日本列島に広がる脱原発の動き -「6.11」100万人アクションへ-

著者: 安原和雄 やすはらかずお : ジャーナリスト・元毎日新聞記者
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 脱原発を求める動きが日本列島の各地で広がりつつある。注目されるその一つは、福島原発惨事から3か月目の6月11日、全国の都道府県で実施される「6.11脱原発100万人アクション」である。これは日本の環境政党「緑の党」を目指す市民組織「みどりの未来」が呼びかけたもので、こうしたアクションものに限らない。
 「みどりの未来」の招きで来日したドイツ緑の党・連邦議会議員は「なぜ日本政府は脱原発を明確にしないのか」と率直な疑問を提起している。月刊論壇誌『世界』は経験豊かな原発技術者という異色の顔ぶれで座談会を企画し、安全とは無縁の原発技術の重大な欠陥をついている。脱原発への多様な動きがさらに広がり、定着していくことを期待したい。(2011年6月6日掲載)

 市民組織「みどりの未来」による「6.11脱原発100万人アクション」への呼びかけは以下の通り。
6月11日は、福島原発震災から3か月。
今なお放射能の放出は続いている。
私たちは、人や自然を傷つける電気はいらない。
全国各地域の人々とともに、6月11日に
脱原発を求める100万人アクションを呼びかける。
6月11日は、声をあげよう! 今こそ脱原発へ!!

 アクションは集会、パレード、講演会はもちろん映画会、ライブなど多様で、おそらくすべての都道府県で実施される。日本の脱原発運動の画期をなすものとなるだろう。日本だけでなく、フランス、ドイツでも大規模な集会が予定されるなどグローバルな動きが広がっている。

▽ ドイツ緑の党・連邦議会議員が「日本の印象」を語る

 ドイツ緑の党・連邦議会議員 ジルビア・コッティング・ウールさんとのインタビュー記事を紹介したい。
 ウールさんは気候変動や核・原子力問題など環境政策全般に関する「緑の党」のスポークスパーソン。「緑の党」・日本を目指す市民組織「みどりの未来」の招きで来日、5月15日から1週間日本に滞在し、東日本大震災・福島原発事故の被災地や浜岡原発(静岡県、現在運転停止中)を訪ねたほか、各地でのシンポジウムや集会に参加した。
インタビュー記事は「みどりの未来」の機関紙「みどりスタイル」(6月1日発行)に掲載されている。記事の見出しは「(日本の)エネルギーシフトに必要な要素はドイツ以上にそろっている。足りないのは、政治的意思だけだ」。
 その大要は以下の通り。

*ドイツでは考えられない中部電力の対応
問い:浜岡原発を訪ねてどう感じたか。
答え:一時停止となったものの、津波の防波堤をつくり、政府によって認められれば、再開できるという計画は、住民や国民に対して無責任だ。東海地震はいつ起きてもおかしくない。津波対策だけでは不十分だ。地震そのものに対応できない。廃炉にすべきだ。
 私は、中部電力に面会を申し入れていた。現地の市議と市民団体が作成した要望書を渡したが、受け取ったのは責任者ではなく、ただのスタッフで、コメントもない。御前崎市長にも面会できず副市長が対応、「国の行動に従うのみ」と繰り返すだけで、目も合わせようとしなかった。このような対応はドイツでは考えられない。

*原発は民主主義の根本に反する
問い:原発とはいかなるものだと考えるか。
答え:情報操作や統制、被曝線量の上限値引き上げなどは、日本固有の問題ではない。これは原発というシステムに内在しているものだと強調したい。原発は人類の手に負えるものではない。いったん事故が起こると、私たちはそれをコントロールできない。政府が解決できる範囲を超える問題になってしまう。
 原発はその本質として、民主主義の根本に反する。民主主義は透明性が基本であるのに、原発を動かしてきた政治システムには、つねに不透明さが付きまとう。特に事故が起こると、透明性を確保するのは不可能になる。結局、人間は原発と共存できない。

*自然エネルギーは雇用と新産業を生み出す
問い:原発をめぐるドイツの状況をお聞きしたい。
答え:ドイツで脱原発への大きなきっかけとなったのは、チェルノブイリだった。いまでは国民の過半数が脱原発を望んでいる。市民の力と緑の党の存在が大きい。
 ドイツでは脱原発と自然エネルギーへの転換・促進とをペアで考えてきた。来年には自然エネルギーの供給量が原子力エネルギーを追い越す。自然エネルギーは大きな雇用と新しい産業を生み出すことにもつながっている。

*なぜ日本政府は脱原発を明確にしないのか
問い:日本におけるエネルギーシフトの可能性は?
答え:風力、太陽光、水力など、日本は自然エネルギーの潜在的能力が高いことを今回確認できた。技術もある、教養レベルの高い技術者も沢山いる。エネルギーシフトに必要な要素はドイツ以上にそろっている。足りないのは、政治的意思だけだ。
 広島、長崎の被曝経験を持っている国が、地震国にもかかわらず、原発をなぜこんなに建てたのか。福島の事故後も、浜岡を一時停止にしただけで、なぜ廃炉にしないのか。この期に及んで、どうして政府は脱原発の方向性を明確にしないのか。私の理解を超えている。
 私のドイツでの経験から言えることは、一人ひとりの市民が脱原発の声をあげること、それを市民団体がまとめていくこと、そして市民団体が連携してその声を代表する政党を送り込み、議会での政策に反映させていくことが大事だ。その意味で「みどりの未来」の存在は重要だ。

<安原の感想> 「不思議な国、日本」なのか
 ドイツは2020年までに脱原発を実現させることで政治的合意ができている。その脱原発の先進国、ドイツから来日した連邦議会議員、ウールさんは「不思議な国、日本」という印象を抱いたのではないか。面会した相手が<「国の行動に従うのみ」と繰り返すだけで、目も合わせようとしなかった。このような対応はドイツでは考えられない>という感想がそのことを示唆している。
<広島、長崎の被曝経験を持っている国が、地震国にもかかわらず、原発をなぜこんなに建てたのか。なぜ日本政府は脱原発を明確にしないのか。私の理解を超えている>も「不思議な国、日本」の何よりの具体例である。
 <原発はその本質として、民主主義の根本に反する>という指摘には教えられるところが多い。原発の誘致には多額の交付金がばらまかれたため、原発に「損得」の次元で対処してきた。ところが実は「民主主義」の問題なのだという認識はほとんどなかったのではないか。「自由と民主主義」は憲法で保障されており、口先では唱えながら、それを実践できない日本であるなら、たしかに「不思議な国」というほかないだろう。

▽ 原発技術者の座談会「安全な原発はあり得ない」

 『世界』7月号(岩波書店)は「東日本大震災・原発災害特集 破局はなぜ防げなかったのか」を組んでいる。その一つ、原発技術者による座談会「安全な原発などあり得ない ― 技術と安全の思想を問う」が示唆に富んでいる。
 出席者は小倉志郎(35年間、技術者として福島第一や柏崎刈羽などの原発関連業務に携わる)、後藤政志(東芝で原子炉格納容器や浜岡原発などの設計に携わる。工学博士)、田中三彦(パブコック日立で福島原発などの原子炉圧力容器の設計に携わる。著書に『原発はなぜ危険か』・岩波新書など)の三氏。
 座談会の一部、「今回の事故から何を学ぶか」についてその要点を以下に紹介する。

*原子力は失敗したら元に戻せない不可逆の象徴
 失敗学という言葉があるように、技術は失敗から学ぶことが重要だ。失敗から学べるものは技術として成立する。しかし原子力のように一回の失敗もあってはならないものは、失敗から学ぶことはできない。それは本質的に「技術」とはいえない。人類はすでに原子力でスリーマイル、チェルノブイリ、フクシマと失敗を重ねている。この失敗から技術的に学べることは存在しない。「より安全な原発」などといわれているのを見ると、問題の深刻ささえ学べていない。
 失敗から反省して学ぶことができる技術と、失敗したときには取り返しのつかない、技術とは言えない「技術」とがあることを、特に若い技術者には深く考えてみてほしい。一つの大切なポイントは、可逆か不可逆か、だと思う。元に戻せるか戻せないのか。それが放射能が出たときには戻せない。地球温暖化の問題も同じで、元に戻せないかもしれない。これが環境や技術を考えるときの大原則ではないか。原子力は不可逆の象徴だ。それがなぜ「環境に優しい」とか「クリーン」など形容矛盾が普通のことのように言われていたのか。

*事故が起きる確率がゼロでなければ、リスクは無限大に
 事故が起こる確率と事故が起きたときの被害の大きさを掛け合わせて算出するのがリスクだということ。現在の福島の状況をみて、被害の大きさを算定することができるか。これから何世代にもわたって影響のある被害を、どのように算定できるのか。放射性物質が環境にばら撒かれたら、被害の大きさは計算不可能な無限大になってしまう。だから起きる確率がどれだけ小さくてもゼロでなければ、リスクは無限大になる。この点は他産業の事故と決定的に違う。起きたら無限大の被害になることは、どんなに起きる確率が低くても、やってはいけない。
 いま政府の姿勢も世論も変わってきた。しかし原発の抱えるリスクが変わったのではない。ずっと昔から同じ、リスクは無限大だったし、いまもそうだ。そのような事故と被害が起きてしまってから方向転換を考えるなんて、想像力不足だったのではないか。

*エネルギー中毒のようなライフスタイルを変えよう
 国や御用学者は、破局的な事故を起こす確率の「低さ」ばかりを強調して論じ、いったん事故が起きたときの社会的、人的被害の評価をしないできた。この確率論の危なさが今回、明らかになった。
20世紀の技術は、外界を断ち切っていく「閉じ込め」の技術だった。家の構造がその典型で、外がどうであれ、中は温度も湿度も一定だというありかただ。北海道でも東京でも九州でも同じ高気密・高断熱の家に住むという奇妙なことになっている。これは外を断ち切って、多くのエネルギーを費やして人工の世界を作ることで、こうした「閉じ込め」の技術の極端な表現が原発だ。中に最も危険なものがあるけれど、それを閉じ込めるという発想だ。
 アメリカの環境科学者、ジョン・トッドさんの「21世紀の技術とは、自然の中に存在している技術を模倣していくこと」という言葉が印象に残っている。自然は非常に効率よくエネルギーを循環させていく。現在の技術は、自然からどう学ぶかが問われているのではないか。自然エネルギーを導入するといっても、エネルギー中毒のようなライフスタイルを展開するのであれば、むしろ原発がふさわしい。その生き方を変えていかなければいけない。

<安原の感想> 「自然エネルギー尊重=簡素・知足・持続性」のイメージ
 もっぱら仏教経済(学)のありようを模索中の私にとって、特に原子力技術は手に負えない領域という認識にとどまっていた。しかしこの原発技術者の座談会を読んで「なるほど」と教えられるところが少なくない。例えば以下の諸点である。
・失敗したときには取り返しのつかない、技術とは言えない「技術」があること。それが原子力技術だ。
・事故が起きる確率がどれだけ小さくてもゼロでなければ、リスクは無限大になる。それが原子力技術だ。
・「21世紀の技術とは、自然の中に存在している技術を模倣していくこと」で、現在の技術は、自然からどう学ぶかが問われている。

 以上の三点は「だから原子力技術よ、さようなら!」、つまり脱原発こそ日本の生きる道であることを強調している。この視点、認識を多くの人々の共有としたい。
 もう一つ興味深く感じたのは、末尾の「自然エネルギーを導入するといっても、エネルギー中毒のようなライフスタイルを展開するのであれば、むしろ原発がふさわしい。その生き方を変えよう」という指摘である。これをどう読み解くのが正解だろうか。私なりに「原発依存症=貪欲・暴力・非持続性」、「自然エネルギー尊重=簡素・知足・持続性」というイメージで理解したい。いいかえれば「もっともっと自然エネルギーを」という欲望に執着するのであれば、原発依存症と大差ない生き方といえる。

初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(11年6月6日掲載)より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  http://www.chikyuza.net/
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