昨日の断想から

 テレビで見ると、新型コロナウイルス禍に対処する専門家会議のメンバーは、尾身副座長はじめどうも反応が鈍く、いったいこの人たちは危機意識をどの程度持っているのか、国民にどういうメッセージを伝えようとしているのか、よくわからないところがあります。本当に危機対応の能力―感染症医学の最新の知見と組織的能力―を備えた人が人選されているのかどうか、疑問を禁じえません。今日の東京の状況は、安倍政権と小池都政の初動対応の失敗にあることは明白なのに、そのことについての反省もないようです。
 ロックダウンだけでは封じ込められないのは、アメリカやイギリスの例で明らかなのに、いぜんとして上からの呼びかけはほぼ外出自粛に限られています。PCR検査や抗体検査、追跡調査や隔離等々を的確迅速に指示する、司令塔や指揮系統がいまだ確立されていないと聞きます。ロジスティクス(医療施設・設備・器材)の不足、専門医の不足、地域医師会などの人的資源の未活用など、日ごろの感染症対策のサボタージュが露わになっています。日本社会の特徴として、いったん何か緊急事態が起これば、民意を動員して効率的に組織化を行い、ことに対処する能力に秀でているというイメージがありましたが、どうもこのところこの社会は想像以上に弛緩しているように感じます。
 門外にいるので想像の域をでませんが、専門家会議の人選に医学界における学閥の弊害が出ているのかもしれません。また政府の諮問会議がとかくそうであるように、専門家として厳しい判断をする人よりも、政府に都合のよいことを言ってくれる人が選ばれがちとなることも問題です。そのうえで、根本的にはやはりこの数年間、ごまかし政治―嘘、詭弁、証拠隠滅、責任転嫁―で乗り切ってきた政権に、真に災厄に対処できる能力が備わっていないことが露呈しているのでしょう。組織というものは、トップの能力を超えて伸びることはないというのが定説ですが、やはりアベノマスク程度なのでしょうか。
 旧日本軍の三大病弊と言われた、「無責任の体系」-戦争の決定と遂行に責任を負う人間が不在―と、「戦力の逐次投入」―兵法では小出しの戦力投入は必敗と言われている―と、そして補給兵站の軽視とがまたしても露わになっています。医療現場の第一線で戦う医療関係者に、治療に必要な機材物資が届かないという悲痛な声が我々にも聞こえてきます。インパール作戦に従軍し生き残った元学徒兵が、ミャンマーの現地視察の際私に語ったことばを思い出します。「日本軍は作戦指揮などと体のいいものではなかった。要するに戦場へ行って死んで来いというものでしかなかった」、と。撃つ弾も食べる糧食もあたえずに、ただ敵陣に突っ込めという手前勝手な戦争指導者に、安倍首相の姿が重なります。どうも安倍首相は、自身がノスタルジアを感じる旧日本軍の負の遺産を丸ごと引き継いでいるようです。
 他方、韓国、中国や台湾、マレーシアが、世界で「東アジア型」対応として今評価が高まっています。いずれの国もデジタル技術を駆使し、徹底調査と追跡を行ない、封じ込めに成功しています。デジタル技術の活用には、人権の侵害や情報操作の危険性が付きまといますが、今のところ個人情報の秘匿に配慮しながらマレーシアや韓国ではうまく行われているそうです。
 しかし考えてみれば、日本の遅れにはもっと構造的要因があるやに感じます。日本はバブル崩壊以後製造業はその地位を中国に奪われ、しかもそれに代わる新たな産業領域や技術革新の開発に失敗してきたのです。いまだ「重厚長大」日本型製造業の代表格の日立出自の人間が、経団連を牛耳っているのです。旧来型の産業構造の改革に失敗、異次元の金融緩和で円安を誘導し、旧来型の輸出産業を生き延びさせ、株価を釣り上げて見せかけの経済回復を演出しているだけのアベノミクスです。高齢化と人口減という迫りくる国家的存立基盤の変化に対処するにも必要な日本社会の展望を安倍政権に期待することはできません。遺伝子工学や情報科学の知見をもとに、オンライン・システムを活用してコロナ対処に当たる東アジア諸国の政府のイニシアチブの在り方に、我々は日本がいかにこの30年間自己刷新努力を怠ってきたかの現実を見せつけられているように見えます。コロナ禍はなによりも日本社会のありのままの姿を映す鏡になっているのです。その姿を我々国民一人一人が直視して協力し合い、まずはコロナ禍を乗り切ること、そのうえで経験を踏まえて新しい社会を設計しなおすこと、これに尽きるんではないでしょうか。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion9678:200423〕