「「空虚な中心」と見えたものは実は空虚ではない。明治維新から一九四五年まで、それはある意味で「主軸となる中心」だった。そして、戦後から現在に至るまで、そこでは皇室祭祀が行われている。皇室祭祀は日本の宗教文化、精神文化にさまざまな影響を与え続けている。そして皇室祭祀を重要な拠り所としながら、国家神道は強化しようとする運動や国体論的な言説が再生産され続けている。薄められた形ではあるが、明治維新前後から形成されていった国家神道はなお存続している。」[1]
島薗進『国家神道と日本人』
1 『国家と祭祀』とその後
私が「国家神道の現在」という副題をもった『国家と祭祀』[2]を青土社より刊行したのは2004年のことである。その書の帯に「誰が死者を祀るのか」「〈靖国〉を問い直す」とあるように、21世紀日本に「靖国問題」を作り出している「国家神道の現在」に向けてこの本は書かれたのである。私はこの「国家神道の現在」という現状認識を次のように書いた。『国家と祭祀』という「国家神道」への私の問いはこの現在から発せられるものであることを確認するために、やや長いが『国家と祭祀』から私の言葉を引いておこう。
「国家神道の現在とは、歴史から神道的国教の理念を呼び戻しながら国家と宗教祭祀との関係が見直され、再構築されようとしている時である。日本国憲法の原則[3]から状況主義的で無原則な逸脱が戦争と宗教をめぐる憲法規定にかかわってなされていることは重い意味をもっている。そのことは近代国家における戦争と宗教祭祀とが切り離して考えることのできない問題であることを示しているのだ。さらにそのことは国家主義・軍国主義に塗り込められた「国家神道」像を彼ら神道人がなぜ虚像として倒壊させねばならなかったかをも教えている。国家神道の現在をこのように認識するならば、日本という近代国家が戦争と宗教祭祀とを国家の存立基盤にもちながらいかに形成されていったかが問われねばならないだろう。」
戦争と神道的祭祀とを国家の存立基盤としながらなされていった日本の近代的国家形成を、私は国家それ自体に聖性をもたせながら「戦う国家が同時に祀る国家」としてある近代国家の日本的形成としてとらえていった。したがって「戦わない国家」(憲法第9条)「祀らない国家」(同第20条)として自己規定した日本国憲法は、「戦う国家が同時に祀る国家」であった帝国日本の自己否定をいうだけではなく、憲法前文[4]がいうように世界史的理想とその実現の努力とを自らに課しているのである。
平成という時代はいま終ろうとしている。これを平和主義的天皇の時代の終わりとしてのみ記してはならない。平成とは「戦わない国家」の憲法的規定を「祀らない国家」の憲法的規定とともに空文化していった時代であるのだ。日本の解釈改憲的な再軍事化はもはや改憲自体を急ぐ必要がないほどに進んでしまっているではないか。伊勢や靖国の〈私的〉を偽称する政府・国会議員たちの公然たる参拝行為や、伊勢・靖国参拝の国民的大衆化は、「祀らない国家」の憲法的規定を色あせた条文にしてしまっているではないか。
平成16年(2004)、小泉首相の公然たる靖国参拝[5]にわが憲法的体制への初めての公然たる挑戦を見た私は、その挑発行為に答えることを思想史家としての自分の務めとした。私の『国家と祭祀』はこのようにして書かれたのである。私が先にこの書の状況的動機としていった「国家神道の現在」とは、平成日本のこのような時をいっている。「国家神道の現在」というこの時とは、先の言葉を繰り返し引いていえば、「歴史から神道的国教の理念を呼び戻しながら国家と宗教祭祀との関係が見直され、再構築されようとしている時」である。
このような時に「戦わない国家とは祀らない国家」であることを戦後日本の国家的国民的テーゼとしていう『国家と祭祀』は、伊勢・靖国参拝の国家・国民的行事化の急速な進行に強い危惧をもっている人びとにとって大きな思想的な支柱になりえたと私は信じている。だが同時にこの書は伊勢・靖国参拝の国家・国民的行事化の推進をはかる人士にとって、当然破却さるべき代物であったはずである。この人士を〈神道側〉というならば、〈神道側〉の私の書への非難・論難は当然予想されることであり、そのことの有無に私はまったく気にすることはなかった。平成22年(2010)7月に島薗進著『国家神道と日本人』が岩波新書の一冊として出るまで、私の『国家と祭祀』は時の経過の中で忘れられていると思っていた。
私は『国家神道と日本人』という書名に怪訝な思いを抱きながら見ていった。著者島薗進は日本思想史の世界で私と関係をもち、『国家と祭祀』の書評をも書いている。だが『国家神道と日本人』には『国家と祭祀』に一言半句の言及もない。さらに巻末に挙げられた9頁にも及ぶ厖大な参考文献に『国家と祭祀』はない。私はここではじめて『国家と祭祀』は無視されたことを知ったのである[6]。『国家と祭祀』の無視の上に島薗の「国家神道」の日本人論的再構成があることを私は知ったのである。
2 『国家神道と日本人』
島薗は『国家神道と日本人』の著述にあたって『国家と祭祀』を無視した。後に彼はネット上の応答[7]で、無視したわけではない、新しい「国家神道」をめぐる著述に当たって参考にする意味がなかったからだといっている。それは文字通りの無視、彼の新しい「国家神道と日本人」という問題構成に当たって『国家と祭祀』は邪魔物であったにすぎないといっているのである。
1970年に村上重良は国家神道復活の動きに接し、怒りを新たにする形で『国家神道』(岩波新書、1970)を書いた。その『国家神道』の「まえがき」を村上は「国家神道」を包括的に定義する次のような言葉でもって書き出している。「国家神道は、二十数年以前まで、われわれ日本国民を支配していた国家宗教であり、宗教的政治的制度であった。明治維新から太平洋戦争の敗戦にいたる約八〇年間、国家神道は、日本の宗教はもとより、国民の生活意識のすみずみにいたるまで、広く深い影響を及ぼした。日本の近代は、こと思想、宗教にかんするかぎり、国家神道によって基本的に方向づけられてきたといっても過言ではない。」これは怒りをもってした村上の「国家神道」の定義である。私は村上のこの怒りを継承するものとして『国家と祭祀』を書いた。その『国家と祭祀』を無縁の書とした島薗の『国家神道と日本人』批判として私は「怒りを忘れた国家神道論ー島薗進『国家神道と日本人』批判」という文章を書いた。あらためてここにそれを要約して示す労を省いて、本論部分をそのままここに引き写そう。
[村上国家神道論の特色]
昭和のファッシズム期にいたってその姿を暴力的に顕在化させる近代日本の精神的・政治的・制度的な国民支配のシステムを村上は国家神道とするのである。なぜそれが国家神道と呼ぶ国家宗教であるかは別に説明されるだろう。近代日本にたしかに存在した国民を包括的に支配する精神的・政治的なシステムを、国家神道ととらえることにおいて私は全く村上と同じくする。ただ私が国家神道を、近代日本における天皇制的な国民国家の形成と分かち難い国家祭祀的な宗教システムとして、近代国家における創出に力点を置いて見るのに対して、村上は国家神道を神社神道という民族宗教を基盤にし、それを前提にした近代天皇制国家における国家宗教的な再編として見るのである。村上国家神道論の特色は、民族宗教としての神社神道を国家神道成立の重い基盤として見ているところにある。 「一九世紀後半に、近代天皇制国家は、神社神道の特異な性格を素材として、新しい国教、国家神道をつくりだし、日本の歴史上では異例の、単一の支配的な教権をうち立てた」という村上は、神社神道による日本的「国教」の特異な形成をこう記述している。
「神社神道という、あまりにも特異な民族宗教の存在こそ、国家神道の形成を可能にした最大の要因であった。宗教の単一化が実現しなかった日本社会では、民族宗教の骨格が生きつづけ、農耕儀礼を主宰して国土にイネの豊饒をもたらす宗教的機能は、歴代の天皇の宗教的権威としてうけ伝えられてきた。近代天皇制国家は、もっぱら宗教的機能によって存続してきた天皇制と神社神道を基礎に、民族宗教の再構築という時代錯誤の構想を実行に移した。」
村上がいう神社神道は、日本特異な民族宗教を意味している。それは古代朝廷による神祇制度的な統一からなる古代祭祀国家の軸をなす皇室神道と、原始神道以来の地方的社会集団の共同体的祭祀としてあった神社神道とを包括するものである。上に引く村上の記述は、天皇が農耕社会的日本の代表的な祭祀者としての宗教的な権威をもってきたことをいっている。そこから村上は、皇室神道を軸に神社神道を基盤にして日本特異な民族宗教としての神社神道があることをいうのである。そしてこの神社神道の近代の天皇制国家における再構成を国家神道だとするのである。
村上の国家神道論は、天皇制国家によるその近代的形成をいうとともに、民族宗教としての神社神道との連続性をもったものであることを強調する。それゆえ村上の戦前の日本国民をトータルに支配した国家神道に対する怒りは、世界に稀な国家神道という「国教」形成の最大の要因としての神社神道に向けられることになる。村上の怒りは、民族宗教的な原因にまで遡る形で根底的であり、全歴史的でもある。さらに村上の批判は、「民族宗教の原理は、個人的内面的な契機をまったく欠いた、どこまでも原始的な宗教観念によって組み立てられており、近代社会はもとより、成熟した封建社会においても、とうてい通用するべくもない素朴な思考であった」という近代的宗教観に立つものであった。それゆえ村上の怒りは、国家神道の反近代的な性格にも向けられるのである。たしかに村上の国家神道論は、戦後の近代主義的宗教観に立った非宗教的な国家宗教(国家神道)の反近代的な制度的・思想的装置への批判という性格をもつものであった。これは講座派的な天皇制国家批判を村上が共有するところからくるのであろう。私は近代天皇制国家日本の国家神道という思想的・制度的装置に対して怒りをもっても、それを反近代的として怒るわけではない。
[島薗の村上批判]
島薗は近代になって国家を焦点として明確な形をとってくる神道、あるいは国家と結びついた神道を国家神道と呼ぶ。そしてこの神道の推進者の立場から表現すればこうなるとして、国家神道の定義を提示するのである。
「国家神道は皇室祭祀と伊勢神宮を頂点とする神社および神祇祭祀に高い価値を置き、神的な系譜を引き継ぐ天皇を神聖な存在として尊び、天皇中心の国体の維持、繁栄を願う思想と信仰実践のシステムである。」
島薗が末尾の章で、「(天皇崇敬と国体論的な)さまざまな政治・宗教・文化団体があり、さらに広く国民の間にゆきわたっている天皇崇敬や国体論的な考え方・心情がある。これらに支えられつつ、国家神道は戦後も存続し続けて今日に至っている」という国家神道とは、まさしく島薗が上の定義でいう、「天皇中心の国体の維持、繁栄を願う思想と信仰実践のシステム」としての国家神道である。彼はその書の冒頭ですでに、「天皇と国家を尊び国民として結束することと、日本の神々の崇敬が結びついて信仰生活の主軸となった神道の形態」として国家神道を定義しているのであるが、これを信奉者の側から言い直したものが上の定義であろう。ともあれ島薗がいう国家神道とは、天皇崇敬という国民の信仰的心情をも包括した概念である。しかしこの定義は一体何を意味するのであろうか。何のために島薗はいま、国家神道を日本近代の天皇崇敬的体系として定義し直そうとするのだろうか。国民における天皇崇敬の根深さをあらためて確認するためなのか。しかしそれをいうために、わざわざ国家神道の再定義をする必要があるのだろうか。そう考えると、国家神道をいま近代日本の天皇崇敬的体系として再定義することこそが島薗にとって重要なのだといわざるをえない。
島薗の再定義は、村上の国家神道定義の批判を通じてなされている。まず島薗は村上の国家神道像が「戦時中の国家神道の像にひきずられているところがある」と批判する。しかし戦時中に猛威をふるったことこそ、国家神道批判の最大の理由をなしている私などの議論からすれば、「戦時中の国家神道の像にひきずられ」るのは当たり前のことであって、それに引きずられない国家神道論とは見直し論以外の何なのかと逆に問いたくなる。たとえば「教育勅語が国民にたいしてふるった絶大な強制力は、天皇の現人神としての宗教的権威に淵源していた」(村上『国家神道』Ⅲ章)といった村上の言葉に、島薗は戦時ファッシズム期の天皇観を遡及させた不正確な言及を見ようとするのだろう。そうだとすれば、島薗の村上批判とは、「現人神」幻想をいう新田均らの神道派の見直し論に迎合したものだということになる。
島薗による村上国家神道論への最大の批判は、村上における神社神道概念に向けられている。「村上重良の国家神道論には、もう一つ大きな欠点がある。それは、国家神道をまずは神社・神職の組織として捉えることだ」と島薗はいう[1]。ここで島薗がいう「神社・神職の組織」体としての神社神道とは、狭義の、近代の法制史的な概念としての「神社神道」である。村上が国家神道形成の最大の要因としていうのは民族宗教としての神社神道である。「神社神道は、神道の主体であり、国家神道の形成は、民族宗教としての神社神道の存在によって、はじめて可能となった」(村上『国家神道』Ⅰ「神道のなりたち」)と村上がいう通りである。これは広義の神社神道概念である。島薗は狭義の「神社神道」概念によって、広義の神社神道概念による村上国家神道論の誤りをいっているのである。これは狭義の概念規定の正確さによって、広義の概念による議論展開の不正確を批判する典型的な論難的言説のスタイルである。島薗のいう狭義の「神社神道」とは、「(近代の)国家神道の形成の過程で、次第に実質をもつようになったものである。それは神道の一つの形態であって、近代の国家や法の制度に強く規定されて形作られたものだ」とはっきりというように近代の法制史的な概念としてのものであり、近代の宗教制度的に再構成されたものである。この近代的な「神社神道」概念をもって、村上の民族宗教的な神社神道概念を間違いだというのはおかしい。狭義の概念が正しくて、広義の概念は間違いだとする子供だましの議論は、本当の言説的な意図を隠したものである。
島薗の意図は国家神道論からの神社神道隠し、靖国隠しにある。日本の民族宗教としての神社神道を基体とした村上の国家神道論を誤りだとする島薗は、国家神道形成における神社神道の意味を限定し、形成の主体的役割から免れさせる。「皇室祭祀や天皇崇敬の側面を軽視し、神社神道に偏った国家神道の理解をあらためなくてはならない」として島薗はこういうのである。
「神社が神社神道として組織化されていくのは、国家神道の形成・確立のきわめて重要な局面をなしている。しかし、国家神道すなわち天皇崇敬や皇道・国体の理念を中核とした神道は、皇室祭祀や皇室神道の形成とその国民生活との関連づけ、あるいは天皇崇敬や国体理念の形成と普及という観点からも見ていく必要がある。神祇(日本の土地と結びついた神々)に関わる従来の諸信仰文化が組み立て直される過程で、明治維新以降に形成されていく神社神道は、この意味での国家神道のきわめて重要な構成要素である。しかし、神社神道だけが国家神道を代表するわけではない。」(第四章)
神社神道をその形成主体の位置からはずすことによって、国家・国民的な天皇崇敬システムとしての国家神道概念がもたらされる。しかもこの天皇崇敬という信仰と行為のシステムとしての国家神道が、国民的なシステムとして形成されたことが重要なのだと島薗はいう。「現実社会のなかで生きた多様な人びとの意識や行動のなかに国家と宗教とのかかわりを問う」[2]ことの重要性をいう安丸良夫の指摘を受けて島薗は、国民の意識と生活における国家神道(天皇崇敬と国体の理念)を追跡する。安丸民衆史が下からの天皇制を記述するように、島薗国家神道論は下からの国家神道を記述する。昭和の戦争の日々、神社に詣でて天皇陛下万歳を三唱したわれわれ小国民に、「ほらその通りお前たちこそが国家神道の担い手であったのだよ」と島薗は教えているようだ。「国民自身が国家神道の担い手になる」と島薗はいう。靖国を支え続けているのは神社神道ではなく、国民よ、お前自身だよというのである。だから国家神道はいまも存続し、靖国はいまも国民の信仰の中に存続すると島薗はいうのだ。糞食らえ、島薗![3]
私の母は1994年に93歳で亡くなった。死ぬまでこうして生活できるのは「お兄ちゃんのおかげだ」と言い続けていた。私の兄は1942年に中国の杭州で戦病死した。その遺族年金のおかげだというのである。しかしその母は決して靖国に参拝することはなかった。兄の戦病死が知らされた日の翌朝、小学生の私は泣き崩れて顔つきまで変えてしまった両親を見て驚いた。国家神道がこの日本人の悲しみと怒りと無縁に記述されることを私は許さない。[4]
注[1]「村上重良の国家神道論には、もう一つ大きな欠点がある。それは、国家神道をまず神社・神職の組織として捉えることだ。「神社神道」という語は、明治中期に神道のうちの「教派」と「神社」が分けられ、前者の「教派神道」に対して、後者をまとめてよぶために用いられるようになったもので、個別の神社と神職を単位的に実在とし、その集合体を指す用語法で近代法制度にはなじみやすい。しかし、近代以前にはそのような組織体は実在しなかった。」島薗進『国家神道と日本人』第2章。
[2]安丸良夫「近代転換期における国家と宗教」『宗教と国家・日本近代思想体系5』安丸・宮地校注、岩波書店。
[3]私はこの感情的な表記を何度か消そうとした。しかし消すことはできなかった。私はこの書を許すことはできない。
[怒りを忘れた国家神道論]
私は島薗『国家神道と日本人』に対する批判に「怒りを忘れた国家神道論」というタイトルを付してネット上に公表した。「1970年に村上は、国家神道の復活の動きに接し、怒りを新たにする形で『国家神道』を書いたのである。私もまた小泉元首相の確信犯的な靖国参拝に対する怒りを『国家と祭祀』として表明した。私は村上の国家神道概念をそのまま継承することはなくとも、彼の怒りは正しく継承した」とその文章の冒頭に書いた。私がこのように村上による「国家神道」の概念構成の内側に彼の怒りを見、それに私が同調したりすることに島薗はただ主観的な、非学問的な偏向を見るだけであるようだ。島薗は私への反論[8]の中で「国家神道と戦争」あるいは「国家神道と対外侵略」という問題についてこういっている。
「たとえば、対外政策や軍隊の秩序形成における国家神道の作用も、植民地における国家神道の抑圧性の問題も、国家神道の概念内容が明らかにならなければ、また、皇室祭祀や天皇崇敬のシステムを問題にしなければその意義を明らかにしようがない。そうした基礎的作業が不十分だったために、村上重良の『国家神道』は今日、継承が困難なものとされ、「国家神道の(概念の)空洞化」(山口輝臣『明治国家と宗教』1999)が唱えられるようになって久しいのだ。」
これは私を驚かせる言葉だ。こういう言葉が平然と吐かれるところに、「国家神道」論がおちいっているおぞましい現状があるのではないか。この言葉は侵略戦争の定義が曖昧だから中国大陸における戦争行為も虐殺事件もその意義を定めがたいという歴史修正主義者のいうことと同じである。中国における戦争や虐殺行為の責任を取ることの拒否から、戦争そのものの性格規定が問われたりしているのであって、その逆ではない。昭和の天皇制的ファッシズムの加担者であり、むしろその支柱であったことの否定が「国家神道」概念の問い直しを要求し、いまやそれを殆ど空無化するにいたっているのである。「国家神道」概念を空無化するものは、「日本ファッシズム」をも空無化してしまうのである[9]。
「国家神道」の見直しをいう歴史修正主義者の作業は、これを空無化するだけではなく、すでにこれを有害な概念として廃棄することをいうにいたっている。島薗が「国家神道」概念を天皇に対する国民の崇敬感情を包括するまでに拡張し、「国家神道はなおも存続している」というとき、歴史修正主義者はそんな「国家神道」概念などは廃棄して、21世紀の自立的な天皇教的国民国家を提起しようとしているのである。『国家と祭祀』が無視されていった平成という時代の末年に「国家神道」概念をめぐって見出す状況とはこのようである。
[2]子安宣邦『国家と祭祀——国家神道の現在』青土社、2004。この書は雑誌『現代思想』の2003年7月号〜2004年4月号に連載された論文からなっている。
[3]ここでいう日本国憲法の原則とはいうまでもなく第9条の「戦争放棄、軍備及び交戦権の否認」と第20条の「信教の自由、国の宗教活動の禁止」の原則をいう。
[4]「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。」(日本国憲法前文)
[5] 小泉純一郎元首相は「終戦記念日に靖国神社に参拝する」と公約し、首相就任の平成13年(2001)は8月13日に公用車で靖国を訪れ、「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳し、献花代3万円を納めて参拝した。その後も正月や春と秋の例大祭など毎年参拝し、首相在任最後の年の平成15年には8月15日に参拝した。
[6]私のこの言い分に島薗はネット上で反論している。「国家神道」をめぐる島薗自身の論文を子安も『国家と祭祀』で無視しているではないかと売り言葉に買い言葉的な反論しながら、「子安氏の『国家と祭祀』は、私にとっては江戸時代の思想史的な論述の部分で参考になるところがあるが、今回の『国家神道と日本人』ではとくに参照してはいない。研究書ではない新書においては、文献リストを掲載するとしても最小限にすべきものであるが、云々」といっている。島薗は『国家と祭祀』を彼の著述の参考文献として認めていないといっているのである。私はこれを「無視」といっているのである。
[7]私の批判「怒りを忘れた国家神道論—島薗進『国家神道と日本人』批判」「イノセントな学者的欲求が犯す罪—「怒り」の理由」と島薗の応答「『国家神道と日本人』への批評についてーとくに子安宣邦氏の論説に応答する」はサイトちきゅう座(http//chikyuza.net/)で見ることができる。
[8]島薗進「『国家神道と日本人』への批評についてーとくに子安宣邦氏の論説に応答する」(サイトちきゅう座http//chikyuza.net/)
[9]新田均『「現人神」「国家神道」という幻想』PHP研究所、2003。なお新田は「国家神道」研究の学界的総括者・裁定者の如き位置を占め、その総括論文を書いたりしている。新田均「最近の動向を踏まえた「国家神道」研究の再整理」(宗教法学会「宗教法」2013年10月)。
[私はこの「国家神道」をめぐる論をすでに講座で話しながら、これをネット上に公表することをためらっていた。再度島薗批判をすることについての疑義が私をためらわせた。だが平成末年の天皇ブームというべき状況は、この「国家神道」論の公表への私のためらいを捨てさせた。19年2月18日]
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2019.02.18より許可を得て転載
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/79078132.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study1021:180220〕