明らかになった自民党政権のウソ -沖縄返還は「核付き・基地自由使用」返還だった-

著者: 岩垂 弘 いわだれひろし : ジャーナリスト・元朝日新聞記者
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 「やはり返還運動側の主張は正しかった」。暮れの12月22日に外務省が公開した外交文書に関する報道を読んで私の脳裏に去来したのはそういう思いだった。1972年に実現した沖縄の施政権返還にあたり当時の自民党政権は「米国政府との交渉で、沖縄は『核抜き・本土並み』で返還されることになった」として沖縄返還協定を国会で強行採決したが、実際には「核付き・基地自由使用」返還であったことが明らかになったからだ。いわば、政府・自民党は沖縄の人たちと国民にずっとウソをつき通してきたことになる。当時、沖縄返還運動の取材にあたった者として、胸のうちにわき上がってくる怒りを禁じ得ない。

 沖縄現地での日本復帰運動、それに連動した本土の沖縄返還運動は、1969年から一段と激しさを増した。運動をリードしたのは、沖縄では沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)、本土では革新団体だった。本土の革新団体とは野党の社会党、共産党、労働組合のナショナルセンターの日本労働組合総評議会(総評)などだった。
 復帰協が求めていたのは「即時無条件全面返還」。つまり、施政権の日本返還にあたっては、何ら条件をつけることなく、全面的かつ直ちに返還すべきだ、というものだった。具体的には、沖縄にある米軍基地をすべて撤去し、核兵器も引き揚げよ、という要求であった。本土の革新団体も沖縄の運動と連携し、同じ要求を掲げた。
 しかし、交渉を続けた日米両国政府が示した返還のあり方は「核抜き・本土並み」とされるものだった。つまり、施政権返還にあたっては、沖縄に配備されている核兵器は撤去する、ただし返還後の沖縄にも日米安保条約を適用する、というものだった。日米安保条約は、日本が米国に基地を提供することを取り決めた条約である。したがって、沖縄の米軍基地は施政権返還後も引き続き存続するというのが政府の説明だった。
 
 これに対し、復帰協も本土の革新団体も、政府がいう「核抜き・本土並み返還」を信じようとしなかった。「核抜きといっても、それは表向きのことであって、返還後の沖縄に密かに核兵器が貯蔵されるのではないか」「今、沖縄の米軍基地からベトナムを爆撃するための米軍機が飛び立っている。返還後の沖縄に日米安保条約が適用されると、米国はそれができなくなる。なぜなら、条約第6条の実施に関する交換公文によれば、日本の米軍基地からの戦闘作戦行動、すなわち米軍機の自由発進を認めていないから。でも、米国はこれまで通り自由発進を続けるのではないか。そうなれば、もはや日米安保条約の変質といって差し支えなく、日本全体にとって極めて危険な事態となる」というのが、その理由だった。
 社共両党はこうした疑念を国会で取り上げ、沖縄と本土では、あくまでも「即時無条件全面返還」の実現を目指す運動が一層強まった。

 69年11月、佐藤栄作首相の訪米が発表された。米国のニクソン大統領と会談し、沖縄返還についての合意をとりつけるための訪米だった。
 これに対し、復帰協は11月13日、那覇、平良、石垣の三市で「核付き・基地自由使用返還をたくらむ佐藤訪米反対・一切の軍事基地撤去・安保廃棄・11・13県民総決起大会」を開いた。主催者によると、約10万人が集まった。
 本土では、同16日、社会党・総評系団体が全国各地で首相訪米抗議集会を開いた。主催者によると、約120カ所に72万人が集まった(警察庁調べでは、社会党・総評系以外のものも含め全国210カ所に計12万人)。東京では、社会党・総評系の集会に約7万人(警視庁調べは4万2000人)が集まった。一方、「首相訪米実力阻止」を掲げる新左翼系の学生、労働者らがこの日、蒲田駅、品川駅周辺で交番襲撃、バス奪取、バリケード構築などのゲリラ活動を展開。学生、労働者らと機動隊が衝突し、蒲田駅周辺では学生が投げた火炎びんで駅前の路上が火の海と化した。このゲリラ活動で1640人が逮捕され、学生、労働者、警官、市民らのけが人は77人にのぼった。

 抗議の声の中、佐藤首相は同17日、米国へ出発、ワシントンでニクソン大統領との会談に臨み、23日、日米共同声明が発表された。
 それは「両者は、日本を含む極東の安全をそこなうことなく沖縄の日本への早期復帰を達成するための具体的な取り決めに関し、両国政府が直ちに協議に入ることに合意した。さらに、両者は1972年中に沖縄の復帰を達成するよう、協議を促進すべきことに合意した」とうたう一方、「総理大臣と大統領は、施政権返還にあたっては、日米安保条約及びこれに関連する諸取り決めが変更なしに沖縄に適用されることに意見の一致をみた」としていた。さらにまた、声明は「総理大臣は、核兵器に対する日本国民の特殊な感情及びこれを背景とする日本政府の政策について詳細に説明した。これに対し、大統領は、深い理解を示し、日米安保条約の事前協議制度に関する米国政府の立場を害することなく、沖縄の返還を、右の日本政府の政策に背馳(はいち)しないよう実施する旨を総理大臣に確約した」と述べていた。この声明により、日本政府は、政府が目指してきた沖縄の「核抜き・本土並み」返還が達成される、とした。
 
 これに対し、沖縄では日米共同声明に反対し、「即時無条件全面返還」を求める運動が続いた。この間、1970年12月20日未明には、コザ市(現沖縄市)で、数千人から1万人の群衆が米軍人らの車両に放火する騒ぎ(コザ暴動)が起こり、内外に衝撃を与えた。
 だが、日米共同声明に基づき、日米両国政府により沖縄返還協定が作成され、71年6月17日、東京とワシントンで調印式が行われた。東京の首相官邸で行われた調印式には、沖縄トップの屋良朝苗・琉球政府主席も招かれた。しかし、屋良主席は「県民の立場からみた場合、わたしは協定の内容には満足するものではない」として、出席しなかった。
 
 沖縄返還協定は、同年秋の国会に提出された。復帰協はその批准に反対して、11月10日、那覇市で県民大会を開いた。米軍基地で働く労働者の組合、全沖縄軍労働組合(全軍労)は24時間ストを決行した。
 が、自民党は同17日、衆院沖縄返還協定特別委員会で、社会、共産両党の反対を押し切って返還協定を強行採決。これに対し、同19日には、総評系の44単産200万人が抗議ストを行い、夕方から夜にかけて、全国各地で抗議の集会とデモがあった。その参加者は警察庁の集計でも46都道府県930カ所53万2000人にのぼった。これは、1960年の安保改定反対闘争のピーク時の50万5000人を上回る規模だった。
 しかし、自民党は同24日、衆院本会議を議長職権で開会し、社会、共産両党欠席のまま返還協定を承認してしまった。かくして、沖縄返還運動は終息を迎え、1972年5月15日、沖縄の施政権が日本に返還された。
 当時全国紙の記者だった私は1969年以来、こうした一連の沖縄返還運動の取材にあたった。

 ところが、12月22日付朝日新聞によれば、公開された外交文書には、沖縄返還に向けて日米両国政府が行った交渉の内容を記した文書が含まれ、その中には沖縄の米軍基地をベトナムへの出撃に使うことを日本側が容認していたことを示す文書もあったという。
 同記事によれば、69年11月に開催された佐藤首相とニクソン大統領による首脳会談で沖縄施政権の返還合意が成立するまでの約半年間の公電や会談録などをまとめたファイルがあった。それによると、日米間の返還交渉終盤の焦点は、施政権返還後の在沖米軍基地からの米軍の「自由発進」だった。同記事は書く。
 「米側は朝鮮半島や台湾に加え、ベトナムへの出撃にも沖縄の基地を使わせるよう求めた。日本側は『地域は拡張に歩み寄るも、<諾>の意図の表現はできるだけぼかすの他ないと考へる次第』などと苦悩している。7月の会談では、米側が『万一に備え秘密合意の形式について考えてみたい』と密約の検討を提起。2カ月後に下田武三・駐米大使が米側に『秘密文書は絶対に避けることとしたい』としつつ、ベトナム戦争が続く限り『軍事行動の継続を日本側が承認すべきことは当然』『本年秋の時点において、これを明示することが出来ないというに過ぎない』と伝え、ベトナム出撃を事実上容認した」

 沖縄返還を巡る核密約についてはすでに明らかになっている。これは、69年11月の佐藤首相・ニクソン大統領の会談で「極秘」として結ばれたもので、2009年12月22日付読売新聞のスクープでその内容が明らかになった。
 そこでは、ニクソン大統領が「沖縄の施政権が日本に返還されるまでに、沖縄からすべての核兵器を撤去するのが米国政府の意図である。しかし、日本を含む極東諸国の防衛のため米国が負う国際的責任を効果的に遂行するため重大な緊急事態に際して米国政府は日本政府との事前協議の上、沖縄に核兵器を再び持ち込み、通過させる権利が必要となるだろう」と述べたのに対し、佐藤首相は「重大な緊急事態に際し、米国政府が必要とすることを理解し、そのような事前協議が行われた場合、遅滞なくこれらの必要を満たすだろう」と述べていた。

 民主主義を基盤とする政治では、ウソで固められた外交はあってはならない。私たちは今こそこの当たり前の原則を改めて確認したい。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

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