冒頭の部分を一読してやや驚きを感じた。極めて戦闘的な文章なのである。
「今日、マルクス価値論は、マルクス批判者はおろかマルクス擁護者にとっても正面から論じられることは少ない・・・われわれは、こうした現状を視野に収めつつ、二十一世紀におけマルクス価値論の復権を企図すべく、いささか大仰な言い方をさせてもらえば、本書もおいては、マルクス『価値論』が立脚する哲学的世界観の独自な地平と弁証法的体系構成の論理と構図を洗い出し、それに依拠して根源的な『資本論』の読み直しと再構成を遂行していく」(ⅲ~ⅳ頁)。
何か評者自身に向けられている言葉のように感じてドキリとしたわけである。評者は「商品に内在化しているように見える幽霊のような対象性」=「物象化錯視により当事者の頭の中に生まれたイデアールな存在」としての「価値」=については何度も語ってきたが、「この幽霊のような対象性」と目に見える「価格」との関係については、確かにこれを等閑視してきたきらいがあった。そして、この等閑視をさらにはっきりと自覚させてくれたのは、本書の次のような分析方法なのである。
「われわれとしては、こうした誤読や混乱を整理・回避すべく、この命題をめぐるカテゴリー上の準位を統一して、『価値価格の生産価格への転化』という形で、一旦、価格カテゴリーに統一した表現に変更して、以下の考察を展開していくことにしたいと思う」(27頁)
「『価値の生産価格への転化』という命題は、<価値>カテゴリーで統一して命題化すれば『単純な価格価値の生産価格価値への転化』という表現になる」(28頁)
つまり、「価値は価値と、価格は価格と比較せよ」というまっとうな提言で、評者はこれに賛同するものであり、同時に評者の今までの「等閑視」にも反省を迫るものであった。
まず、価値同士の比較を見てみよう。価値はイデアールな存在であるがゆえに直接的な量的比較はできない。そこで、投下労働時間というレアールなもの―これとて具体的な投下労働時間ではなく、あくまで社会的労働時間としてイデアールな側面を持つわけだが―を利用して比較することになる。
この比較は、部門によって剰余投入労働時間が異なる経済(単純商品経済)と均等な剰余投入労働時間が成立する経済(資本主義経済)との比較となるわけだが、同一の生産物・同一の技術という前提では、前者の総投下労働時間=後者の総投下労働時間、前者の総剰余投下労働時間=後者の総剰余投下労働時間という総計一致2命題は成り立つはずである。つまり、この場合は前者と後者の間には矛盾が生じないと言ってよい。
次に価格同士の比較を見てみよう。これは、部門によって利潤率が異なる経済における価格(価値価格)と均等利潤率が成立している経済における価格(生産価格)との比較になる。これは、上述の価値(投下労働時間)同士の比較のように簡単にはいかない。費用価値価格の生産価格化―「転形問題」を考慮しなければならないのである。そして、この「転形問題」の最終的な研究成果は、総価値価格=総生産価格、総剰余価値価格=総利潤の総計一致2命題は一般的には成り立たないというものであった。つまり、この場合は前者と後者の間に矛盾が生じてしまうのである。
著者のせっかくのオリジナルな分析方法にもかかわらず、結局問題は依然として解決されないままなのである。さらに付け加えると、価値価格から生産価格を導き出すという迂回路を通じなくても、「生産価格それ自体はスラッファの生産方程式から直接に導出できる」というスラッフィアンやサミュエルソンなどの見解があることもここで指摘しておこう。
では、この難問にどう対処したらよいのであろうか。評者は、その方向は「価値論をリジッドな価格決定論というドグマから脱却させる」という視角にあると思う。すなわち、①価値がレアールな存在であることをさらに明確にすること、②その量的分析は、価格決定論と切り離しあくまで投下労働時間の分配と再分配という観点から進めること、③価格(生産価格)は、上述の投下労働時間の分配と再分配という観点ら切り離し、スラッファの生産方程式によって決定されること―以上のような視角である。
著者はこう述べている。
「もし、この『価値論』の理論的妥協性が権利づけられないとしたら、あらためていうまでもなく、マルクスの『経済学批判体系』は、体系としては、音をたてて崩壊する、と言っても過言ではないだろう」(ⅲ頁)
しかし、これは杞憂だと思う。「音をたてて崩壊する」のは、リカード学派の1員としてのマルクスでありその追従者としての教条主義的マルクス主義である。「価値論をリジッドな価格決定論というドグマから脱却させた」もう1人のマルクスは、厳然として存在しているからである。
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〔opinion8088:181017〕