先に私はディディ=ユベルマンの『イメージの前で』の書評をこのブログに載せたが(2012年4月4日)、その原書は、1990年つまり著者37歳の時に刊行されたものであった。今回訳出された『時間の前で』の原書は、その10年後の2000年刊である。1990年からの10年間に、ディディ=ユベルマンが対決したのはベンヤミン、ヴァールブルグ、カール・アインシュタインといったドイツ系の思想家・美術史家であった。『時間の前で』は、特にベンヤミンの影響下に書かれたと見ることがでできる。
本書のキーワードは「アナクロニズム」である。それはベンヤミンの概念である「弁証法的イメージ」「静止した弁証法」を言い換えたものである。「静止した弁証法」は、「19世紀の首都パリ」においては、「<過去>と<現在>が閃光のうちに出会い、星座をかたちづくるもの」と規定されている。本書の第2章「悪意-イメージ」は、ベンヤミンのこの概念を中心に展開され、第3章「闘争-イメージ」は、カール・アインシュタインの思想と仕事の検討である。カール・アインシュタイン(1885~1940)は、ベンヤミン(1892~1940)と同世代であり、同じようにユダヤ系ドイツ人で、パリで活動したあと、1940年7月5日にピレネーの町で自殺した。(ベンヤミンがやはりスペインとの国境の町ポルトボウで自殺したのは、同じ年の9月26日である。)
ディディ=ユベルマンは、ベンヤミンとアインシュタインとを結びつけて考察する。アインシュタインには『黒人彫刻』(鈴木芳子訳、未知谷)という著作があるが、彼はアフリカでフィールドワークを行ったことはない。「彼の本来のフィールドとは、アヴァンギャルドたちのパリ」(p.187)であったと著者は述べていて、「黒人」の芸術もシュルレアリスムとの関係で論じられている。ディディ=ユベルマンは、そこにどういう意味が含まれているのかを論じていない。なぜ「アフリカ」なのかという問題意識が欠けている。これは第4章で論じているバーネット・ニューマンとアメリカ先住民族との関係についてもいえることである。
翻訳はきわめて正確であり、訳文もこなれた日本語である。ただし、訳者の一人である小野康男氏による「訳者あとがき」は、訳者自身にわかっていることを述べたものではあろうが、読者にとっては難解すぎるといわざるをえない。たとえば、精神分析学は「フロイトの読み直し」を行っているが、それは「精神分析学がフロイトの欲望によって開始されたという想定のもと、フロイトの欲望の厳密な定式化を、<学>によって必要不可欠なもとしているのである」(p.263)というところなど、何を言っているのかまったくわからない。「イメージに関する言説」が、ラカンの「『精神分析の四基本概念』に負うところが大きい」というのもどういうことなのか理解できない。(2012年7月3日)
初出:宇波 彰現代哲学研究所http://uicp.blog123.fc2.com/より許可を得て転載
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