人は生まれながらにして自由で平等だ、と言ったところで、いったい誰が、何がそれを保証するというのでしょうか。アルベール・カミュは言いました。「ある種の平等がどれほど自由の敵であるかということは、政治ではあまり感じられていなかった。ギリシャでは奴隷がいたために自由人がありえたのだ。」 自由を謳歌する者たちは、自由を、いつもきまってその社会を構成する者全員に妥当するものとして宣言します。そこにフィクションが生まれる。けれども、そのフィクションがあったればこそ、民衆は自由に向かってほんとうに決起するのです。
実現の現実的な手段や回路をもたないスローガンや構想、それを指して、私は「非合理」と形容します。それはいわば神話であります。神話はときとして凄まじい事実を産み出すのです。マルクス主義の解放神話はロシア革命、中共革命、ヴェトナム解放、そしてキューバ革命を成功させました。万国の労働者階級による独裁が地球上に真の自由・平等と平和をもたらすというインターナショナリズム神話。これは20世紀の百年にわたって現実社会を実際に動かしましたが、いずれの現場でもつねにナショナリズム実話へと変貌しました。日本国憲法第九条の平和神話。これは第二次世界大戦後の50年間、一つの国民国家をこれといった戦争に巻き込まず、一人の戦死者もださずにきましたが、神話提供者の軍事大国アメリカ自体からして国連憲章の優位を背景に日本の再軍備を助長してきたのです。さらにはPKO法や日米地位協定が九条精神を骨抜きにしてきたのです。今や神話としてのマルクス主義も日本国憲法第九条も、そのポジティヴな威力を喪失しつつあると言えましょう。自然法(自然権・自然人)も民主主義(議会・人権)も同様であります。日本国憲法の平和主義は、いわばネガティヴに表現された国家廃絶宣言です。この憲法を擁護しつつ、さらにポジティヴなものつまりトランス・ナショナルな憲法に転回させていく主体(natural persons)が形成されつつあります。私はそのことを以下の著作で訴えました。ご覧ください。
『ソキエタスの方へ』(1999年、社会評論社)、『歴史知と学問論』(2007年、社会評論社)