難波田節子の『遠ざかる日々』(鳥影社)は、読者をひきこむ、読ませる小説集だ。自伝的な連作短編ではない。こむずかしいテーマと格闘する小説群でもない。気どりのない文章で描かれた、6編の小説集である。
わたしはいっきに読みおえた。何がこんなに読ませるのだろう。
真率なディテールのつみかさねのせいかもしれない。
殺伐とした社会にあって、他人をけおとして平然としている。他人のことなぞ知らんふりの人が多い。難波田節子は、そんないいかげんさや薄情さに抗うように、他人の気持ちを想像しつつ自らを律する心情をモティーフに、作品世界を構築したのではなかったか。そんな誠意の文章に、わたしは惹きこまれたのにちがいない。
6編の小説は、難波田節子が長年にわたって所属する、季刊の同人誌「遠近」に発表したもの。執筆歴はながく、久保田正文、高井有一、勝又浩に師事してきた。本書には勝又浩が「解説」を寄せている。
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6編のなかで長いものは「遠ざかる日々」と「懐かしい街―巣鴨そして弟」だ。作品のできばえは後者のほうがよい。どちらもストーリーを追うたのしみがある。が、やはり、前者は主婦の罪悪感に、後者は姉の弟へよせる後悔の念に注目してほしい。いずれも、多くの人が忘れている心情だ。
主婦の「多実」は、3番目の子が未熟児で生まれたことについて思う。この子が背負っている苦痛は、母の「許しがたい罪」によるものだ、と。かならず待っていると誓った人を裏切り、別の人の妻になってしまったことを悔いるのだった。
その人は、東京駒込で乾物屋を営んでいた。「僕は生きて帰りたい。そして多実ちゃんをお嫁さんにしたい」と、いいのこして出征していった。
勤め先の料理屋の女将から中尉との結婚話がもちこまれる。店の上客をたてる、世故たけた女将には勝てない。17歳の多実は「そんな薄情なこと、うち、ようでけひまへん」「約束ですよって」と応えるのが精一杯だった。中尉と結婚する。
のちに、その人の戦死がわかる。「許してください」「こんなに幸せで、ごめんなさい」と、心の中でつぶやく。いや、「ごめんなさい」ではすまされない罪悪感に、多実はさいなまれるのだった。
幼少から、小学校にもいけず「子守り奉公」をしてきた。自分の人生を他人の思惑や事のなりゆきで歩いてきた。
しかしいま、多実は自分の意志をみとめる。自身の行為に責任を感じ、これから先もずっと、心の中で謝罪していこうとするのである。
「弟」は4月8日生まれ。お釈迦さまと同じ日に生まれたことを誇りにしていた。姉もそれが羨ましかった。一家は東京巣鴨に住んでいた。
1945年3月9日夜。父は何の予告もなく、とつぜん家に帰ってこなくなる。母が半狂乱で捜すうちに、巣鴨一帯が焼夷弾で灰になってしまう。
姉と弟は、上田に学童疎開していた。6月、母が面会にくる。おっとり育った弟は、栄養失調でやせて、歩き方までよろよろしていた。
8月15日。「終戦の詔勅」の放送。汗をたらしながらきく教員や寮母たちは、目を真っ赤にして泣いている。しかし、生徒たちは「全然実感として受け止めることができなかった。」姉は小学5年生。
やがて、私大の法学部を卒業した弟は、民間会社に勤める。結婚して住まいを奈良にきめた。山に囲まれた静かな水の町。「平和な無音の生活」にあこがれていたのか、と姉は気づかうのだ。3人の息子も独立するが、弟は、大腸がんで倒れるのだった。
「一生俯きがちに生きた」弟の、小さく笑った、ゆがんだ口元が忘れられない。「何を考えて生きていたのか」しかし姉は、知ろうと努力をしたのかと、自らに問うのである。最後に何か言っておきたいことがあったのではないか。悔いが刺のようにつきささってくるのだった。
よりそって生きた巣鴨の街を歩いてみる。弟の匂いがのこる何かをさがして。
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「寒桜」「女系家族」「紅い造花」「冬の木漏れ日」の4編も、こぢんまりした作品世界で感銘ふかい。よく読めば、誰かしら欠けていることに気づく。父がいなかったり、母がいなかったり、と。何かしら不幸もかかえている。
しかし、手をさしのべる、気配りをする、親切な人がいる。哀切な作品世界だが、そこにはたしかに、人と人との関係が存在するのである。それはあたたかくて、やさしい。
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