書評「資本論の哲学」

書評 熊野純彦『マルクス資本論の哲学』(岩波新書 2018年)

「経済学の批判」と「経済学的批判」

著者は2013年に『資本論の思考』(せりか書房)という同趣旨の著作を発表している。新書という性格上、この『マルクス資本論の哲学』は前著の『資本論の思考』の一般的な解説と見てよいだろう。評者は『資本論の思考』の「商品―貨幣―資本」(いわゆる流通形態論)の部分の書評を書かせていただいた(『情況』2014年3月号)。

したがって、今回は『資本論の思考』にはなかった論点―『マルクス資本論の哲学』の第Ⅳ章「市場と均衡」についての著者の見解を論評したい。

著者は、この章の冒頭で、「科学的社会主義」(Wissenschaftlicher Sozialismus)という言葉は、「マルクスの思考をめぐって、いくつかの不幸な誤解を生んできたように思います。ひとつだけ挙げておけば、マルクスを科学主義者とみなす誤読です」(134頁)と指摘する。そして、その「誤解」のひとつの結果として、「『資本論』におけるマルクスの思考を“経済学”と呼んですませてしまう」(同頁)という「誤読」も招いたとも指摘する。

マルクスの思考は、「資本性的生産様式という特殊歴史的な与件と科学=技術の密接なかかわりを読み取ろうとする姿勢であって、前者に対するマルクスの立場が批判的なものである関数として、後者にかんするその視点も無批判的なものではありえないことはむしろ自明です」(137頁)というのである。これは、一般的に言われる「『資本論』は経済学ではなく経済学批判だ」という見解であろう。

評者もまさにそのとおりであると思う。しかし、それを認めた上で、評者はあえてこう問いかけたい―『資本論』の背後にある論理は経済学批判であるとしても、それは、あくまで経済学的な論理から離れては存在しえないのではないか。あるいは経済学的な論理を徹底的に深化させてこそ初めて経済学批判が誕生したのではないか―と。

さて、著者の以上のような見解は、マルクスと古典派との関係についての著者の見解とも関連している。著者は「経済学史の教科書をひらいて見れば、マルクス“経済学”が古典派経済学の中に位置づけられて」(138頁)いると指摘する。こうした位置づけは前述の「誤読」のひとつであると、著者は言いたいのであろう。

これについて、著者は、まずケネーの経済表とマルクスの再生産表式との関係について、経済学理論としてのその継承関係を承認しつつも、再生産表式が「それじしん経済学批判の一翼に位置づけられるべき所説」(139頁)であることを指摘し、後の部分でそれを論証しようとしている。第二に、マルクスの地代論とリカード差額地代論との継承関係を確認しつつも、それらの経済学理論は「『資本論』における地代論の主要な視点ではありません」(140頁)と断ずるのである。その「証拠」として、著者は『資本論』の地代論の以下のような結語を引用している。

前半部略―大工業と、工業的に経営される大農業はともに作用する。元来この二つのものを分けへだてているのは、前者はより多く労働力を、かくてまた人間の自然力を荒廃させ破滅させるが、後者はより多く直接に、土地の自然力を荒廃させ破壊させるということなのである(K.Ⅲ,S.821)

そして最後に、以上のような事実から、著者は、マルクスが目指したのは、古典派経済学の枠内での「経済学的批判」ではなく、まさに「経済学の批判」だ(145頁)と、先自の自身の認識を再確認するのである。

しかし、この二つの例は妥当であろうか。再生産表式については、著者自身がさらに突っ込んだ分析をしているので後に回し、まず「地代論」の結語について見てみよう。

マルクスによるこうした資本主義の自然に対するマイナスの影響の指摘は、単なる感傷的な倫理的批判ではなく、まさに経済学的分析に基づいた「経済学的批判」ではないのか。畢竟「経済学の批判」につながる論理だとは言っても、その根底には経済学的分析があるのを忘れてはならない。したがって、評者は著者の観点は一面的にすぎるものと思う。

次に「再生産表式論」についてである。著者はまず名高い」「領有法則の転回」を取り上げ、「ここで生起しているのは、等価交換という理念の腐食であり、自己労働による自己領有という理念の解体です―中略―近代の理念を近代資本制の現実が裏切っていることになる」とし、このように「単純再生産の分析すらマルクスにあって、経済学の一カテゴリーの劃定ではありません。それは経済学批判であり、資本制経済への批判です」(149頁)と断定する。

だが、これが本当に「経済学批判」なのか。評者から見れば、「資本の自己運動が順調に進めば、利潤が当初の元手と等しくなるまで蓄積される」という平々凡々たる事実―まさに経済学的事実―が述べられているにすぎない。著者を含む多くのマルクス研究者は、「領有法則の転回」というマルクスの大袈裟な表現に惑わされて、そこに何か重要な思考が潜んでいるかのように思っているが、素直にその論理をたどれば、そこにはこうした平々凡々たる経済学的事実しかないことに気付くであろう。

以下の著者の再生産表式についての言説は、基本的には一般の『資本論』解説書と同様に「資本論」解釈に終始しておりとくに論及するには及ばないが、その最後の部分「再生産表式論の意味(1)(2)」においては、著者独自の解釈が述べられている。それは以下のような疑問の提示から始まる―「右にひととおり見ておいた再生産表式論も、一見したところでは、いわゆる新古典派総合をへた現代経済学における一般均衡モデルとくらべて、その初等算術的な原型であるように見えることでしょう。じっさい表式論にあってマルクスは、いくどか「均(グライヒ) 衡(ゲヴィヒト)」という表現を使っていますし、その推論の手続きも、均衡解を求めて数値操作をおこなうものであるかの印象を与えます。しかし、そうでしょうか」(165頁)と。

そして、著者は「表式の原型ともなった『マルクスの経済表』を見る限り、その均衡条件を求めているように見えながら、じつは均衡の背後にある偶然と不確定な諸条件を問題とするものとなっています」(167頁)という反対の解釈を下すのである。その上、貨幣蓄蔵や信用制度などの攪乱要素も加わり、結局「『均衡』は『それじしん一個の偶然 ein Zufall』にすぎないわけです」(169頁)と著者は結論付けている。

しかし、これは著者の言う「経済学的批判」とは区別される「経済学の批判」であろうか。経済学説史を一瞥すれば、「市場という自動調節機構によって均衡が常に達成される」というあまりに楽天的な思考に対する批判が、学説史の流れの中に常にあったのは自明のことであろう(その代表者はケインズであろう)。すなわち、こうした批判は、確かに「経済学の批判」には繋がっていくものとは認められるが、基本的には経済学の枠内にある「経済学的批判」に位置するものではなかろうか。

この第Ⅳ章は、再生産表式論のほかに生産価格論も対象としている。この生産価格論について、著者はこう言っている―「その考察は一見したところ、リカード経済学の不備に対する経済学的な批判の典型であるかのように見えます―中略―とはいえ、ほんとうは、マルクスの叙述にはまったく別箇の性格があります。それは説明ではなく批判であり、問題となるのは経済学批判であって、経済学的批判ではないからです。マルクスの生産価格論をめぐるいわゆる『転形問題』が、この間の消息を見あやまったところから生じた疑似問題であるしだいについても、この章でのちに確認してゆくはこびとなるはずです」(145頁)―。

第1の論点―生産価格論の持つ経済学批判の意義について、著者はこのような解釈を下している―「価値から価格への転化あるいは転形が問題になる時に、その過程で実際に変換していたのは、むしろ認識の次元と視点であって、そこで問題となるものは分析者の立場から当事者の立場への転換なのです」(188頁)。

つまり、通常の直線的な科学的認識(この場合は経済学)ではとらえきれない、複雑な認識パラダイム―著者はアルチュセールの用語を借りてこれを「構造的因果性の概念」と呼んでいる―をマルクスは提示しており、それは当然通常科学(経済学)のあり方への批判も含んでいるというわけである。

この点については、評者も繰り返しにはなるが、通常の経済学的認識と経済学的批判を基盤としなければならないという条件において賛同するものである。

しかし、第2の論点―転形問題が疑似問題であるという視点については、評者はかなり批判的にならざるを得ない。

ここでは転形問題論争の経過をフォローする必要はないだろう。問題はその最終的結論である。それは、いわゆる「総価値=総生産価格」、「総剰余価値=総利潤」の2命題が同時には一般的には成り立たない、すなわち、投下労働価値は生産価格を規定するものにはなりえないという結論である。言い換えれば、生産価格はスラッファの生産方程式があれば確定でき、前提としての投下労働価値は必要としないという結論である。まさに、経済学的批判の徹底的深化によって、古典派(とくにリカードの)の単純な投下労働価値説という基本的パラダイムが批判されるに至ったのである。このことは、まさに経済学的批判を通じての経済学批判と言えるのではなかろうか。

しかし、この結論は、リカードの弟子でありかつリカードを乗り越えようとしたマルクスの思考が無意味になってしまうことを意味しない。この転形問題論争から派生した重要な理論的業績として、置塩―森嶋の「マルクスの基本定理」があるが、これは、リカード流の価格決定論としての投下労働価値説を必ずしも経ることなく(だからこそ等式ではなく不等式で表現されているのである)、搾取を証明しているのである。

いわゆるリカード流の投下労働価値説の放棄は、あたかもマルクスの理論的破綻を示しているようだが、「マルクスの基本定理」はそれにもかかわらず、「人間と労働の関係」、「剰余労働と必要労働の関係」というマルクスの経済学批判、資本主義批判という根本的な理念を受け継いでいるのである。これがどうして経済学的批判の枠内に閉じ込められた疑似問題と言えるのだろうか。

「経済学の批判」と「経済学的批判」―巧みな表現だと思う。しかし、それは両者の間に万里の長城を築くことではない。評者は「経済学的批判」の徹底した深化の上にこそ「経済学の批判」が形成されると思うものである。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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