「万葉集」にみる恋の歌
現存する日本最古の和歌集である「万葉集」は、奈良時代末期(750~780年)に編纂されたという(大伴家持が編纂に関与)。全20巻、4500首以上が収集され、詠み人は、天皇・貴族から、下級官人、防人、大道芸人、農民、に及び、また東国民謡(東歌)も拾われ、さらに作者不詳(詠み人知らず)の和歌も2100首以上あるという。
足引の山のしづくに妹待つと吾が立ち濡れぬ山のしづくに (大津皇子)
吾を待つと君が濡れけむ足引きの山のしづくにならましものを (石川郎女)
また、万葉集には4割が恋の歌だと言われる。上記の2首も、よく引かれる相聞歌である。
身分の相違を問わず、貴族も防人、農民も、男も女も、実に率直な恋の歌を詠んでいる。これらを読むと、人間の素直な恋情がありのままに表現されていて、なぜか羨望さえ抱いてしまう。なぜ、かつては、ここまで率直であったのだろうか。
一つには、やはり当時の「つがいの形」の影響が大きいのだろう。女親から生まれる子どもたちは、男も女も、その母方の生活の場で成長することになる。歴史的に「母系制」「父系制」がいつ頃成立したのか、またどのように整然と区分されたのか、疑問も多いが、少なくとも、当初は「母系」が軸であったこと、あるいは強力であったこと、は確かだと思われる。
こうして、長じた娘の部屋(=妻)に恋した男が通う「妻問い」が「妻問い婚」や「足入れ婚」「入り婿婚」という「つがいの形=婚姻」として定着していくのだろう。「女が招き、男が訪れる」、この形の場合、双方の気持ち=恋情こそが絆である。どちらかの気持ち=恋情が薄れたり離れたりすれば、「招く」ことも「通う」ことも廃れてしまう。何とも正直な話である。
武士の「家」制度と「嫁取り婚」
しかし、土地の私的な所有が始まり、貧富の差が生じ、階層化も顕著になる。さらに所有した土地を武装によって守る武士の登場によって、いわゆる「家」制度が誕生する。
日本では鎌倉時代以降の武士階級の下では、「家産」を増やし、護り、継続(相続)していくために、婚姻もまた「家のための女」=「嫁」を娶る「嫁取り婚」へと、大きく変わっていく。かつての「妻問い婚」と比べれば、180度もの大転換である。
このような制度下では、女は「家の跡継ぎ」を産むための「道具」ともなり、女は「子産み器」「借り腹」と見なされる。さらに、子どもを産めない女は、「石女(うまずめ)」と嘲笑され、「子無きは去る!」と真っ先に離縁されてしまう。
また、嫁が産む子が必ず「夫」の子であることを保障するために、嫁入り前の「処女」、嫁した後の「貞操」は、「家」制度にとって不可欠の、女に求められる性の重要な規範となった(女は二夫にまみえず!「姦通」は重罪である!)。
自ら、恋に生き、自らの性の衝動に忠実に生きようとする女は「淫ら」な者として蔑(さげす)まれた。
ところが、男にとっては、自分が産ませる子どもはすべて男の「血を受け継ぐ子」である。権力者ほど、多くの女を囲い、多くの「自分の子」を産み落とさせた。もっとも相続は「男」に限られていたため、男の子を産めない女は、子を産めない女に次いで、軽んじられた。
このように振り返って見るだけで、「家」制度下における男と女の関係は、ひたすら権力(暴力)を伴う上下関係であったことが明らかである。一人の男と一人の女の間に通い合う「恋情」?・・・そのような柔なものは、ごくごく一部の世界(「鶴女房」などのお伽話や、廓での心中話など)に辛うじて生き続けながらも、武士の世界に限れば、容赦なく潰えてしまっていたのであろう。
「家」制度と「嫁取り婚」の一般化 — 明治時代から戦後まで
それでも、江戸時代までは、「家」制度は、武士階級や豪商、豪農の世界でのことであって、一般の、あるいは下々の、商人や農民の世界には制度化される基盤もなく、いま少し、野放図な、あるいは緩やかな婚姻や同棲が行われていたのではなかったろうか。
しかし、明治維新によって、急ごしらえの近代国家、近代社会を作り出した日本は、武士階級での「家」制度を庶民にまでも普遍化し一般化し、「男女平等」の近代の建て前を、「良妻賢母」でおだてながら、その実「男尊女卑」の家制度下にねじ伏せてしまった。さらに、その「家制度」との矛盾を回避するために、それまでの女系や女性天皇の歴史をあえて捨象し、天皇は「男系」のみで継承されることとなった(「皇室典範」)。
こうして、表向きの「近代」を根拠づける「人権」や「男女平等」の理念を、日本社会は、「天皇制」および「家制度」によって、巧妙に裏切り続け、しかも「見て見ぬふり」、欺瞞的な対応を続けることとなったのである。
このことは、敗戦から戦後にかけても同様である。「今度こそは、真の民主主義社会、民主主義国家へ!」とかけ声はかかったものの、それらは主体的でも真実でもなかった。「男系」の天皇制も、「同氏・同姓」の「家」=家族制度もそのまま継承されたのである。もちろん、三世代同居や「家長」が牛耳る戦前型の「家」制度は表向き廃止されたのではあるが、結婚によって新しく形成される所帯=家族は、ほとんどが男の姓・氏に同一化される「家族」すなわち「家」という実質は生き続けることになった。さらに、戦後の「男は稼ぎ、女は家事・育児」という性別役割の社会的な波及と定着は、女の男への経済的従属、つまりは男女不平等を社会的に維持しつづけたことになる。
吉本隆明の「超恋愛論」とは?― 残されたままの疑問と課題
さて、吉本隆明は、以上のような明治期以降の日本社会で、「Love=恋愛」を信奉し、その理想に殉じた文学者たちの軌跡を辿り、「小説」の中にその理想を描きながらも、実生活ではことごとく破綻していった実例を挙げている。北村透谷、国木田独歩しかり。『智恵子抄』を残した高村光太郎もまた、恋愛および恋愛結婚の挫折の一例だろう。
これらの自殺や破綻の事実は、確かに、吉本隆明の言うとおり、「男と女が個人と個人でいられない泥沼があるのです」ということだとは思う。
続いて登場する夏目漱石は『それから』『門』『こころ』さらに『行人』において、「一人の女をめぐる二人の男の葛藤」を執拗に描いている。吉本隆明は、これを、「日本的な恋愛の典型としての三角関係」と称している。
この「日本的な三角関係」とは、おそらく、男と女の直接的な関わりや応答以前に、より強固な男同士の、ある場合には同性愛的な粘りを持つ「男社会」が存在している結果なのかもしれない。
漱石の後を継いで、芥川龍之介もまた、この三角関係という日本的恋愛の形にこだわったという。たとえば『開化の殺人』『開化の夫』など。ただし、吉本隆明によれば、「芥川は頭のいい人ですから・・・日本における文明開化の特質と後進性を、意識的に男女の恋愛関係に象徴させた・・・。知識人が、世間とのギャップの中でどこまでも内向していくというような日本的な条件がなかったとしたら、三角関係小説は生まれません」とのことである(p.124)。
ただし、この日本に典型的といわれる「三角関係」については、いまなお難解である。芥川龍之介の自死とともに、「日本社会における恋愛という課題」それ自体も、曖昧なまま雲散霧消してしまったのではないだろうか。
ところが、吉本隆明は、この『超恋愛論』の「はじめに」の部分で、いきなり次のようなことを述べている。
— 恋愛というのは、まるで細胞同士がひかれ合うような、そんな特別な相手とだけ成立するものです。・・・そういう関係は、お互いがある精神的な距離圏に入ったときに初めて生まれるものであり、その中に入ってしまったら、社交的だとかそうでないとか、顔かたちがどうであるとか、そんなことは何の関わりもなくなるのです。
このような吉本の「恋愛観」を読むと、かつて国家を支える「共同幻想」に対して、恋愛に基づく二者の「対幻想」を対置していたことを思い出してしまう。しかし、ここでは、吉本は、「共同幻想」に屹立する「対幻想」という切り口ではなく、「男と女が立っている地面の下には、伝統とか因習とか昔ながらの家族制度とか、そうした泥沼のようなものがひそんでいます。それを無視したところでは恋愛論は語れない・・・」と牽制しているのである。
はたして、晩年の吉本隆明は、透谷、独歩や漱石の「日本における恋愛の挫折」をどのように受け止め、現代という時代の中で、どのように一歩進めて論じようとしたのだろうか。『超恋愛論』というタイトルの「超」とは、何を意味しているのだろう。
21世紀のいま、世界では、あくまでも「個々人の自由」を基軸に、LGBTあるいは同性婚も公的に許容され始めている。しかし、日本では、「男と女が、子を生して家族となる」という「家族」意識や風習がいまなお根強い。さらになお、そのような新しい家族形成のための「結婚」にも、さまざまな現実的な条件や要望もつきまとっている。
単純に「個人」と「個人」との間柄のこととしてでなく、「個人」に付きまとう「泥沼」=家族意識や風習、を丁寧に掬いながら、繙きながら、また少しづつ縒り直しながら、どのように「恋愛」を根づかせていけるのか・・・どうも、吉本隆明は、問いと課題だけを投げかけて、ご本人は気楽に?旅立たれてしまったようだ。
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