「いま、昭和史から学ぶ」という講演を聴いた。講演者はノンフィクション作家保阪正康(ほさか・まさやす)である。ふた昔ほど前、保阪は『文藝春秋』をベースにして『諸君!』、『正論』にもときどき登場していた。本人の立場は不変という。しかしいつの間にか論壇では最左翼のようなポジションにいる。
三つほどの論点で彼は現代日本の危うい歴史認識を論じた。
一つは、各国での歴史研究の現状についてである。
二つは、安倍晋三の歴史修正主義についてである。
三つは、日本人の戦争の語り方についてである。
《「自己の相対化」と「歴史修正主義」》
『朝日新聞』書評欄の執筆者である保阪は、各国の歴史研究が自国史叙述においても相対化の視点が進み、歴史のメカニズムを探求する指向が強いと述べた。例えばナチ敗北直前の英軍のドイツ爆撃は、緒戦のロンドン空爆への徹底的な復讐であったこと(英研究者)、ドイツ人は戦中からアウシュビッツを薄々知っていたのに知らないと主張したこと(独研究者)、米空母バンカーヒルへ突入した特攻隊員と米兵死者の家族を克明に追跡した叙述(米研究者)などを挙げた。これに比べ日本の歴史アカデミズムは師弟システムの枠を乗り越えにくく、若手研究者の社会性が欠落していると批判した。
安倍晋三による13年末の靖国参拝に対して、韓・中だけでなく米国、英国、EU、シンガポールからも批判が起きた。米国では上院保守派まで怒っている。
小泉純一郎に対しては起きなかった全方位からの非難はなぜ起きているのか。
急増した海外メディアからの取材の経験もふまえて保阪はいう。安倍が東京裁判を勝者の復讐とみてA級戦犯を認めず、侵略の定義はないと言い、靖国をアーリントン墓地と同一視する思考をみて、国際社会は本物の「歴史修正主義者」と捉えているのだ。「戦後レジームからの脱却」が本気ならポツダム宣言の否定である。その歴史認識は「デモクラシー対ファシズム」の戦いが前者の勝利に帰したとする戦後世界秩序の全否定になる。だから歴史修正主義と批判されるのである。歴史修正主義は以前から存在していた。事態が深刻なのは、その言説が権力の中枢から発せられていることである。
《「戦間期」認識を離脱した戦後日本》
「戦間期」を、保阪は20世紀を通底する戦争観・外交観だという。「戦間期」とはなにか。1919~39年がそれであった。戦争は外交の変形であり外交は戦争の変形であるとは戦争論の常識である。第二次大戦はナチスによる第一次大戦敗北の復讐戦であった。1945年8月の対日参戦で勝利者となったスターリンは「日露戦争のカタキを取った」と言った。いずれも戦間期の思想である。
しかし「日本国憲法」を基盤とする戦後民主主義はこの思想を放棄した。先駆的である。
「大日本帝国憲法」の統帥権を簒奪した軍部とそれを支えたメディアと大衆によって帝国は暴走した。保阪は尾崎秀実や中野正剛の悲劇を例示して我々が作り出した「病理現象」について語った。暴走は悲劇に終わった。戦後民主主義はこの悲劇に学んだはずである。
自民党の改憲案はその悲劇に学んでいない。
立場の差はあれ、戦後営々として築かれた歴史研究者―学者とジャーナリズム―の成果を、「歴史修正主義」は無視したりつまみ食いしたりしている。戦前暴走の契機の一つは治安維持法であった。「特定秘密保護法」はその再現の危険に満ちている。「集団的自衛権」の議論も「過ぐる戦争」に関しての「歴史への責任放棄」、「無責任体制の欠陥」に何も学んでいない。戦後の保守党は、一枚岩でないにせよ、基本的には「戦間期史観の放棄」に立っていた。それが危機に瀕している。
穏健な歴史観の保持者に半藤一利がいる。保阪は親しい半藤と共に「日本国憲法」を百年守ろうと連帯している。無力な野党ではなく自民党の中に「歴史修正主義」への徹底した批判勢力を構築しなければならない。
《聴くべき実証研究者の危機意識》
以上が講演要旨である。イデオロギー先行の歴史観を嫌い、4000人に面接したオーラルヒストリーと文書解析の両面から保阪は独自の昭和史を作ってきた。危機感にみちたその講演は迫力があった。我々は本当に崖っぷちに立っているとあらためて納得した。その印象を少しでも伝えたいと思い、聞き取りのメモを整理して掲げた次第である。(文中敬称略)
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