明治維新の近代・11 なぜ「明治の精神」なのか―漱石の『こころ』を読む

著者: 子安宣邦 こやすのぶくに : 大阪大学名誉教授
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「私は殉死という言葉を殆んど忘れていました。平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだ儘、腐れかけていたものと見えます。妻の笑談を聞いて始めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積だと答えました。私の答も無論笑談に過ぎなかったのですが、私は其時何だか古い不要な言葉に新らしい意義を盛り得たような心持がしたのです。」

『こころ』「先生と遺書」五十六[1]

1 1914年ということ

『こころ』は大正3年(1914)4月20日から8月11日にいたるまで、110回にわたって東京・大阪の朝日新聞に連載された。同じ年の9月に『こころ』は漱石自身の装幀になる単行本として岩波書店から刊行された。この大正3年を1914年という世界史的年号をもっていえば、それは第一次世界大戦の勃発した年であることを人は直ちに理解するだろう。『こころ』の刊行年を日本的年号でもっていうか、世界史的年号でもっていうかは、記述者の嗜好的選択の問題として片付けていいことではない。例えば明治28年を1895年というとき、それは明治史的文脈における事件を世界史的文脈にうつしかえ、とらえなおすことを意味するだろう。明治28年の事件が1895年の事件とされることによって、その歴史的な意味がはじめて明らかにされることはあるのである[2]

『こころ』の刊行年が1914年であるといえば、人は当時の日本の世界史的文脈における位置と行動とを容易に思い描くことができるはずである。すなわち連合国側に立って対独宣戦布告した日本は直ちに青島を占領する。そしてその翌年(15年)の1月には日本は中国の袁世凱政府に対華二十一ヵ条の要求を突きつけるのである。帝国主義時代の日本は歴然として世界史上に存在するにいたったのである。漱石の『こころ』はこの帝国主義日本の幕開けというべき時期の新聞小説として書かれたものであることを知るのである。

だが『こころ』における「先生」の自死にいたる事件の手記による語り(「先生と遺書」)は明治天皇の死と乃木将軍の殉死という事件を背景にもってなされていく。明治44年ー45年(1911ー12)というのが『こころ』の事件の生起した時期である。「先生」の事件の語り手である「私」は大学を卒業し、田舎に帰った。「私」を喜び迎えた老いた父は明治天皇の病とともに己の病を深めていく。やがて天皇崩御の知らせを知る。

「崩御の報知が伝えられた時、父は其新聞を手にして、「あゝ、あゝ」と云った。「あゝ、あゝ、天子様もとうとう御かくれになる。己(おれ)も・・・」父は其後を云わなかった。」(「両親と私」五)

明治天皇の死去は明治45年7月30日である。この明治天皇の死去をめぐって「先生」の遺書もまたこういっている。これは乃木将軍の殉死をめぐる冒頭に引いた言葉に先立つものである。

「すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。私は明白(あから)さまに妻にそう云いました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死でもしたら可かろうと調戯(からか)いました。」(「先生と遺書」五十五)

明治45年(1912)7月という明治天皇死去の時期が『こころ』という小説の核をなす「事件」の生起する時期であり、そして主人公である「先生」は妻のからかい的な提言に順うかのように「明治の精神」に殉じて死のうとするのである。『こころ』とは明治の終わりを時間的舞台として、その時代の精神を「先生」の自死に担わせようとした、少なくともそのような装いをもって創られた小説である。そのかぎり『こころ』とは「明治の終焉」の語りといえるだろう。

2 明治の終焉・2

私は5年前、田中伸尚の『大逆事件ー死と生の群像』[3]にしたがって大逆事件を読み直して以来、明治の終わりと大正の始まりとは二十四名に死刑判決[4]を下した「大逆事件」裁判を外しては見ることができない時代となった。歴史はこの「大逆事件」にいたる明治の終わりという時代を刻するような事件をもっている。それは「日比谷事件」という近代日本で最初の大規模な民衆騒擾事件である。私の『「大正」を読み直す』によってこの事件の大よそを記しておこう。

明治38年(1905年)9月5日、日露戦争の終結についてのポーツマス講和条約の内容に不満な人びとが日比谷公園の封鎖を打ち破って国民大会を開催し、その後、集まった群衆は附近の内務大臣官邸や講和賛成派の国民新聞社を焼き討ちし、阻止する警官隊と衝突した。夕刻になると騒擾は一層激化し、群衆は日本橋大通りを駆け抜け、道路沿いの警察署や交番、派出所を焼き討ちしていった。5日の夜半には二つの警察署、六つの警察分署が焼かれ、交番や派出所の被害は二〇三ヵ所にも及んだ。6日も騒擾は続いた。その夜、市電の焼打ちがあり、四台の車両が焼けた.6日の夜、戒厳令が布告され、7日には市内七三ヵ所に検問所が設けられたが、なお騒擾は続いた。しかしようやくその日に騒擾は鎮静化された。この「東京騒擾」による死者は一七名、負傷者は無数、逮捕・起訴されたものは三一一人にのぼった。これは未曾有の騒擾であった。

私がいまここに「日比谷事件」をやや詳しく見るのは、明治の終わりとは事あればこうした騒擾を起こしうる大衆が日本の都市社会を形成しつつある時代であることを知るためである。やがて明治政府は国家的騒乱への火種を断つように、社会主義(無政府主義)者の殲滅をはかろうとするのである。それが「大逆事件」である。それは明治38年(1905)の「日比谷事件」から5年後、すなわち明治43年(1910)である。この5年を世界史的・アジア史的年表でいえば、ポーツマス講和条約が調印され、日比谷騒擾事件の起きた1905年には第2次日韓協約が調印され、韓国統監府が設置される。そして5年後の1910年には日韓合併条約が調印され、韓国は日本に併合される。さらに1911年には辛亥革命が起きる。明治の終焉がいわれる時代はこのような時代である。

『こころ』の事件が背景にもつ明治の終焉とはこのような時代である。と同時に漱石の作家としての活動が開始されていった時期でもあった。それを年譜によって見てみよう。最初の数字は明治の年数であるとともに漱石の年齢でもある。

38:『吾輩は猫である』を『ホトトギス』に発表。39:『坊っちゃん』を『ホトトギス』に発表。40:東京朝日新聞社に入社、『虞美人草』を朝日新聞に連載。41:『夢十夜』『三四郎』を朝日新聞に連載。42:『それから』を朝日新聞に連載。43:『門』を朝日新聞に連載、8月に療養中の修善寺で病状が悪化し、大吐血し、一時危篤状態に陥る。44:関西で講演、講演後に胃潰瘍を再発し、大阪で入院、9月に帰京の後は痔を病み、通院生活を続ける。45:『彼岸過迄』を朝日新聞に連載。9月に痔の手術を受ける。12月から翌年(大正2)11月まで『行人』を朝日新聞に連載。46(大正2):1月に強度の神経衰弱、3月胃潰瘍を再発。47(大正3):『こころ』を朝日新聞に連載。9月胃潰瘍で病臥。11月に「私の個人主義」を講演。48(大正4):3月京都に遊ぶが、胃潰瘍で倒れる。6月から『道草』を朝日新聞に連載。49(大正5):5月『明暗』を朝日新聞に連載し始めるが、11月に胃潰瘍で倒れ、12月9日に大内出血により死去。[5]

この漱石の略年譜を見れば、明治の終焉というべき時代は全く漱石の作家としての活動に重なるものであることを知る。だが明治の終焉を日本の国家的、社会的危機の時代として見るとき、その危機は彼の作品においてどのように対応されたのか。

3 愛と関係性の不全

漱石の『それから』以降の作品はほとんどすべて男女・夫婦における愛とその関係性の不全を主題にしている。男たちは猜疑し、惧れ、己れを苦しめながら孤立していく。入れ替わり立ち替わり作品ごとに新たな装いをもってこの主題は現れる。近代小説の唯一の課題であるかのように。漱石においてなぜそうなのかと尋ねることから、漱石論は実存主義的な人間存在論として、あるいは近代的な自己の淋しい存立論として、さらには近代知識人の孤立論などなどとして展開される。

だがこれらの漱石論、私の机上にも数冊も置かれている漱石論は私がさきに提示した問いに答えるものではない。私はさきに略年譜を記しながら明治の終焉ともいうべき時期が漱石の作家活動の展開期であり、彼の主要作品の成立期でもあることを見た。そして明治が終わり、大正が始まろうとするこの時期、すなわち日本がはっきりと帝国主義的国家としての存立を明らかにしていくこの時期は国内的危機の時代でもあることを私はいった。この明治の終焉という国家社会的危機の時代に漱石はその作品においてどう対応したのかと問うたのである。だがすでにいうように『それから』以降の漱石の作品に入れ替わり立ち替わり登場するのは夫婦・男女間における「愛と関係性の不全」という問題である。だがこの「愛と関係性の不全」というのは、近代の、なお伝統を引きずる日本近代のもつ問題であって、明治の終わりという時期に問うべき問題ではない。ところが『こころ』は「愛と関係性の不全」に苦しみ続けた「先生」が導いた自殺という結論を、いま終わろうとする「明治」という時代の精神に結びつけたのである。

4 なぜ「明治の精神」なのか

「すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。私は明白(あから)さまに妻にそう云いました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死でもしたら可かろうと調戯(からか)いました。」

前にも引いたこの言葉は「先生」が「遺書」とされる手紙の中で明治天皇死去の知らせを聞いた際の妻との会話を回想して書かれたものである。手紙はこの回想に続けて乃木大将の殉死の報とそれをめぐる感慨を記していく。

「それから約一ヶ月程経ちました。御大葬の夜私は何時もの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知の如く聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だと云いました。」

そして「死のう死のうと思って」生きていた乃木の三十五年間の苦しみを記して「先生」の手紙は、自殺の決心を伝えるのである。

「それから二三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由が能く解らないように、貴方にも私の自殺する訳が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もし左右だとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。」

死のう死のうと思ってきた「先生」を自殺の決心に導いたのは乃木大将の殉死である。明治天皇に殉じた乃木に対して、「先生」が「明治の精神に殉死する積だ」というのはかりそめのものではない。だがこのように記してきて、人は作者の設定意図をこえて「明治の精神に殉死する」という「先生」の決意の必然性を理解できるだろうか。そもそも「明治の精神」とは何なのか。なぜ「明治の精神」なのか。

江藤淳が漱石におけるエゴイズムからの救済を論じながら、「『こころ』ではさらにエゴイズム解決のもう一つの可能性ーつまり自殺が描かれる。しかしこれは単に私的動機からだけの自殺ではなく、「明治の精神」に殉ずるという公的動機によってはじめて正当化された自殺である」といっている。江藤はさらに激しい口調で、「エゴイズムが醜悪なら、私的動機からなされる自殺もまた醜悪である。それが許されるとすれば自分を超える価値に「殉じて」行われる場合だけだ」[6]といっている。

この江藤の言葉はさきの私の「なぜ明治の精神なのか」という疑問に答えるものである。「先生」の自殺が「明治の精神」に殉ずる死となることによって一個の私的動機による死は公的動機による死になるといっているのである。たしかにこれは「なぜ明治の精神なのか」という疑問への答えであり、この理由づけをもって始めて己れの自死にいたる由来を語る「先生の遺書」があることを、そしてこれを主章としてもった『こころ』という作品の構成のあることを教えてくれる。だがむしろここから『こころ』への本質的な問いが始まるように思われる。それは「明治の精神」とは何かということである。

5「明治の精神」とは何か

「明治の精神」に殉ずるという「先生」の決意をめぐって江藤が激しい口調で、「エゴイズムが醜悪なら、私的動機からなされる自殺もまた醜悪である。それが許されるとすれば自分を超える価値に「殉じて」行われる場合だけだ」といったと私はさきに記した。なぜ江藤の口調は激しいのか。恐らくそれは日本近代社会が乃木の殉死によって「献身・無私・責任」といった倫理性をもって直ちに了解してきたあり方への批判からであろうか。江藤は『こころ』の解説の最後でこういっている。「『こころ』は疑いなくこの大作家ののこした傑作のひとつであり、彼が「明治の精神」、つまり反エゴイズムの精神の側に加担しつつ新時代に生きようとする決意を明らかにした記念すべき作品である。」[7]江藤はここで「明治の精神」を「反エゴイズムの精神」といっているが、それは江藤とともに漱石の文学活動を「反エゴイズムの精神」作業と読みうるものがもつ理解であろう。

だが乃木の死に順じて「明治の精神」に殉じるという「先生」の死が一己性を超えた性質をもつことの理解は、乃木によって「明治の精神」を直ちに理解していた戦前においてすでにもたれていたものである。滝沢克己は昭和18年(1943)刊の『夏目漱石』(三笠書房)[8]で「先生」を乃木に重ねながらこういっている。

「旗を奪われた大将の苦悩と友を死なしめた先生の懊悩と、その双方に共通する哀しい人生の事実を思う時、人はどうして、日清・日露の両戦役を始めその後の大将をして赫赫たる勲功をたてさせたものが、その根本の動機に於いて「力の及ぶ限り懇切に」その妻の母を看護し(「先生と遺書」五十四)、「妻君の為に」その帰りを急ぐ(「先生と私」十)先生を動かしたものにほかならないことを疑うことができよう。大将が彼の大いなる過失にも拘らず、なお彼を臣と呼び、股肱とすら頼みたもう天皇の御心を安んじまつるべく、その寂寞を忘れて粉骨砕身したように、先生はただ彼の消しがたい罪悪にも拘らず、なお彼を夫と信じて「是から世の中で頼りにするものは一人しかなくなった」と云う妻の心を労わるために、敢てその孤独を忍んで生きながらえたのであった。その生が既にこのように哀しく、このように男々しいものであったとすれば、我々はまた何うして、唯一人の弟子の生命を護るために(「先生と遺書」二)、「妻の知らない間に、こっそり此世から居なくなるようにし」た先生の死が、国家そのものの将来を憂いつつ、盛装端座して天皇の御後を慕った大将の死によって惹き起こされたことを、それ程に深く怪しむことを要しよう。」

45年の敗戦にいたるまで、乃木の死に己れの死を重ねて「先生」がそのために殉じたという「明治の精神」とは何かとは、直ちにこのように語り出されたであろう。滝沢においても「明治の精神」と乃木大将とは「先生」の死を弁証するものとしてあったのである。「明治の精神」はそれに殉じた「先生」の自死の一己性を償い、その死にいたる孤独の苦悩を救う大いなるものとしてあったのである。

だが1945年の日本の敗戦は「明治の精神」と「乃木」の名に込められてきたものを「帝国」とともに廃棄したはずである。「明治の精神」とは救済の言語が自ずからそこから流れ出てくるようなものではなくなった。そのとき「先生」の自死を「明治の精神」に殉じる死とした『こころ』という小説の仮構性は顕わにされたのである。『こころ』という小説を構成する契機があらためて問い直されるものとなったのである。私はもっとも問い直されるべきものは「K」であり、その凄惨な自死のあり方だと思っている。

「Kは小さなナイフで頸動脈を切って一息に死んでしまったのです。外に創らしいものは何もありませんでした。私が夢のような薄暗い灯で見た唐紙の血潮は、彼の頸筋から一気に迸ばしったものと知れました。私は日中の光で明らかにその迹をふたたび眺めました。そうして人間の血の勢いというものの劇しいのに驚ろきました。」(「先生と遺書」五十)

この激しいKの自死のあり方は「明治の精神」に殉じる『こころ』という救済劇の構成自体を問い直させる。これはこの劇に収まりきれない激しさをもっている。ところでこのKというイニシアルに〈Korea〉あるいは〈Korean〉の暗示を読むのは柴田勝二である。柴田は「とりわけ『こゝろ』では各人物の寓意性を強めた形で〈明治日本〉への(漱石の・子安補)批判的総括が

前景化されている。Kが自殺する際に、首吊りや身投げといったより一般的な方法ではなく、自室で頸動脈を切るという過剰なやり方を取るのも、その方向性のなかでもたらされた造形である。Kが迸らせる血は、国土を奪われていく韓国民衆の抵抗精神の表象」[9]だといっている。これは明治日本の『こころ』という閉じた世界を二〇世紀初頭のアジアに押し開きながら解体的解読を試みた成果である。

私は本稿のはじめにある事件を明治28年の事件というか、1895年の事件というかは嗜好的選択の問題ではないといった。それを明治の年号をもっていうことはその事件の意味を一国的文脈に閉じ込めてしまう。それを世界史的年号をもっていうことではじめてその事件がもつアジア史的、世界史的文脈における意味は明らかにされる。『こころ』という作品が国民的作家の国民的作品であるのは、『こころ』の事件が「明治の精神」に殉じる事件であるかぎりである。国民的作品『こころ』とは近代日本の作り出した虚構である。この虚構を崩すには『こころ』の明治史をアジア史・世界史に押し拡げることである。日本近代文学史の虚構を崩す作業はやっと始まったばかりである。

[1] 『こゝろ』『漱石全集』第12巻、岩波書店、1956。引用に当たっては表記を現代風に改めている。

[2]  私は明治28年の事件として京城における閔妃暗殺事件を考えている。明治史の中で封印されたこの事件は朝鮮半島をめぐる世界史の中でその重い意味は明らかにされる。

[3]田中伸尚『大逆事件ー死と生の群像』岩波書店、2010。岩波現代文庫版、2018。私のこの書による「大逆事件」の読み直しに基づく大正史の思想史的な再構成は『「大正」を読み直す』(藤原書店、2016)にまとめられている。

[4]大審院は明治44年(1911)1月18日、幸徳秋水ら二四名に死刑を言い渡した。一二名は直ちに死刑に処せられ、残り一二名は死刑判決後無期に減刑された。

[5]この漱石の略年譜の作成にあたっては柴田勝二『漱石のなかの〈帝国〉』(翰林書房、2006)に附せられた「夏目漱石年譜」を参照した。柴田氏のこの書については後に触れる。

[6]江藤淳「夏目漱石伝」『こころ・坊っちゃん』文春文庫解説。

[7] 江藤淳「作品解説」『こころ・坊っちゃん』文春文庫。

[8]  私はこの書の戦後再版本『夏目漱石』(清水書房、1946)によって見ている。滝沢は「出版の手続き上万已むを得ない場合のほか、殆ど全く手を加えることなく、すべてそのままにして、読者諸兄の批判に委ねることとした」(再版の序)といっている。同書からの引用に当たっては現代風表記に改めた。

[9]柴田勝二『漱石のなかの〈帝国〉ー「国民作家」と近代日本』翰林書房、2006。なお柴田にはもう一つの漱石論『夏目漱石「われ」の行方』(世界思潮社、2015)がある。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study1047:190620〕