監督であるシリア人のオサーマ・モハンメドは、「この映画を通じて、私はある女性と長い対話をしました。その対話は、ある男性=わたしを、長く孤独なトンネルから救い出し、未来へと再生させたのです。ある女性=シマヴとは、シリアの未来を表すメタファーそのものなのです」と、語っている。
その映画とは、「シリア・モナムール」のこと、「ある女性」とは、シリア在住のクルド人、ウィアーム・シマヴ・ベデルカーンのこと、である。
その映画を、先日、渋谷の映画美学校の試写室で観た。
映画は、日々、ネットにアップされ続ける、監督の故郷であるシリアにおける惨状を、粗く生々しい「1001の映像」として、スクリーンに間断なく、そして、容赦なく、映し出すことから、始まる。それは、まさに、残酷な現代における寓話「千一夜物語(アラビアン・ナイト)」そのものの世界。
しかし、シリアからパリに、亡命をよぎなくされ、深い絶望に捕らわれている監督オサーマ・モハンメドのもとに、ネットを通して、シマヴという女性からの「ハヴァロ(クルド語で友の意味)、もしあなたのカメラがシリアにあったら、何を撮る?」という呼びかけがあり、「すべてだ」と、彼が応じたことから、このシマヴという女性との、映像を通した長い対話が、開始される。
シマヴから送られてくる現地の映像は、まさに、廃墟と化した街の中で、死体に囲まれて生きる人々の現状。一見、救いなど、どこにもない。しかし、日々、迫り来る死への恐怖にうち震えつつも、シマヴはカメラを回し続け、それをパリにいるオサーマのもとに、送る。ふたりの映像作家による、いわば、この希有な映像書簡が、映し出すのは、決して、シリアの悲惨な現状だけではなく、その先にある(と、信じたい)シリアの未来や、それにむけて、人としていかに生きるべきか・・であるというところにこそ、このドキュメンタリー映画の真骨頂があるのである。
シリアの内戦は、決して、大統領派と反体制派間の争いではなく、様々な思惑で、それぞれを支援する国々や、新勢力=ISIS(イスラム国)などの参戦で、より一層、混迷と泥沼化を深めつつある。シマヴが「ハヴァロ」と呼びかけたのは、決して、オサーマだけでなく、月並みな表現ながら、この映画を観る私たち、ひとりひとりに対してで、あろう。そして、呼びかけられた私たち、ひとりひとりに、本当に対話をする心構えがあるのかどうかということを、この映画は私たちに、鋭く、突きつけるのである。
監督の、インテリ臭さがやや鼻につきますが、間違いなく、今、観るべき映画の1本です。
5月下旬、渋谷のシアター・イメージフォーラムで公開予定。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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