書評:「猥雑な」イエス伝―小嵐九八郎著『天のお父っと、なぜに見捨てる』

「猥雑」という言葉の本来の意味は「入り混じる」ということだが、この本はあえてそのような視座をとりこんでいるようだ。そして、世間一般に流布している「イエス伝」(新約聖書の世界)を大胆に書き換えて独自に物語化している。もっとも「イエス伝」といっても「イエス・キリスト」の全生涯を追いかけたものではない。ある時期(およそ2年間)のイエスとその弟子たちの生きざまを一人の弟子(シモン)の手紙(実はスポンサーへの密書)と別の弟子(ユダ)の秘密日誌という形式によってヴィヴィッドに再現したものである。それゆえ、当然ながら彼らの実生活=共同生活を通じた下世話な事象がストーリーの大半を占めている。そのことを象徴的に示しているのが「田舎弁」(方言)丸出しの彼らの会話である。もっともこの方言での会話は、小嵐の小説の特徴ではあるが、この小説の中ではことさらそれが大きく意味付与され、強調されている。
「方言」であらわされるのは、都会人と田舎者(地方の人)、また出身地の違いという区別に限らない。「方言」によって著者が表現しようとしたのは、エリート層に対する下層民(「土の民」、ディアスポラ)という社会的被差別者の世界である。「標準語」(支配的なミヤコ言葉)を使う世界から差別され、虐げられた人々、このような人々の生の声をその日常生活に即してくみ取る手段として「方言」が使われている。方言が下層民のおかれた状態(貧しさ、身なりの汚さ、不潔さ、などなど)を内側から照射しているのだ。
ただし、ちょっと気になったのは、打倒されるべき「上層階級」、支配者たちのあり様が不鮮明なままであること(不自由な「律法」として示されただけ)だが、これは学術論文ではなく、あくまでも小説であるから…。
この小説では登場人物の性格のバリエ―ションが興味深い。中でも、イエス、ユダ、シモン、マリア(母)、マグダラのマリア、トマス大老人、ステファノ、ラーマ老人など、なかなか愉快で、それでいて謎めいた人物たちである。彼らがこれまで一体どんな人生を送ってきたのだろうか、気になるところだ。
ここでは詳細は本文の方に譲り、母マリアがイエスを私生児として生んだこと、マグダラのマリアにイエスが恋慕したこと、ユダがその恋人Γ(名前はガデニ)を自死によって失うこと、また彼は「裏切り者」ではなく、仲間によって殺されたこと、そしてラーマという東方から来た仏僧を登場させていること、を紹介するにとどめる。
読者に共に考えてもらいたいのは、この事件の叙述者となっているシモンとユダの関係である。二人の性格は、ある種正反対である。しかも、シモンが時々つぶやくように両者は「双子の兄弟」か「メダルの裏表」の様に酷似したところがあるという。なぜか?一つの謎が隠されている。
風采の上がらぬ小男シモンと立派な男伊達のような容子のイスカリオテのユダ(ユダの評価は通説と全く異なっている)は、かつて武装蜂起によってローマの支配を転覆させようとして失敗した「熱心党」の生き残りである。しかも、シモンは、その当時から権力(Σ=サウロ)に雇われた密偵であり、イエスに付きまとうのもその任務ゆえである。ユダは、蜂起の計画の頓挫以来、その挫折感を引きずりながらイエスと共に歩む、いわば「憔悴した革命家」である。・・・
そしておそらく作者が一番苦心したのはイエスの性格描写ではなかったろうか。
イエスは「神」なのか「人間」なのか?少なくとも母マリアや、マグラダのマリアにとっては、イエスは「人間」である。あるいはその弟子たちにとっても当初は「人間であった」はずである。イエスが病を治す奇蹟は彼の薬草への知識と、病める者との対話、「共鳴り」という今日の精神医学的手法に通じているようだ。砂漠の熱風(カムシン)による大竜巻がナザレ派を襲う場面では、イエスの予知はその天文学的な知識によっているとも思える。
しかるに、「人間イエス」の中にはある種の「神的なもの」もまた見出せるのである。それは彼があまりに「純粋」であり、自己を捨てて「他人に関わりきろうとする」(他人のために献身的に働こうとする)、その姿である。
「超越神」は真に絶対者たりえない、真の絶対者は「人間」の内部にあり、同時に全体を包括する存在である。作者はこのように考えたが故に、上記のような「神か人か」の曖昧な立場をとらざるを得なかったと考えるのは深読みであろう。しかしここにも大きな謎が残る。
この謎を解くヒントは、イエスの「愛」とは何なのだろうかと考えることにあるように思う。個人的な愛(例えば、マグダラのマリアへの愛)と普遍的な愛(神への愛、人類愛)は、明らかに異なる性格のものであろう。しかしこの両者を統一しうるものがあるとすれば、それは何だろうか。哲学的な思考がここでの回答を与えても仕方がないが、こういうことを考えさせられる内容を含んでいる。
どんな作品にも書き手の経験が思想として織り込まれている。この作品においても、もちろん作者の人生経験が、イエスを含む登場人物の性格や行為において遺憾なく表出されている。それは調味料(例えば塩)が、料理の中でその原形をとどめず、しかも確実に料理の中に「味」として自己を浸透させ一体となっているのと同じだ。好むと好まざるとに関わらず、思想は作者の「クセ」をなしており、作品に独特の味付けをしている。
これまでおそらく無数に論じられ、書かれたであろう「イエス論」の各々は、その意味で作者自身の自己表明に他ならないとも言える。作家は物語の中に自己を吐露し、出来ごとの全てに自己を重ね合わせ、共に苦悶し、共に考え、共に喜び、共に行為しているのである。
一例を引けば、マルクスの同時代人で、「義人同盟」(後の「共産主義者同盟」)に参画したヴィルヘルム・ヴァイトリング(Wilhelm Weitling)は、スイス亡命時代に『一死刑囚の福音書』という論文を書き、イエスを論じている。ここではイエスはマリアの私生児と看做されているが、これはヴァイトリングが、私生児として生まれた自己をイエスに重ねたものであろう。この論文では、イエスは幼いころからほとんど教育を受けず、父ヨセフの下で大工修行をしていたが、長じて秘密同盟に入る。そしてその教義を学び、同盟活動(教義の啓蒙活動)に邁進する。当時はサドカイ人、パリサイ人(インテリ)などからなる様々なセクトがあり、イエスが属していたエッセネ派は、財産共有という「共産主義」思想を唱えていたというのである。このイエスの経歴は、そっくりそのままヴァイトリング(彼は洋服の仕立て職人だったが)のものである。彼はイエスを徹頭徹尾「人間」として描く(奇蹟は同盟員を「サクラ」に使った宣伝であった、というように)。
翻って小嵐のこの作品を読む時、作者のいかなる経験が思想化されたものと考えうるだろうか。
これをある種の「敗北の文学」と取って、作者自身の挫折経験が基盤になっていると読むのは、あながち間違いとはいえないのではないだろうか。もちろん、イエスの刑死がその敗北を証拠立てていることは疑う余地もない。しかしここではその証左として次の文章を引いておきたい。
「混沌のうねりはどんどん高まる。この、でかいうねりの前で、師のイエスは冷静にいって、しゃーねーのだ、砂漠の砂に杭だ。大砂塵を起こせない。それで、いい…。いつか、いつか、きりりと直立しているのがはっきりする日が…。」(ユダの日誌)
われわれの企てた反乱はまだあまりにも小さなものにすぎなかった。大局に影響を与える前に、簡単に打ち砕かれてしまった。しかもあまりにも多くの犠牲者を出しながら…。
作者の慨嘆が聞こえてきそうだ。
そのことを十分認めた上で、作者は改めて腰を据え直し、「未来に希望はないのか」と問いかける。結論は、「愛」=ヒューマニズムこそが、この闘いを未来に伝え、後継者に託すことのできる希望であるという一点に絞られる。
この結論に至る困難な途は、イエスの刑死、弟子たちの動揺、反省会という名の査問委員会(総括会議)、そしてユダへのリンチ査問、を経てイエス派の再結集(強固な教団化)へと続いていく。ユダの死(自覚してリンチ査問によって殺される)は、イエスの死によるイエス派の否定を再び否定し返すことによって再生させた(「否定の否定」)のだ、というのである。それゆえに、ステファノも苛烈な拷問に耐えて死んだのである。
「イエスさまなき後のナザレ派の絆の張りつめのため、絆がかえって引き締められ、絆が強靭になるため…。だって“裏切り者”がいてこそ“裏切らぬ者”が試され、必死になって強くなり、命を懸けても信仰を守り、ナザレ派は深さを増して膨れていく…。」(シモンの報告)
最後に、この小説において作者はディアスポラ(離散者)を取り上げたが、そうすることによって、意識的に「フクシマ」を問題にしている、またパレスチナ、ユダヤ人問題、あるいは今日世界中至るところで見受けられる格差社会の現実を問題にしていると思われる。その点は大いに注目されてよいであろう。

(小嵐九八郎著 『天のお父っと、なぜに見捨てる』 2013年1月 河出書房新社刊、税込3,675円)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion1169:130212〕