「一方に於いては文化の妨げるいろいろのじゃまものをできるだけ早く棄ててしまわねばならぬ。このじゃまもののうちには、過去に支那からうけ入れたものが少なくないのであるが、支那文字の如きはその最も大なるものである。支那文字そのものの性質上、一般に文化の妨げるものであることはいうまでもないが、日本のことばと一致しない支那文字を日本人がつかうことは、これからますます発達させてゆかねばならぬ日本のことばのその発達をもひどく妨げるものなのである。」
1 日本は独自であること
過去における日本とこれからの日本からの「シナ」の全的な消去を津田はいう。この「シナ」との影響関係を表層的に限定して、その根底的な影響の存在を否定することは、日本民族の独自性をもった持続的存立の主張と相関的である。「シナ」の全的否定者とは「ニホン」的独自性の全的な主張者であるのだ。ナショナリズムによる日中の異別性をこれほど鮮明に見せる例もまた少ない。津田はいうのである。
「こういう人種の違った民族が、風土の違った島と大陸とで、それぞれ独自に生活し独自の歴史を展開して来たのが日本とシナとである。」
「この日本の民族生活の歴史的発展は支那とは無関係に、それとは全く離れて、進行して来たのであって、日本とシナとがそれぞれ別の世界であったということは、このことからも知られる。」
「日本の歴史の展開が日本だけで行われた独自のものであるとすれば、そういう歴史によって養われた日本の文化が日本に独自のものであることは、いうまでもない。家族制度も社会組織も政治形態も、その内面にはたらいている精神も、シナのとはひどく違ったものである。」
「要するに儒教が日本化した事実は無く、儒教はどこまでも儒教であり、シナ思想であり、文字の上の知識であり、日本人の生活に入りこまなかったものである。だから、日本人とシナ人とが儒教によって共通の教養をうけているとか共通の思想を作り出しているとか考えるのは、全くの迷妄である。」
「日本人の精神活動の全体から見ると、シナ風の学問は其の一部分たるに過ぎないものであった。特に文学に於いては早くから日本に独自のものが発達し、時期はやや後れるが芸術についても同じことがいい得られ、そうして日本人に独自な生活がこの文芸に表現せられている。過去の日本人の生活を知りその文化の特色を知るには、主として此の如き文芸と民俗そのものによらねばならぬ。シナ風の学問を講習したり宣伝したりしていた学者の述作によるべきではない。」
ここに引いた津田の「シナ」の否定と日本の民族的独自性の主張は『シナ思想と日本』の「東洋文化とは何か」から引いたものである。これらを戦後版から引いたが、この版は何度もいうように「支那」から「シナ」への表記の変更を除いて戦前版と同文である。「シナ」の否定と日本の民族的独自性の主張について津田は両版の間に日中戦争とその終結を挟んでも変更することはなかったのである。今から読めば異様ともいえる日中の異別化の主張であるが、ただ「シナ」の否定はアジアで先駆的な近代化を遂げている日本の独自性の優越的な表現として国民にも共有されていたものであろう。戦前に生を受けたもので、この「シナ」批判の情緒的受容を免れているものは希だろう。ただ津田において特異なのは、その「シナ」批判が伝統における儒家的知識・思想批判から民族言語日本語における「漢」の排除の主張にまで及ぶことである。『支那思想と日本』が戦後にも『シナ思想と日本』として再刊されたことは、彼の「シナ」批判は戦後日本にとっても有効だということである。端的には真の民族言語日本語の成立にとって「漢」の排除が必要なことをあらためて津田は強く主張するのである。ここから津田の「シナ」批判は現代における大きな思想的問題領域につながることになる。それは「漢字論」という問題領域である。
2 「日中同文」の否定
『シナ思想と日本』における津田の「シナ」の否定と日本の民族的独自性の主張は、「日中同文」という日中の共同性を基礎づけるような文化的・政治的スローガンを強く否定する。ここでいわれていることは、伝統における「シナ」の否定と日本の民族的独自性の主張という津田ナショナリズムの結論ともいうべきものである。それはまた津田の文化的ナショナリズムが究極的には日本語の独自性の主張に帰着するものであること示している。長いがその全文を引いておきたい。
「同文というのは同じ文字を用いるということであろうが、日本には日本で作られたカナ文字があって、それによって日本語が写されるのであり、そうしてそれはシナには全く無いものであるから、同文ということは決していわれない。もっとも日本人でも今日なお、文字としては極めて低級な、文化の発達を抑止する力が強い、そうしてまたその本質として日本語を写すには適しない、シナの文字をも使用しているような憫むべき状態であるが、しかしその場合とても、少なくともその一半は、むりなしかたによりながら、日本語をそれによって書き現わすのであるから、シナ人がシナ語の表徴として同じ文字を使うのとは、使いかたが違う。勿論、他の一半はシナ語のままに、或は日本に於いてシナ語風に構造して、単語としてそれを用いるのであって、こういう用いかたは明治時代になってから却って一般に多くなったのであるが、それにして全体として日本語から成立つ日本文であれば、シナの文字のもつ役割はさほど重いものではない。日本語化したシナ語の如きは、カナで書いてもロオマ字で書いても差支えは無い。だから、シナの文字が日本で或る程度に用いられているということから、二国は同文であるのは、大きな誤である。日本人とシナ人とは同文同種であるという宣伝の行われたこともあるが、上に述べたことがあるように、同種が事実に背いているのみならず、同文もまた、文字の用いかたの全体からいうと、事実ではない。そうして一部分の同文よりも言語の全く違っている方が遙かに重要であり、日本民族とシナ民族との非共通性を示す根本的なものである。」(傍点は子安)
日本文に使用される漢字・漢語によって日中の〈同文〉をいうよりは、日中言語の根本的な違いを見ることの方が大事であると津田はいうのである。そして日中言語の違いこそ「日本民族とシナ民族との非共通性を示す根本的なもの」だと彼はいい切るのである。〈漢字言語〉としての中国語と〈かな言語〉としての日本語との言語的な差異性が日中民族の差異性を基礎づける最も有力な事実とされるのだ。このことは漢字・漢文をめぐる日中の言語的差異論を導くものは津田の民族主義(ナショナリズム)であることを明らかにしている。だがこのナショナリズムは復古主義でも伝統主義でもない。これは〈現代化〉の推進を掲げたモダーンなナショナリズムであるのだ。津田は普通教育から古くさい〈漢文〉教科の排除をいうだけではない。現代日本人の言葉をより良くするために「シナ文字」の使用をやめるようにいったりするのである。
「ニホン人は、ニホンのことばをよくするために、できるだけ早く、シナ文字をつかうことをやめてゆくようにしなくてはならぬこと、いわゆる漢文とむすびついている過去のシナふうの学問のしかたや事物の考えかたは、現代文化の基礎である現代の学問の精神および方法と一致しないものであるから、漢文は普通教育の教科から除かねばならぬこと、またニホン人は、学問の立場からいっても、シナの文化に対する学問的研究と批判とをつとめねばならぬこと・・・。」(傍点は子安)
この文章は戦後版『シナ思想と日本』の「まえがき」の末尾で戦前版の意を体しながら戦後的な文脈に書き直したものである。この書き直しは、津田の「シナ」言語(漢字・漢文)批判がただに民族主義的であるだけではなく、日本語の現代化(モダニズム)の要請に応じたものであることを示している。津田は漢字・漢文を現代化への障害と見る現代主義者(モダニスト)でもあるのだ。国語(日本語)の現代化(現代的言語としての真の成立)をいう国語学(言語学)者たちは漢字・漢文的羈縛からの解放、その制約の排除を強くいうが、それは津田の主張でもある。ところで文明開化とともに始まる漢字批判がその漢字の本国である「支那」批判としていわれ出したのは日清戦争を介してである。「国語」の学的、制度的成立にかかわった上田万年が日清戦時の講演でこういうことをいっている。
「唯今でも、漢語でなければ詔勅も出ず、論説も書けず、社会の地位も兎角得られぬと申す次第であります。たとえて見れば四五千人の日本人の中に四五万の支那人がはいり来て、我等の繁殖を妨げ、我等の政権を奪ひ、我等の自由を束縛したのと同じこととて、日本の国語は国語でありながら、まことに情けなき次第にも、支那語及び支那文脈の「つま」となり下りて居るのであります・・・開闢以来比類のない支那征伐に、我等海陸軍が連戦連勝で、到る処朝日の御旗御稜威に靡き従はぬ者はないのに、我が国語文章界が、依然支那の下にへたばり付いて居るとは情けない次第であります。」[2]
これは戦時色をもった講演の文章ではあるが、「国語」の成立がいかに激しい「支那」排斥の主張とともになされるものであるかを示している。排斥されねばならないのは、わが内なる支那、すなわち漢語・漢文であった。漢語の削減と漢文的拘束からの離脱が国語独立の大前提であった。そして「言文一致」的文体は自立的国語を実現する最善の方法であったのである。「言文一致文」の提唱者でもあった堺利彦はこういっている。
「予の見る所は、第二〇世紀の第一年において、尤も大なる改良事業は、女史の服装の事と言文一致の事である。・・・言文一致とはそもそも如何なる事であるか。申すまでもなく言葉と文章とを一致させる事である。昔は文章といへば無論漢文の事であつた。欧羅巴でも昔は拉丁語で文章を書いた。それが段々に進んで、英吉利語、仏蘭西語、独逸語などいふ国語の独立が出来た。国語の独立と国民の独立とは離れ難い関係がある。日本でも仮名を作り、和文を作り、仮名混じりの文を作つたのは、日本国民に独立心があつたからである。然し今日の仮名混り文はまだまだ多く漢文の圧力を受けていて、決して完全に国語の独立を示しているものではない。是れが今一歩を進めて言文一致体となつて、全く漢文の圧力を脱して、十分に日本化せられたる漢語洋語を自由自在に使用するやうになつた時、始めて真に日本国語の独立と言はれるであらう。」[3]
国語の独立と国民の独立との離れ難い関係を先進ヨーロッパ諸国の例を引きながらいう堺の明治34年(1901)のこの言葉は大きな説得力をもっている。すでに独逸教会中学校の教師であった津田もこの国語の独立論の共鳴者であったであろう。やがて津田は『神代史の新しい研究』(大正2,1913)を書き、漢的知識の粉飾からなるわが神話テキストへの厳しい批判を加えていく。さらに大正5年(1916)から陸続と刊行されていった『文学に現れたる我が国民思想の研究』で津田はわが国民的言語と文芸・思想の成立過程を、正しくいえば未成立の過程を圧倒的な広がりと深さとをもって分析し、叙述していった。それはわが歴史過程における「漢(から)」的なものの執拗な批判と排斥の叙述でもあった。そして中国大陸における日本帝国の侵略戦争が遂行されるその時期に津田は『支那思想と日本』を刊行するのである。それが「同文同種」という日中の共栄圏的理念を否定しながら、双方の民族と言語の異種性をいい、日本における国民と国語との真の成立をいうものであったことは見てきた通りである。そして『支那思想と日本』が戦後『シナ思想と日本』として再版されたように、津田の「漢」の排斥と日本の民族・言語の独立をいう主張はそのまま戦後日本のわれわれにも投げかけられたのである。
3 「漢字論」という問題提起
津田の思想を「漢(から)」の排斥と日本の民族・言語の独立(=国民と国語の成立)の主張として定式化すれば、これは必ずしも津田特有のものではなく、〈脱亜入欧〉を掲げる明治以来の日本の近代化の定式でもあったといえるだろう。1945年の敗戦による戦後日本の始まりを第二の近代化(開国)とみなすかぎり、この津田の定式は、「漢」に〈封建反動〉の意を込めながら戦後日本にそのまま通用したのである。だからこそ「支那」を「シナ」に代えただけで『シナ思想と日本』は本文をほとんど変えることなくそのままに戦後日本で再版されたのである。その定式がいう日本語からの「漢」の排除とは戦前・戦後を通じて日本の〈国語国字問題〉における不変の方向であるということができる。そうだとするならばこの津田の定式への疑問は、これを定式とする〈日本近代〉そのものの批判的問い直しによってしか明らかにされない。近代国語批判としての私の「漢字論」が意味をもってくるのはここにおいてである。
私の「漢字論」は漢字をただ自言語(日本語)の表記記号ないし表記技法としての受容とだけみなそうとする宣長の『古事記』注釈学が前提にする漢字観の批判に発するものである。この「漢字論」的問題提起の原型的箇所を私の『漢字論』[4]から引いておきたい。
「漢字なくして日本語の現実的な存立はない。日本語の成立を資料的にさかのぼって求めるとき、われわれが出会うのは漢字・漢文を表記文字・表記技法とした書記言語・日本語である。漢字・漢文エクリチュールからなる言語として日本語ははじめて現実に存在することになったのである。それは古代日本の識字階層の長期にわたる努力の成果でもあったであろう。・・・この漢字と漢字文化の受容を日本人にとっての不幸と回想し、あるいは自文化の侵害と憂える人々は、漢字をただ表記記号ないし表記技法としての受容とだけみなそうとするだろう。のちに触れるように宣長の『古事記伝』という『古事記』訓読の作業は漢字・漢語をまったく固有言語の表記文字(仮り字・借り字)とみなすことではじめて可能であったのである。だが漢字をまったくの表記記号としての受容とだけみなすことは言語論的な抽象というべきだろう。漢字の受容とはもとより中国文明を形成してきた漢字文化の受容である。漢字文化とは言語的であるばかりでなく、ことに政治的、社会的な、さらには倫理的、宗教的な文化の体系である。だからこそ漢字をただ表記記号として抽象視することには強力なイデオロギー性がともなわれるのである。かつてそれは国学的イデオロギーであった。いまではそれは言語的、民族的同一性の理念に立った近代言語論的イデオロギーである。」(第1章「漢語」とは何か)
漢字という他者なくして自言語の成立はない。にもかかわらずこの漢字という他者を隠し、あるいは排除して自言語を語ることの民族主義的誤謬(ナショナリスティック・ファラシー)を批判しながら私は最後にこういった。
「私たちはいま漢字を自言語の展開に不可避な他者とみなすべきである。あらゆる自然言語に他言語を前提にしない純粋な自然言語などはありえない。純粋言語とは比較言語学が構成する祖語のような人工言語学的な抽象である。漢字とは排他的に自己を生み出すための異質的他者でもなければ、受容者の自言語意識が負い続けねばならないトラウマとしての異質的他者でもない。それは日本語の成立と展開とにとって避けることのできない他者である。漢字とは日本語にとって不可避の他者である。それは自言語がたえず外部に開かれていくことを可能にする言語的契機としての他者である。」(「「あとがき」にかえてー漢字論という視点」)
私は自著『漢字論』になぜ「不可避の他者」という副題を付したのか、その理由を「あとがき」に代えてこう語った。しかし「不可避の他者」というこの副題について斎藤希史氏が『漢字世界の地平』[5]の終章で批評している。斎藤氏は2003年に出版された私の『漢字論』が当時の日本の漢字論的状況において果たした画期的意義を認め、この書における私の主張をよく次のようにまとめている。
「漢字によって書記言語としての日本語は成立した。にもかかわらず、漢字を外来のものと見なすことで、「国語」という中心が擬装され、さらにその擬装された中心によって漢字を統制するという転倒が生じた。それが日本の「国学」であり「国語学」である。かいつまんで言えば、この著作の主張はそういうことになろう。」
氏は私の『漢字論』の主張をこのようにまとめた上で、漢字を「不可避の他者」とすることには同意しないという。「もし、「他者」という概念を持ち出すのであれば、それは「自言語」と対比される「他言語」ではなく、“記す”という行為のもつ他者性であるべきだろう。言語圏と言語圏との間に生じる問題なのではなく、ある言語圏における口頭と書記との間の相生と相克こそが問題となるのである」という氏は、「言にとって文はつねに「他者」である」というのである。この言語論上の「他者」観からすれば「漢字は日本語にとって不可避の他者」とする「他者」観は誤解されかねない「危うさ」をもっていると氏はいうのである。
「「漢字は日本語にとって不可避の他者である」。この言明は、「漢」「日本」という対立を明示することで、「字」「語」という対立を解消してしまっている。文字と言語にとって不可避の他者である。そうした認識であれば、「他者」という概念の吟味はさておくとしても、本書で述べてきたことともつながりうる。しかし、多くの読者が受け取るのは、それとは異なったメッセージであろう。すなわち、中国とは日本にとって不可避の他者である。「漢字とは日本語にとって不可避の他者である」という言明は、そう受け取られかねない危うさを含んでいる。そう、それは危うさと呼ぶべきものだ。」
ここで斎藤氏は私の「漢字とは日本語にとって不可避の他者である」という言明がもつ「危うさ」をいっている。「危うさ」とは予期せずしてそう読まれてしまう危険性である。それは「言と文」あるいは「口頭と書記」との言語論的関係性が直ちに国家間の関係性にとられてしまう危険性である。氏はこれを「危うさ」と警告することによって「漢字世界」を言語論的世界として、まさしく「私たちにとって文字とは何か」を解明する世界として再構成することを考えられたのである。この「危うさ」という警告に対して、「漢字は日本語にとって不可避の他者である」という私の言明は、中国と日本という関係性でとられることはすで読み込み済みだといいたい。私はすでに『漢字論』の問題関心に触れながら、漢字をただ表現記号としてだけ見て、漢字文からひたすら〈やまとことば〉を訓み出す宣長国学における「漢」的他者の排斥性を批判した。この他者の排斥からなる自己とは独りよがりの衰弱した自己でしかない。そして「漢」という他者の排除として近代日本言語の成立をはかる国語観をもち続けることに対して私は「漢字論」を書いたのである。だから「漢字は日本語にとって不可避の他者である」という言明は中国と日本との関係性を読み込み済みだというのである。それだけではない。この言明は中国との新たな関係性をも読み出そうとしているのである。
4 多様的漢字受容世界
日本の口頭言語は中国の漢字体系としての書記言語に接し、それを受容することを通じて書記言語としての日本語を成立させていく。その書記言語とは中国の知識世界を前提にした知識言語であり、知識言語の成立とはその言語を自由にする知識人の成立でもある。その知識人とは朝廷の貴族たちであり、山門の仏教者であり、そして近世の儒者たちである。私は鎌倉仏教や徳川儒教をこの日本の知識人と知識言語による高い達成だと考えている。そして日本における漢字受容から始まる日本的知識形成のこの事態は中国の周辺諸国・諸地域にそれぞれの形で同様に見出しうる事態だと考える。ここで「それぞれの形で」というのは、中国周辺の漢字圏とみなされる韓国・朝鮮と日本とヴェトナムとでは漢字という文字体系を受容しながら、その受容の仕方、その自言語による訓みとり方を異にしているからである。これがまさしく斎藤氏らが追跡する「字」と「語」との言語論的関係性である。だが私はこれを中国の経典性(漢訳仏典を含む)をもって存在する漢字的文字体系と周辺諸国・諸地域の言語との接触・受容という文化的、社会的、知識的関係性をもって見ようとするのである。その際、近世・近代中国をも聖典的漢字体系の再解釈的受容者とするのである。そう見ることによって東アジアの漢字受容世界は多様的世界として再構成される。
「漢字は日本語にとって不可避の他者」であるという私の言明に危惧をもつ斎藤氏は、この言明が「中国とは日本にとって不可避の他者である」という言明を導きかねないことをいった。その危惧に対して私はこの言明は中国と日本という関係性を予め含み込んでいると答えた。だがそういっただけではあの危惧に答えたことにはならない。なぜなら危惧される「中国」とは〈天朝主義〉をいわれる「中華帝国」であるからだ。しかも〈天朝主義〉とは現代中国の中華主義的世界戦略についてもいわれるのだ。もし危惧される「中国」がこの〈天朝主義〉的中国であるとするならば、私の〈漢字論〉は東アジアの漢字受容世界を多様的言語世界として開いていくものだと答えたい。しかもその漢字受容世界に後代中国をも含み入れて考えるのである。
ラジカルなモダニストである津田左右吉は「漢」の全的排除とともに一国的自立言語としての日本語の成立をいった。この近代主義批判としての〈漢字論〉は中国の漢字という経典性をもった文字体系からその受容を通じて多様な知識と言語の成立をいうのである。
[1]『支那(シナ)思想と日本』からの引用にあたっては漢字・かな遣いはすべて現代当用のものにした。
[2]上田万年「国語研究に就きて」(『太陽』1−1、1895年1月)。この上田の文章は長志珠絵『近代日本と国語ナショナリズム』(吉川弘文館、1998)から引いたものである。この引用だけではなく、「国語」の成立をめぐる問題についてこの書から多くのことを教えられた。
[3]堺利彦「言文一致事業」(「福岡日日新聞」1901年7月7日)。この文章も長氏の著書から引かせて頂いた。
[5]斎藤希史『漢字世界の地平—私たちにとって文字とは何か』新潮選書、2014.
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2019.10.27より許可を得て転載
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/81342928.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1072:191028〕