本書はすでに主要な新聞の書評欄でも取り上げられており(注)、いまさら紹介でもないのだが、本書の価値はいくら強調しても足りないと考えるので、ここに改めて紹介する。
さてソ連邦史を学んだ者は、スターリンによる農業集団化の歴史を知っている。「階級闘争」として、自営農などを大量にシベリアなどの強制収容所に移動させ、また集団化を通じて、穀物を強制的に供出させ農民を飢餓に追い込んだ。その主要な舞台が「ヨーロッパのパン篭」と呼ばれた肥沃な黒土の広がるウクライナであった。
またヒットラーが独ソ不可侵条約を破って、電撃攻撃によってソ連邦を数週間で崩壊させるべく戦端を開いた際の主要な戦場の一つがウクライナであった。電撃作戦が当初の計画どおりに進まず、スターリングラードの戦いからソ連軍の反撃を受け、守勢に立たされることになったが。
しかし本書は、1930年代から第二次大戦の終結までの間のウクライナで起きた餓死と虐殺による人的被害の詳細を、政治・軍事の動きと関連させながら、客観的なデータに基づいて丹念に追っている。例えば、スターリンの共産党組織と官僚組織がウクライナの農民たちから種籾まで奪い取り、大量の農民を餓死に追い込みカニバリズムが蔓延するまでの状態に追い込んだこと、そのウクライナを41年に占領したナチス軍は、集団化された農場からの食糧収奪が容易だと考えていたが、思うようには穀物を集められなかったばかりではなく、パルチザン活動に手を焼くことになったことである。スターリンの創出した制度は、大規模な抵抗にあうことなく餓死者を出すほどの過酷な収奪を可能とした一方で、言葉や文化の異なる征服者がその制度を利用することは難しかったことを指摘している。
同じようにポーランドで起きたことも詳細に描き出す。第二次世界大戦の直前、独ソ不可侵条約締結の直後に独ソ間でポーランドが軍事的に分割されたが、ポーランドの東半分は、以降の6年足らずの間に、ソ連軍、ドイツ軍、ソ連軍と軍事占領が交互に行われた。ここがヨーロッパ最大のユダヤ人集住地帯でもあったことを指摘されれば、そのユダヤ人たちの身の上に起きた過酷な状況に思い至る。しかし、本書の示す詳細な経過は、我々が知っていたつもりの内容がいかに皮相なものであるかを教えるのである。
例えば、アウシュビッツの位置づけについても本書は微妙な修正を求める。ナチスドイツは、強制収容所の工場と捕虜やユダヤ人殺害のためのガス室などを備えた殺人工場とは、もともと別々に設置して「稼働」させていた。ところが、43年以降のソ連軍の反攻のなかで、アウシュビッツではその両者が併設される例外的な形となった。アウシュビッツよりも東方に設置されていた数か所の殺人工場はドイツ軍撤退の際に破却されるなどしたが、アウシュビッツについては破却する余裕もなく撤退したため、その設備のほとんどが残された。またアウシュビッツの「特殊性」のために多くの生存者が証言することになったのである。
アウシュビッツを解放したソ連は、戦争末期から戦後にかけてナチスドイツの蛮行の証拠とし、400万人がここで殺害されたと主張したため、アウシュビッツがナチス蛮行のシンボルとなった。しかし、旧ポーランドやベラルーシ領内に作られた殺人工場などの実態はいま一つ詳しく知られていない。
その理由の一つが、ヤルタ・ポツダム会談で、ヒットラーとスターリンによって引かれた分割線が、ほぼそのまま戦後の国境線として継承されることが認められたことである。そのため旧ポーランド東部地域での残虐行為に関しては、ソ連の行為もドイツの行為も情報が表面化しにくかったのである。またスターリン晩年の「ユダヤ人医師たちの陰謀」事件で知られるように戦後のソ連では反ユダヤ主義が強まったこともあり、アウシュビッツ以外のナチスによるユダヤ人の迫害と虐殺の証拠などが積極的には紹介されなかったことも一因である。この地域に隣接するロシア領でポーランド人将校ら数千人が虐殺された「カチンの森」事件の真犯人がソビエト側であることをロシア政府が認めたのは、1990年ゴルバチョフ書記長(当時)が「スターリンの犯罪のひとつ」であるとしてポーランド側に資料を提供したのが初めであり、今でもすべての資料が公開されているわけではない。著者の指摘するウクライナ、ベラルーシ、ポーランド、バルト三国を中心とする地帯での加害・被害関係と被害規模について、必ずしも各国政府や国民の間で理解が一致しているわけではない。著者は、この地域での1930年から45年までの戦闘行為以外の死亡者が約1,400万人になることを明らかにしている。
本書が現代の国際社会に発している警告は、この死者数と加害・被害関係の曖昧さを利用しつつ国家あるいは民族的な対立を煽る政治的動きである。例えば90年代のユーゴスラビアの紛争の原因の一つが、セルビア系住民たちの間に第二次大戦中の自民族の被害を実際よりもはるかに過大に考える歴史修正主義が広がり、民族対立が煽られたことにあると、著者は指摘している。
また「被害」の主張が、冷戦期の米ソの思惑によって歪められてきたことも指摘している。ベルリン問題などで東西対立が激しかった時期の西ドイツの教科書では、ドイツの東部国境はモロトフ=リッペンドロップ線に引かれ、オーデル・ナイセ線の東側は「現在はポーランドの支配下に置かれている」との注意書きが書き込まれていたという。当時の西ドイツが、英米ソの間で了解されたはずの国境線を不当として、自国の「正当な領土」を奪われている被害者である、と主張できたのはソ連と事を構えていたアメリカのご都合主義の故である。
ひるがえって日本と東アジアの状況を考えてみたい。国境について言えば、戦後のソ連の国境がヤルタ・ポツダムで了解されたものであることを確認すれば、ロシア側にすれば、日本との間に「領土問題」がないのは自明のことである。安倍政権はプーチン大統領との個人的信頼関係を構築することによって、交渉に進展があると考えているのだろうが、たとえ小さな島であろうと、ヤルタ・ポツダムで確定した国境線の一部でも変更を認めれば、ロシアは国境を接する多くの国から一斉に国境線の見直しを求められることになる。現在のロシアの領土は「大祖国戦争で大量の血を流して守った土地である」というのが基本的な姿勢である。ただし実は、その「大量の血」もベラルーシやウクライナなどの人々の割合が多かったのであるが。
被害の数字の問題では南京事件だろう。1937年に南京に侵攻した日本軍は、大量の捕虜の扱いに困り、市民を含む大規模な虐殺を行った。連合国側は日本軍の蛮行の象徴として被害を30万人と推計した。30万が過大であることは多くの研究者が指摘していることではあるが、日本の保守政治家からは戦後一貫して事件そのものに否定的な主張がなされ、極端には虐殺そのものが捏造であると主張するものまでがいる。
そのような議論がアメリカに許容されていたのは、冷戦下のアメリカが日本の保守政治家たちの利用価値を認めていたからであった。しかし、基本的にEUの構築などに示される、和解をベースとしたヨーロッパとは異なり、冷戦終結後の日本では逆に、日本の先の戦争そのものを肯定する時代錯誤的な議論が大手を振って歩く状況が生まれた。
安倍政権に至っては、学校教科書の編集にまで介入し、南京事件を扱わせないように圧力をかけている。アメリカ政府は折に触れ、従軍慰安婦問題や靖国神社参拝問題などについては日本の政治家たちに釘を刺しているが、おそらくアメリカ政府にとって東アジアの国際政治では中国との関係の重要性がいっそう増しており、日本の政治家の妄言にいちいち反応する必要は感じていないのであろう。第三次安倍内閣では稲田朋美が防衛大臣に任命されたが、それは国際社会に対する挑発行為以外の何物でもない。今後ホワイトハウスがどう反応するか注視する必要があろう。
靖国参拝問題などに見られる日本の劣化した政治家たちの言動が、国際社会から奇異に見られていることさえ自覚できない政治が蔓延するようであれば、日本は東アジア社会で孤立していくだけである。東アジアの戦争被害について本書のような研究が日本人研究者によって行われるならば、東アジア諸国からの日本の評価を高めることになるはずである。東アジアの安定のためにも、本書に等しい東アジアの第二次大戦史の研究成果が待たれるのである。
(注)朝日新聞2015年12月6日 吉岡恵子「戦闘によらぬ犠牲者約1400万人の声」
読売新聞2015年12月7日 松本武彦「1400万人虐殺『合理』性を解く」
東京新聞2015年12月13日 米田剛路「独ソの暴虐 重層的な実態」
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