日本再生めざして非暴力=平和力を -「いかされている」ことに学ぶとき-

著者: 安原和雄 やすはらかずお : ジャーナリスト・元毎日新聞記者
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他人様のお世話にならず、自力で生きたいと想っている人が案外多いのではないだろうか。健気(けなげ)な生き方ともいえるが、この発想には無理がある。人間は独りでは生きられない。自然環境や他人様のお陰で「ともにいきる」のであり、もう一歩進めて、「いかされている」と考えたい。
出口を見失ったかにみえる日本の再生をどう図っていくか、安倍政権の軍事力中心の右傾化による打開策は正しくない。非暴力=平和力の思想を今こそ高く掲げて広め、実践していくときである。(2013年1月25日掲載)

 先達の芹川博通(注)著『「ともにいきる」思想から「いかされている」思想へ 宗教断想三十話』(=改訂版・2013年1月刊・北樹出版)に学ぶ機会を得た。同著作『三十話』の内容は実に豊かで、ねじり鉢巻きの心境で読んだ。読後感の一端を以下、仏教を中心に述べる。<>内は著作からの引用文である。
(注)芹川博通(せりかわ ひろみち)氏は1939年生まれ。淑徳短期大学名誉教授。多くの大学の講師を歴任。文学博士。比較思想学会前会長、日本宗教学会評議員。著書は『芹川博通著作集』(全8巻、北樹出版)ほか多数。

(1)「ともにいきる」から「いかされている」へ ― 仏教の自然観と環境倫理

 <近代科学のめざましい発展が自然破壊や環境汚染をもたらし、その規模も広域化し深刻なものとなり、人類の生存そのものを脅かす状況となってきている。この原因をひとことでいえば、近代科学文明のよってたつ人間中心の世界観・自然観によるものである。そこで諸宗教の自然観を究める必要があり、諸宗教のなかから仏教の自然観を概観すると、大別して二つに分けることができる。

 その一つは、人間と自然の生命共同体説、草木成仏説などで、これらは人間は自然と「ともにいきる」とする環境倫理の思想を示している。この仏教の自然観は、人間中心の見解ではなく、両者(自然と人間)を同等とみる考えに基づいている。
 もう一つは、山の神、樹の神、山岳信仰、太陽神、自然即仏(しぜんそくぶつ)などで、こうした仏教の自然観に立つなら、人間は自然によって「いかされている」という環境倫理思想へ展開していく。
 この二つはともにすぐれた環境倫理思想だが、人間が今日直面する人類生存の危機を認識するならば、人間と自然の関係は、「ともにいきる」思想をさらにすすめて、人間が自然によって「いかされている」という思想こそが重要であり、この思想は人間中心主義の完全な放棄である・・・>(第16話から)

(安原の感想)「生かされている」という認識と思想の重要性
ここでの「いかされている」(=生かされている)思想は、残念ながら昨今の日本では余り注目されない。とくに右傾化をすすめる安倍政権の登場とともに、この感覚はほとんど重視されないような印象がある。独りよがりになって、「自分一人で生きている」と錯覚していながら、その誤認に気づかず、傲慢な姿勢の輩が目立つ昨今である。だからこそ「いかされている」という客観的事実の認識と思想の重要性を大いに強調しなければならない。

(2)不殺生の思想と仏教 ― 平和思想のいしずえ

 <アヒンサーとは、生きものを傷つけたり、あるいはその生命を奪うことを罪深い行為と意識し、これを避けること。「不殺生」とか「不傷害」と訳される。
 インド独立運動の指導者、ガーンディー(1869―1948年)はアヒンサーに立脚する「非暴力主義」の哲学を展開した。その非暴力主義は、(中略)むしろ積極的に「暴ならざる力」をもとめようとするものだった。したがって彼の思想を「無抵抗主義」と訳してはならない、といわれる。
 アヒンサーが慈悲や施与の精神と固く結びつくと、人間と自然の共生、世界各国の共存・共生といった現代の問題や、世界平和を考えるいしずえの思想として、アヒンサーの思想は再び脚光を浴びることになるのではないか。>(第17話から)

(安原の感想)非暴力と平和力と
インド独立運動の指導者、ガーンディーがアヒンサーに立脚する非暴力主義にこだわっていたことはよく知られている。しかし彼の非暴力主義は決して単純ではない。
 まず抵抗力を持たないような「無抵抗主義」ではない。抵抗力は十分備わっている。
 次に上述の<むしろ積極的に「暴ならざる力」をもとめようとするもの>とは何を含意しているのか。ここが彼の抵抗力の真髄といえるかも知れない。
 「暴ならざる力」はつまり「平和を求め、つくる力」であり、いうまでもなくそれは暴力とは異質である。視点を広げれば、「暴ならざる力」は慈悲や施与の精神であり、人間と自然の共生であり、世界各国の共存・共生であり、さらに世界平和の追求である。

 こうして非暴力と平和力は相互に深く結びついている。これは日本国憲法9条(戦争放棄、軍備及び交戦権の否認)などにうたわれている平和力をどう実践していくかにかかわってくる。
 近隣諸国の思慮を欠いた些細な挑発に乗らないことである。一方、挑発を期待しているかにみえる日本国内の一部の好戦派には自粛を求めたい。特に最近、老人に無責任な好戦派が目立つ。自らのいのちを賭けて戦う意思も気力もないご老体はお静かに願いたい。

(3)仏教の「自他共に立つ経済倫理」 ― 自利利他行

 <大乗仏教の経済倫理の一つに、大乗菩薩の「自利利他行」があげられる。菩薩の使命はみずから仏(ほとけ)になることを目指して努力しながら(自利行)、衆生救済のための修行を優先的に行うこと(利他行)。つまり自利利他の両面を兼ね備えた行為が菩薩の実践道であり、この菩薩道が大乗仏教である。
 このように大乗菩薩の自利利他行より導き出されたものが「自他共に立つ経済倫理」・「共生の倫理」である。日本仏教では、大乗仏教の精神を説いた最澄(767―822年)の「己(おの)れを忘れて他を利するは、慈悲の極みなり」が輝いている。

 (中略)現代世界のように、格差社会の語が使われるイデオロギー色のうすらいだ自由な経済社会に適合する言葉でいうと、生産者はみずからの利潤追求を唯一の目標とするのではなく、「消費者の利益を優先する経済」の樹立を指向し、この理念を世界に発信しなくてはならない。これは「消費者と生産者の共生の経済倫理」ということもできる。一例をあげると、「良い品を安く」である。
 この思想は、仏教の経済倫理の一つの到達点といえる。ここで残された課題は、これを実現するための仏教の経済理論の構築が不可欠になってくる。>(第20話から)

 なお(第20話)の末尾に仏教と経済に関する8著作が紹介されており、その一つとして、<安原和雄「二十一世紀と仏教経済学と」上・下『仏教経済研究』37・38号、駒澤大学仏教経済研究所、2008-09年>が挙げられている。

(安原の感想)日本再生を目指して「忘己利他」の実践を
ここで「自利利他行」をどう実践していくかが大きな課題として浮上してくる。仏教専門家の多くも、知識としての「自利利他行」を理解しているとしても、それが果たして日常の実践として生かされているのかどうか。日常の実践を欠いているとすれば、最澄(日本における天台宗の創始者)の「忘己利他」(もうこりた)も価値半減とはいえないか。
 昨今、日本人の質的劣化が目立ち何かと話題を呼んでいる。経済の分野ではかつてのような経済成長が期待できず、それが質的劣化の背景にあるとみる考え方もある。しかしそれは狭い経済主義に囚われた錯覚であり、真相は日本人の多くが「忘己利他」の理念と実践を忘却しているためではないか。「忘己利他」の日常的な実践を一人ひとりがどう広めていくか、今後の日本の再生と発展にとって差し迫った大きな課題というべきである。

初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(13年1月25日掲載)より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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