書評:井上理恵編著『木下順二の世界――敗戦日本と向き合って』

編著者井上理恵は「あとがき」に「今回改めて全集を読み返して思いを新たにしたが、木下の主張が余りにも現在のこの国の在りようにピッタリとはまることに驚いた。と同時に、これまで把捉できなかったものが、明らかな相貌を帯びて迫ってきた」と書いている。今、最も再考すべき、強靭な思想的骨格をもった演劇人・言論人として、木下順二が俎上に乗せられた理由は、本書収録の演劇・文学研究者六人(井上理恵、阿部由香子、川上美那子、菊川徳之助、秋葉裕一、斉藤偕子)の諸論文が、それぞれの切り口によってこれを証している。構成と担当は、第一章木下順二の出発(井上)第二章「日本が日本であるために」(「暗い火花」井上、「蛙昇天」阿部、「沖縄」「オットーと呼ばれる日本人」井上、「無限軌道」川上)第三章「過去と未来の結節点としてのドラマ」(「白い夜の宴」菊川、「子午線の祀り」秋葉、「夏・南方のローマンス」「巨匠」斉藤)である。一九三九年一一月、入営前夜に「青春の記念」として一気に書き上げた処女作「風浪」から、一九九一年六月の最後の戯曲「巨匠」まで、代表作を網羅し、〈現実の状況と真向かいに対決する、少なくとも時代状況のなかに身を置いて生きるという実感を内面に保っていなければ〉(「ドラマと歴史」)という姿勢を貫いた木下戯曲のラディカルな精神の息吹を十全に伝えている。編著者井上が本書のほぼ二分の一を執筆している。以下、簡略に各論文を紹介したい。
 井上の「夕鶴」は、一般的理解とは異なる、つうの〈自己犠牲の否定〉の観点を打ち出し、「この国の劇作家のなかで、自己犠牲を選択する女を描かなかった数少ない劇作家」としての木下の新しさを指摘する。「沖縄」「オットーと呼ばれる日本人」は、木下の戦後日本に対する思想の結実した作品として捉えられる。木下は藤島宇内の「沖縄、部落、在日朝鮮人という三つの問題を、日本の近代史における『原罪』である」とする認識に着目する。それら「犯してしまった罪」を「今日から明日へかけての原動力となるように、取り返しのつかないものとして意識する方法はないものか」という木下自身の問いの答えとしてこれらは書かれたという立場から「沖縄」の、秀の最後の場面での飛翔が、また「オットーと呼ばれる日本人の」主人公の〈誠実〉とそれゆえに招来される悲劇が、木下特有の〈ドラマ的人物〉として説得力を以て解読されている。
 阿部由香子「蛙昇天」は、満州での敗戦により一九四九年一〇月まで、カザフ共和国カラガンダで俘虜生活を送り、ロシア語の通訳をしていた菅季治の、帰国後の受難、所謂「徳田要請問題」から想を得、これを池の中の蛙の世界として戯曲化した作品である。阿部は、この設定が、現実に起きた事件そのものにもたらす異化効果を分析し、「同時代の日本人に対して問題を投げかけた部分と」、時代を越えて理解されるための「戯画化」「典型化」を両立させようとした試み、と推測している。また木下の民話化の方法に触れつつ、伝承されている内容、すなわち伝統的な民衆の生活感覚と、現代に生きている個の意識との接合点を見出し、それを普遍化・典型化することが、自然主義的再現性とは一線を画した木下の虚構意識の要諦であったことを考察している。
 川上の、小説「無限軌道」論は、タイトルが示唆するとおり「国鉄」を素材としている。巨大な、しかも加速し続けるシステムとテクノロジーの進展の中に、部分化極小化していく人間に湧出してくる〈意識の流れ〉と、一たび暴走・流出してしまえばもはや制御不可能なメカニズムとの悲劇的な対決のダイナミズムを、労働運動史の知見を活かしつつ分析し、時代を予見する作者の〈先駆性〉を印象付けた。
 菊川徳之助「白い夜の宴」は木下の戯曲に潜流する〈宗教的受動性〉に着目した論考で、父と息子との対峙が「ドラマティックな対決描写のように見えながら」実は対決ではなく息子一郎の「罪意識(原罪意識)へ向かい、オーソドックスなドラマにはいかない」点を、木下戯曲の特質として指摘する。このように「状況に苦悩するが、状況を受け入れる人間を描いてき」た木下演劇は〈宗教的演劇〉の要素を持つ、という結論が導かれ、思いがけぬ方向からのアプローチによって新たな木下順二論の鉱脈を示す。
 秋葉裕一「子午線の祀り」は、木下が日本の演劇史における伝統の断絶を克服しようとした試み、という前提のもとに、この戯曲に込められた、主体の自在な変換(例えば、知盛自身が自分の死について語る、など)、群読、あるいは子午線を通過する月と潮の流れという宇宙的視座を設けるなど、作者の種々の技法及び劇構造を丹念に解説し、平知盛に収斂していく木下平家の魅力を伝える。秋葉は最終的に、死してなお知盛に一層近く寄り添う〈影身の内侍〉の検討を通じて、「沖縄」のヒロイン秀とも通底する、広く民衆に連なる巫女という女性像を析出している。
 斉藤は、B・C級戦犯裁判を扱った「夏・南方のローマンス」と、一九六七年にNHKで放映されたポーランド制作のテレビドラマをモデルとした「巨匠」を取り上げている。敗戦の様々の〈未精算〉が残した日本社会の隅々に浸透しているひずみ、歪み、そしてあたかもそれらに無関係の如き戦後の繁栄という、矛盾した状況の根源を探ろうとして木下はBC級戦犯の問題に辿りつく(「日本人の戦後」)。斉藤の論は、作者の切迫した、戦犯問題に対するラディカルな問題意識に関して踏み込みが足りない、という不満は残るものの、自己破壊への道を自覚しつつもそれを完遂するしかない〈自己否定を内在させた精神〉のドラマという、木下演劇の基本的構造を、古典劇などの知見を動員しつつ丁寧に論述している。
 第二章の、木下のエッセイから取った章題、「日本が日本であるためには」が、「人間が人間であるためには」あるいは「私が私であるためには」という多義性を持った言葉であることを、本書を読了後、改めて思った。

井上理恵編著『木下順二の世界――敗戦日本と向き合って』2014年2月、社会評論社刊

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