日本政府のあまりの無礼に怒り嘆いて ― 石川逸子氏新作詩(1月16日作)

30日以内

石川逸子

2019年1月13日
元徴用工訴訟をめぐって
日本政府は 1965年の日韓請求権協定に基づく
協議再開要請への返答を
30日以内に出すよう 韓国政府に求めた

植民地下 日本男性を根こそぎ徴兵したことから
労働者不足となり
一家の働き手 若い朝鮮人たちを
力づくで 脅して 軍事工場へ 飛行場へ 鉱山へ
拉致してきた 大日本帝国

自らの意思で会社と契約した労働者なんかじゃない
いわば奴隷だったのだ

思い出す
1944年9月 徴用令書の公布を受け
「給料の半分は送金する 逃げれば家族を罰する」
と脅され はるばる郡庁に集まり
軍人の監視を受けながら
貨車で釜山へ 連絡船で下関 汽車で広島の工場へ
12畳の部屋に12人詰めこまれたという
在韓被爆者たちの訴えを

思い出す
「ヤミ船でやっと帰国してみたら
送金はなく 赤ん坊が餓死していました」
「朝鮮総督府になにもかも供出して
屋根のない家に家族がいました」
「爆風で怪我し 体調ずっと悪く 今も息苦しくてたまりません」
口々に訴えたひとたちを

思い出す
「小学校時代
日本語をしゃべらないと殴られた
戦争末期には食器まで銃にすると取り上げられた」
と言ったひとを
「豊臣秀吉の朝鮮侵略を讃える授業が辛かった」
と言ったひとを

むりやり連れてこられたのに
自力で帰るしかなかったから
ヤミ船で遭難し 海の藻屑となったひとたちもいた
劣悪な食事に抵抗して捕らわれ
広島刑務所で獄死したひともいた

待てど待てど 戻らない夫を待ち
老いてもなお戸口に立ち尽くす妻もいた

それらひとりひとりの憤懣に 恨に
思いをいたすこともなく
30日以内と 居丈高に迫ることができるのか
「協定は国と国との約束
個人請求権はなくなりません」
これまでの国会での政府公式見解を
あっさりと 闇に葬り
期限を切って回答をせまる ごう慢に 無礼に 気づかないのか

思い出す
かつて日清戦争前夜
1894年7月20日
朝鮮政府に
受け入れるはずもない4項目の要求を突きつけ
同月22日までの回答を迫った
日本政府を

 ―京城・釜山間の軍用電話架設
 ―日本軍のための兵営建設
 ―牙山駐留の清軍を撤退させる
 ―朝鮮独立に抵触する清との諸条約の破棄

翌23日深夜
回答がえられないのを口実に
他国の王宮の門を オノやノコギリで打ち破り
王宮を力づくで占領し
国王夫妻・王子を幽閉し 財宝も奪った
日本軍

朝鮮人なら思い出すであろう
腹が煮えかえる歴史を
再び繰りかえすつもりでもいるのか
相手あっての交渉の日時を
30日以内など
一方的に要求するとは!

韓国人留学生が言っていた
「日本の書店には
反韓反中の本があふれていますが
韓国には反日の本など並んでいませんよ」

恥ずかしい国の
一主権者であることを恥じながら
小さな新聞記事を切り抜く

                                                      ―2019・1・16

日本政府のあまりの無礼な態度に呆れ、拙い詩を作りました。
ご笑読くださいませ。 石川逸子
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石川逸子さんは、第11回H氏賞受賞の詩人。受賞歴で紹介されることを快しとする方ではないが、紹介者が愚物だからお許しいただきたい。訴える術のない、無数の被爆者や「日本軍慰安婦」や戦没者たちの代弁して、その怒りや悲しみを詩にしてこられた。「日本軍『慰安婦』にされた少女たち」 (岩波ジュニア新書)など、多数の著書もある。

その石川さんが、元徴用工訴訟大法院判決への安倍内閣の対応に怒った新たな詩を書いた。1月13日の出来事を読み込んだ詩が16日の作となり、昨夜(19日)友人からメールで転送されてきた。歴史を踏まえての、「時事詩」でもある。

なお、作中にある「日清戦争前夜」の史実について、若干の解説を記しておきたい。

 日清戦争は、日清両国の朝鮮に対する覇権の争奪戦だった。その陸戦は、牙山(韓国・中西部の都市)に籠もる清国軍を日本軍が攻撃したことを発端としている。
 外交上、日本としては清国軍攻撃の口実が必要だった。その策を講じたのが、当時時の朝鮮公使・大鳥圭介だった。1984年7月20日午後、同公使は朝鮮政府に対しての申し入れをしたが、そのなかに「牙山駐留の清軍を撤退させる」との要求があった。この要求は、朝鮮が清軍を退けられないのであれば日本が代わって駆逐する意と解されていた。
 回答期限の22日夜半の朝鮮政府の回答を不満として、23日未明日本軍は駐屯地龍山から漢城(ソウル)に向け進軍を開始。電信線を切断して、朝鮮王宮を攻撃し占領した。こうして日本は国王高宗を支配下に置き、大院君(高宗の実父)を再び担ぎだして新政権を樹立させた。そして新政権に対して牙山の清軍を掃討するよう日本に依頼させた。直ちに日本軍は牙山に向けて進軍し、本格的な陸戦は同月29日に始まり、その後8月1日に至って日清両国が宣戦布告をしている。
 つけ加えれば、大鳥圭介は同年10月に朝鮮公使を解任されている。日清戦争後の1895年9月1日に朝鮮公使に就任したのが三浦梧郎。同年10月8日に、景福宮に押し入っての閔妃暗殺を指揮している(乙未事変)。日本は、日清戦争の前後に朝鮮の王宮に押し込み狼藉を働いているのだ。
(2019年1月20日)

初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2019.1.20より許可を得て転載

http://article9.jp/wordpress/?p=11940

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/

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