ということである。そんな言葉は当たり前としかいいようがなく議論する気にもならない。戦争指導者にその点の見識、洞察力がなかったというだけの話である。
本稿でいいたかったことは、戦争は、戦時中によく言われたように、精神論や観念論で勝てるものではなく、戦争時代のリアリズムの一側面を見通し理解することが重要だということである。本稿でいいたいのは、それ以上ではなく、それ以下でもない。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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