ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは数多くの著作の中で、資本主義体制下での欲望装置に対する厳密な分析を行っているが、ガタリは『人はなせ記号に従属するのか:新たな世界の可能性を求めて』の中で、「コルシカ人をブルトン人やパリ人から隔てているものは、一見、社会‐経済的、言語的、あるいはエコロジー的な特徴であるが、実際には、人を愛したり、世界を知覚したり、話したり、ダンスをしたり、本を読んだり、文章を書いたり等々、といった分子的な次元における相違のミクロ政治的な結晶化に由来するのである」(杉村昌昭訳) と書いている。このことは現代社会に生きているわれわれが欲望を如何に表明するかということが、われわれをわれわれとして印づけているということを意味しているのではないだろうか。そして、こうした特質は他者との交流を通して実現されるわれわれの欲望実現の多様性の結集点として提示されているのではないだろうか。
だが、この差異性は私というものが自主独立し、世界の中心にあるということを意味しない。主体の自立性という考えは近代以降の理性中心主義の強力なイデオロギー装置であるが、それは我の拡張と欲望の自由化の下に大きな過ちを犯した。このことについて、ロルドンは『私たちの“感情”と“欲望”は、いかに資本主義に偽造されているか?:新自由主義社会における〈感情の構造〉』の中で「(…) 批判的思考の導きの糸と見なされている「自分で考えること」は、実のところ非批判的思考の見事な事例のひとつであり、また新自由主義的思考の見事な事例のひとつでもあるのだ。それは主体の認識論的自己充足の思考であり、それゆえわれわれは「他のもの」との連携によってしか思考できないということを一貫して無視する方向に向かい、――その「他のもの」とはとりわけ他の諸個人である――、われわれがつねに他の諸個人の志向そのもの (…) を考えているのではなく、彼らの思考を出発点として彼らの思考とともに考えているということを忘れる方向に向かうのである」(杉村昌昭訳) と述べている。この言葉はまさに他者なしでは不可能な、他者と共にでなければ不可能なわれわれの存在基盤である思考の本質を語るものであるが、それは思考という領域の問題だけではなく、われわれの欲望の方向性をも示している。
他者との交流なしに、他者がわれわれのために提供する様々な記号生産 (「商品生産」という言葉を使ってもよいが) なしに、われわれは自らの欲望を満足させることは不可能である。何らかの行動を起こそうとする時、他者が生産した記号なしにできることは存在しない。私の今いる家も、私が見ているPCも、私が今着ている衣服も私以外の誰かが作ったものである。私が外に出た時に踏みしめるアスファルトの道も、私が乗る車も、私がその車で渡る橋も、それを停めるパーキングも全てが誰かの生産物であり、何らかの記号として作動している。そこには他者の何らかの記号操作活動の痕跡が記されている。われわれの欲望は他者と共にあるのだ。すなわち、資本主義体制に依拠する権力という樹木図的な管理によって統治されながらも、欲望の方向は横へ横へと広がっている。われわれの欲望の拡大はリゾーム的であるのだ。
横へ横へと広がるわれわれの欲望は、直接的あるいは間接的な無数の他者との交流を生み出す。消費社会において、それは大量で雑多なモノがわれわれの前に陳列されているだけの現象を表してはいない。無数の交流なしには日常生活と言われる実践をわれわれが遂行できないことも示しているのだ。交流という装置の現代社会での中核性は、まさに社会全体を動かす原動力であるのだ。それはハーヴェイが述べているように、資本主義体制の下で「多くの人々の必要を満たすことよりも、必要を創出することが優先された (…)」からである。だが、その巨大な、無数の交流をストップせざるを得ない時、われわれの欲望を抑圧する、ドゥルーズとガタリの言葉を使えばミクロファシズムへの誘惑の声が、世界に響き始めるのではないだろうか。
リゾーム的な拡大
リゾームという概念はドゥルーズとガタリにとって、樹木図的な支配システムを破壊するための中心概念として位置付けられている。それは現代の支配体制を打ち壊すための抵抗概念の核心を形成するものである。しかし、リゾームの破壊力は支配体制のみに向けられるものであろうか。リゾーム的な広がりは統制されたコントロール体制によって作られた軍隊が進軍して来るようなものなのではなく、司令塔のない組織体が横へ横へと、大陸、圏域、国境、県域といった境界線を超えて、ひたすら拡大していくものである。その動きは新型コロナウィルスの感染拡大の様相と完全に一致している。つまり、今回のパンデミックをリゾーム的暴力と呼ぶことができるのだ。リゾーム的な攻撃力はわれわれの世界を構成している樹木的支配システムを破壊する力を宿しているが、この力は異なる人間間の、主体間の連帯や共生といった改革の力を示すだけのものなのではなく、新たな強大なウィルスによる暴力的な進攻性をも示すものなのである。
「リゾームには始まりも終わりもない、いつも中間、もののあいだ、存在のあいだ、間奏曲intermezzoなのだ。樹木は血統であるが、リゾームは同盟であり、もっぱら同盟に属する」(宇野邦一他訳) とドゥルーズとガタリは『千のプラトー』の中で語っているが、この媒介性、横断性はまさにウィルスの広がりに対しても述べ得る現象である。それは垂直的な構成体としての広がりではなく、水平的な構成体としての広がりを持つゆえに、現在の支配システムに対して強烈な一撃を加え、支配権力を動揺させ、今あるシステムの矛盾点、搾取の構造、欲望コントロールの方法などを明瞭に浮かび上がらせる。そして、より強力なコントロールという支配装置が如何に無力なものであるかということも紛れもない形で暴露する。より強力な支配力によって、われわれ一人一人の行動を制限したとしても、一人一人の人間が権力者の命令に従わなければ (例えば、今の日本でロックダウンが可能であったとしても)、パンデミックを阻止することなどはまったく不可能であるのだ。問題はより強い支配ではなく、他者と如何に連帯するかという問題なのである。
緊急事態下での、速やかな、強いリーダーシップが必要であるという主張は一見正当性があるように思われるが、実はミクロファシズム的な考えへの感染を表している。リゾーム的な攻撃体に対して、旧来の軍隊型の樹木図的な体制で対抗することにどれだけの有効性があるだろうか。絶対権力の命令によって、国民を監視し、管理し、禁止条項によって縛り上げること、それは帝国主義国家対帝国主義国家といった同様な組織体同士の対決にとっては有効なものであったかもしれないが、樹木図的体制を全く持たないウィルスの攻撃に対しては大きな成果を生み出すものではない。何故なら、水平的攻撃に対抗できるものは水平的なものであるからだ。リゾーム的攻撃を迎え撃てるものはリゾーム的なものなのである。
われわれが横へ横へと広がっていくことを可能にする運動とはどのようなものであろうか。それは例えばアントニオ・ネグリやマイケル・ハートが主張しているマルチチュードであろう。この概念について二人は、「マルチチュードは一群の特異性からなる。ここで私たちの言う特異性とは、その差異が決して同じものに還元できない社会的主体、差異であり続ける差異を意味する」(幾島幸子訳) と『マルチチュード(上):〈帝国〉時代の戦争と民主主義』の中で語っているが、特異性と多様性が混合した主体間の広がりがマルチチュードである。これこそがリゾーム的な攻撃に対抗できるものではないか。それがリゾーム的であるがゆえに。
ハラリ提言の疑問点
このセクションでは、これまでに検討した問題点と深く関連する発言について分析していきたいと思う。それは4月11日にNHKで放送されたETV特集「緊急対談 パンデミックが変える世界~海外の知性が語る展望~」におけるイスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリの発言である。彼は番組の中で、「私は監視に反対してはいません。むしろ感染拡大を食い止めるために新しい技術を利用することには賛成しています。しかし監視は政府だけではなく一般市民にも二つの方法で力を与えるべきだと思います」と述べている。その二つの方法あるいは条件とは、一つが自分のデータに対して市民が自由にアクセスできるというものであり、もう一つが政府の決定に透明性があるというものである。この発言は一見すれば、正しい意見であるように思われるかもしれない。だが私は以下の三つの理由からハラリの主張に対して強い疑問を抱いたのである。
先ず、「市民」という概念には問題がないだろうか。この概念はハラリにとっては近代民主主義社会を構築した担い手として想定されているが、果たして、近代社会を作り上げたような市民が今も存在し続けていると語ることができるであろうか。近代的な自己を持ち、主体的に自由に政治、経済、社会的な様々な活動を行うエゴ。それは民主主義国家の基盤をなし、進歩の名の下に全ての人が平等で、良き世界を作り上げようとする主体である。だが、そうした主体は現在でも尚確かに存在していると断言できるのであろうか。資本主義が高度に発展した今、われわれが目にしている社会を構成している主体は理性的な主体などではなく、欲望装置に過ぎないのではないだろうか。マックス・ホルクハイマーは『理性の腐蝕』において「(…) 理性ある (合理的な) 行動を究極的に可能とする力は、特殊な内容がなんであれ、分類し、推理し、演繹する能力、すなわち思惟装置のもつ抽象的機能である」(山口祐弘訳) と書いているが、こうした抽象化能力は物事を観察し、分析し、判断する力を要する。しかしながら、欲望機械となった現代の市民 (それが存在するとして) に、こうした積極的な能力が存在している根拠はまったくないのではないだろうか。その能力はすでに失われてしまったのではないだろうか。
第二に情報への自由なアクセスという問題であるが、情報産業が極度に発展した現代において、その情報のベースとなるものは資本主義システムである。それゆえ、いくら理性的なある個人が情報公開を要求しても、そこには利益という問題が、交換価値の問題が存在する。自由は無償のものではないのだ。ロルドンは上述した本の中で「どんなに「遠く離れたところからの」相互作用でも頑迷な諸個人をおのれのもっとも基本的な社会的立場 (人類、社会集団、等々) に向き合うように仕向ける。そして個人の狭い範囲を越える集合的な認識図式に戻らせる。社会全体が何よりも個人横断的影響あるいは相的互影響の結果として個人のなかに現前しているのは、こうした個人の社会的立場を通してであり、また社会的立場が引き起こす判断を通してなのである」と主張しているが、共同体は他者の存在を前提としており、他者なしの自由はあり得ないのだ。ハラリが言うように個人の権利や自由は確かに存在するが、それは他者との共存なしにはあり得ない事象である。他者と共にあることの自由について、われわれはもっと深く考えなければならないのではないだろうか。
第三に「監視」という体制は、ハラリの言葉を使えば市民としての、私の言葉を使えばマルチチュードとしての主体と両立可能であるのかという問題を検討しなければならないと思われる。マルチチュードが水平方向の広がりを展開していくものであるのに対して (つまりはリゾーム的なものである)、監視という行為は樹木図的システムに依拠した行為である。ミシェル・フーコーが主張したパノプティコンというシステムは監獄や工場管理のためだけに有効な手段なのではない。監視とは常にパノプティックなものであるのだ。何故なら、監視は緊密な間柄の他者に対して行うものではなく、敵対者や従属者に対して用いられる装置だからである。それは樹木図的な体制の中で取られる装置であり、マルチチュード的主体の構成体が決して用いることのない装置なのである。つまり、監視とは支配の道具であり、それを市民が用いれば市民はもはや市民ではなくなり、支配者となるのだ。
最後に、今回のパンデミックによってわれわれが問わなければならない問題を具体的な側面からもう一度整理し、われわれがこれからの世界をどのように目指すことが出来るのかという事柄について考えていこうと思う。もちろん問わなければならない問題は多数あるが、ここでは以下の二つの点に絞って考察していきたい。一つは科学的な問題としてのウィルスの持つスピードと毒性という点についてであり、もう一つは経済的問題としての賃料という点についてである。何故この二つの点に絞るのか。それは第一の問題がリゾーム的な広がりと深い繋がりを持つものであり、第二の問題が資本主義システムの一つの大きな重心を担ったものであると考えられるからである。そして、この二つの問題探究を通して、これからの世界の向かう方向性に対して僅かながらでも言及できると思うからである。
第一の点に関しては、当然のことではあるが、もしも新型コロナウィルスの感染スピードがゆっくりであるならば、また、毒性が弱く、感染したとしても死に至るものではないならば、現在われわれが直面している問題は異なる結果となっていたであろう。リゾーム的な攻撃の横断性が問題となっていても、それが緊急性を生じないものであれば、対策を練る時間もあり、防衛準備を整える時間もある。だが、ウィルスがゆっくりと進行することが望めない以上、早急に何らかの手段が講じられなければならない。だがそのために必要な事柄は多くの人々が繰り返し強調されているリーダーシップというものであろうか。リーダーシップへの期待は当然のことであるように見えて、実はミクロファシズムへの温床となるのではないだろうか。先程も述べたが、リゾーム的なものに対抗できるものはリゾーム的なものであり、それは新自由主義を背景とした樹木図的なシステムではなく、マルチチュード的な主体のあり方である。更に「欲望の多様化と交流という装置」のセクションで挙げたロルドンの言葉が示すように、権力者に主体性を委譲する方法は思考停止と隷属を求める主体性の放棄へと向かう。指示がなければ、法律がなければ、命令がなければ動けないのであれば、もはや近代的な市民というものは死滅し、ミクロファシズムが今の世界を覆っていることになる。問題は指示や命令がなくとも、他の主体と共に行動できる主体の存在様式であり、それができなければ、われわれは樹木図的システムに呑み込まれ、死滅するだけであろう。
第二の点に関して、私の貧しい経済学的知識で、経済問題を語ることは傲慢なことではあるが、この賃料という問題に対しては是非とも語る必要があると考える。世界各国で資本主義的な経済活動の自由がストップすることが要請されたり、命令されたりしている。それぞれの国の国民は緊急事態であることを理解し、多くの産業で経済活動が停止されている。しかしまったく影響を受けずに、収入を得続けている職種がある。その代表的ものが土地や建物を貸すということによって利益を得ている業種である。飲食業を中心として、賃料が払えずに店を閉じなければならないといった、あるいは、家賃が払えず住む場所を失いそうになっているという状況に陥っている人々がいるのは日本だけの話ではない。それゆえ、各国の政府や地方共同体が金銭的援助を行っているのは確かである。だが、助成金を配るだけが解決方法なのだろうか。緊急事態であるならば、何故、公権力は貸主に数ヵ月間の賃料の停止や半額化などの要請、指示、命令などを行わないのだろうか。自動車工場や、遊園地や、レストランなどには休業要請や命令を出し、経済的痛みを要求していながら、土地や建物の所有者の経済活動に対して、何故公的機関は何の協力も求めないのだろうか。また、貸主が自らの判断で、特定期間、家賃の支払い期日の延長や半額化を行ったというニュースもまったく聞かれない。これは自粛要請の極端な不平等を示すものではないだろうか。そこには土地や建物といった資本を資本主義構成のための中心と見なし、聖域化している現在の経済システムの問題点が克明に顕在化しているのではないだろうか。
スラヴォイ・ジジェクが『ポストモダンの共産主義――はじめは悲劇として、二度目は笑劇として』において、「新しい運動を起こすよりも、現在支配的な運動を中断させること。これが今日あるべき政治活動のすることだ。そのときベンヤミンがいう「神的暴力」にあたる行為は〈歴史の進歩〉という列車の緊急停止コードを引くという意義をもつだろう。言い換えれば、人は〈大文字の他者〉の不在を全面的に受け入れねばならない」(栗原百代訳) と述べているが、資本主義をベースとした社会の支配装置に大きくブレーキがかかった今だからこそ、見えてきたものが存在する。今ある支配装置は完全なものでも、称賛すべきものでも、素晴らしいものでもなく、矛盾に満ち、変えなければならない多くの問題を抱えたものである。ジジェクが言うように、世界中で展開している資本主義運動が中断している時だからこそ、われわれは「大文字の他者」という支配システムの虚構性や危険性と真正面から対峙しなければならないのではないだろうか。今回のパンデミックを終息させることは重要なことではあるが、それだけでは以前と変わらない支配体制が再現されるだけなのだ。
権力者たちはロックダウン、オーバーシュート、ステイホームといった、ドイツの言語学者のウヴェ・ペルクゼンが提唱した空虚で意味のない言葉として定義されるプラスチックワードを羅列し続けている。そして、リーダーシップというスローガンを掲げ、世界のミクロファシズム化を押し進めようとしている。こういった状況下で、世界をより良い方向に変えるためにわれわれが真剣に考えなければならない事柄、それはリゾーム的な、横断的な広がりとしてのマルチチュードという問題なのではないだろうか。
初出:宇波彰現代哲学研究所のブログから許可を得て転載
暴力的リゾームと横断性:パンデミックが露わにするもの
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion9742:200512〕