本日のブログは、宮川泰彦さんの論稿「日本軍による久米島住民虐殺事件」の転載。
宮川さんは、かつて東京南部法律事務所という共同事務所で席を並べた同僚弁護士。沖縄出身で、父君も自由法曹団員弁護士と聞いていた。沖縄出身の弁護士といえば、まずは徳田球一である。そして、古堅実吉、照屋寛徳なども。闘士然としたイメージがまとわりつくが、宮川さんは温厚な人柄。少し前まで自由法曹団東京支部長で、それを降りた後に日朝協会東京都連会長を務めている。
宮川さんの母方のルーツは久米島とのこと。久米島は、「沖縄本島から西に約100km、沖縄諸島に属する島で、最も西に位置する島である。人口は1万人弱で、行政上は島全域が久米島町に含まれる。面積は59.53K㎡で、沖縄県内では、沖縄本島、西表島、石垣島、宮古島に次いで5番目に大きな島である。(ウィキペディア)」という。島は、元は二つの村からなり、宮川さんの祖父に当たる方が、一村の村長だったという。その島で、終戦時に複数の住民虐殺事件があった。加害者は本土の軍人。宮川さんならではの押さえた筆致が、生々しい。
とりわけ、終戦後に朝鮮出身者の一家7人がいわれなき差別観から、皆殺しの惨殺(後記の④事件)に至っていることが、なんともいたましい。驚くべきことは、戦後加害者に謝罪も反省の弁もないことだ。沖縄の住民の本土に対する不信の念の根はこんなところにあるのだろう。そして、言い古されたことだが、「軍隊はけっして住民をまもらない」ことをあらためて確認すべきだろう。
論稿は、自由法曹団東京支部の「沖縄調査団報告集」の末尾に掲載されたもの。
自由法曹団東京支部は、今年(2017年)9月16日(土)から18日(月・祝)にかけて、沖縄本島に支部所属の若手団員及び事務局員等総勢23名からなる調査団を派遣し、関係各所を訪問した。若手とは言いがたい宮川さんもその一員として訪沖し、久米島(戦争)犠牲者追悼碑に祖父(久米島具志川村長)の名を確認し手を合わせたところから筆が起こされている。以下に、宮川さんのご了解を得て転載する。
(2017年11月10日)
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日本軍による久米島住民虐殺事件
みやがわ法律事務所 宮川 泰彦
「平和の礎」久米島犠牲者追悼碑に刻まれた濱川昌俊(私の祖父・久米島具志川村長)と濱川猛(伯父・軍医)の名を確認し手を合わせた。
その際にガイドの横田政利子さんから「この久米島の追悼碑には、軍によって殺された島民の名も刻まれている」との説明を受けた。私の母の故郷である久米島で日本軍による虐殺があったことはきいてはいたが、正しくは知らない。そこで簡略ではあるが、自分なりに確認してみた。
<久米島の日本軍と米軍無血上陸>
久米島は沖縄本島の西、那覇市から約100キロにある周囲48キロの島。島には日本海軍が設置したレーダーを管理運営する通信兵の守備隊30名ほどが配置されていた。隊長は鹿山海軍兵曹長。
1945年6月に入り、米軍は久米島を攻略するために偵察部隊を上陸させ、情報収集するため島民を拉致し情報を得た(後記②事件)。さらに、米軍は、後記③事件の仲村渠らからの情報も得ており、久米島には通信兵などの守備兵がわずかしかいないことを把握していたことから、艦砲射撃などは行なわず、無血無抵抗のまま6月26日間島に上陸し占鎖した。久米島守備隊は何ら抵抗せず、山中に引きこもった。
<スパイ容疑虐殺方針>
米軍は、無血上陸前の6月13日夜、ゴムボートで偵察隊を島に送り、比嘉亀、宮城栄明ら3名を連行した。翌14日解放された宮城は農業会仮事務所へ行き、米軍に連行された事実を報告した(後記②事件参照。)。
鹿山隊長は、その翌日6月15日付で、具志川村・仲里村(当時の久米島の2村)の村長、警防団長宛てに「達」を発し、さらに軍布告で「拉致された者が帰宅しても、自宅にも入れず、直ちに軍駐屯地に引致、引き渡すべし。もしこの令に違反した場合は、その家族は勿論、字区長、警防班長は銃殺すべし」とした。
以降悲惨な虐殺が続く。
① 6月27日 安里正二郎銃殺
久米島郵便局に勤務していた安里正二郎は上陸した米兵に見つかり、アメリカの駐屯地に連行され、鹿山隊長宛ての降伏勧告状を託された。安里は隊長のもとに持参したところ、鹿山隊長に銃殺された。鹿山は1972年に行なわれたインタビューで「島民の日本に対する忠誠心をゆるぎないものにするための断固たる措置」だったと語っている。見せしめにしたのだ。
② 6月29日 宮城栄明、比嘉亀の家族、区長、警防団長ら9名虐殺
比嘉一家4人、宮城一家3人、さらに区長と警防団長も責任をとらされ、9名が銃剣で刺殺された。9名は宮城の小屋に集められた。刺殺した鹿山らは、火を放って立ち去った(廃山は火葬だと言い放っていたそうだ。)。黒焦げの死体は針金で縛られ、それぞれ数か所穴があいていた。
③ 8月18日 仲村渠(なかんだかり)明勇一家虐殺
明勇は、海軍小禄飛行場守備隊に配属され、6月はじめに捕虜となり収容所に入れられた。部隊で負傷し米軍に収容されていた比嘉氏とともに、我々の一命にかえても久米島への攻撃を中止させたいということを、通訳を通して米軍に懇願していた。その結果「君たちふたりが道案内するならば艦砲射撃は中止する」ということになった。明勇は、米軍の久米島攻略に道案内として同行し、久米島は無防備の島であることを説明した。そして久米島は米軍の総攻撃の難を逃れた。明勇は、住民に対し、「戦争は終わった、安心して山から帰宅するように」と声をかけまわった。
しかし、仲村渠明勇は鹿山隊に捕まり、米軍のスパイとして、妻、1歳の子とともに、手りゆう弾で爆殺された。
④ 8月20日 谷川昇一家7名虐殺
朝鮮釜山出身の行商人谷川(戸籍名は具仲会)は、妻ウタ(旧姓知念)と長男(10才)、長女(8才)、二女(5才)、二男(2才)と赤ん坊の7名の家族。日本軍からは、谷川は朝鮮人だからスパイをやりかねないと早くから目をつけられていたうえに、行商の品物が米軍からの供与品ではないかと疑われ、谷川はおびえていた。地元の警防団長は一家がかたまっているのは危険だから、散らばって身をひそめるようアドバイスした。8月20日夜になって日本軍は捜索にやってきた。谷川は長男を連れて逃げたが捕えられ、首にロープをかけられ数百メートル引きずられて死亡した。長男は銃剣で刺殺された。妻のウクは赤ん坊を背負い、2歳の二男を抱いて逃げたが捕えられ首を斬られ、泣き叫ぶ二男と赤ん坊もウタの死体の上に重ねて切り殺された。長女と二女は、裏の小屋に隠れていたが、不安にかられて外へ出たところを捕えられ、両親のいる方向へ連れていかれる途中で斬殺された。この日は月夜で、月光の下での虐殺を多くの住民が目撃している。
<これらの事件の特徴>
(1) 赤ん坊から大人まですべてがスパイ容疑者とされ、虐殺されたこと。
(2) すべての虐殺が、1945年6月23日(牛島中将と長参謀長が自決した日)の日本軍が組織的戦闘を終えた日、沖縄戦の終結の後に行なわれていること。上記③、④の虐殺は8月15日の太平洋戦争終結(天皇の玉音放送)の後であること。
(3) 何故戦争が終わっても住民を虐殺したのか。
この点につき、鹿山は「われわれの隊は30名しかいない。相手の住民は1万人いる。地元の住民が米軍側についたら、われわれはひとたまりもない。だから、見せしめにやった」とマスコミのインタビューに答えている。なお、鹿山は1972年のインタビューで、「私は悪くない」「当然の処罰だったと思う」などと、平然と答えている。
日本軍の正体を率直に表していると思う。
以上、佐木隆三「証言記録沖縄住民虐殺」新人物往来社、大島幸夫「沖縄の日本軍」新鮮社、編者・上江洲盛元「太平洋戦争と久米島」、wikipedia「久米島守備隊住民虐殺事件」などから引用して整理してみた。
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2017.11.10より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=9453
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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