コロナ禍に加えて旧友宇波彰の死を知らされた今年の正月は鈍色の度をいっそう強くするものとなった。多くのフランス現代思想の翻訳と自ら開拓し形成していった記号論的哲学をもって現代日本に新たな思想的地平を拓いていった宇波彰はこの1月6日東村山の自宅玄関で転倒し、脳に受けた傷害がもとでそのまま帰らぬ人となってしまった。信じられない死であった。もっとも信じられないのは本人であるかもしれない。その日に投函すべき書簡、すでに切手を貼った手紙が数通も彼の机上に残されていたという。ある人は彼からの手紙を彼の死の知らせとともに受け取り、驚きとともに悲しみを深くしたという。
宇波は配慮の人であった。年とともに数少なくなる大学の同級生の動静を私に伝えてくれるのはいつも彼であった。ここに載せる写真も同級であった詩人であり太平洋戦争末期の米軍捕虜虐殺事件を扱った小説『石の証言』の作者でもあった稲垣瑞雄の出版記念会でのものである。この会を私に教え、後に稲垣の死をも知らせてくれたのは宇波であった。われわれの同級生であった文化人類学の山口昌男の死をも急報してくれたのも宇波であった。彼は常にわれわれを見てくれていた。彼は常に離れたところから私の著書などを気にかけ、その書評を人知れず配慮してくれたりした。私は宇波の配慮に甘え続け、この配慮の本当の意味を彼の死まで知ることはなかった。
1月12日に宇波の告別式が東村山で行われた。その会場で私はどれほど多くの人が彼の自宅で行われていた勉強会への参加を喜び、もうその参加のかなわなくなったことを悲しんでいるかを知った。またこの勉強会だけではない、講座や講演会での質疑応答に彼がいかに熱心であったかをも聞いた。彼は質問者と質問の中身とを忘れることはなかったという。さらに彼はきわめてマメに手紙を書く人であった。ある人は彼を師とした交わりの9年間に約400通の手紙を受け取ったという。私はこれらのことを聞いて驚いた。それは60年来の旧友として知る宇波の像を一変させるような驚きであった。
彼の自宅で毎月行われていた勉強会というのは、「新・記号学講義」という彼の講義にもとづく参加者の自由な語り合いで、宇波はこれを喜び、これを推し進めたという。勉強会というのは研究会ではない。それは学び、知ることを欲した一般の人びとの集う会である。宇波はこの会に話題を提供しながら、参加者が自由に語り合い、それぞれに知を推し進め、拡げていくような会にしていったようである。
私は生き生きとした熱さをも感じさせるこの勉強会がいかにしてあるかを是非とも知りたいと思い、参加者の話を聞き、宇波の著書をも読んだりしていった。宇波の最後の著作となった『ラカン的思考』(作品社、2017)を読んでいって、思わず私は「分かった」と呟いた。なぜ彼の勉強会での講義と話し合いが熱く、魅力的であるのか、その理由をこの本は明かしているように思った。『ラカン的思考』という書は「あなたは存在しない」「心と身体」「かたちが意味を作る」「他者の欲望」「解釈とは何か」「あとから作る」「反復は創造し、破壊する」という記号論的現代哲学の最先端的な主題なり問題提起を各章のタイトルとしている。そしてこの本の著者はこの主題(たとえば「あなたは存在しない」)が成立する由来を語り、これが現代の人と社会を解く上での中心的問題であることと、その解き方をも語っていくのである。私はこれを読んで、この書とは彼の勉強会での講義と語り合いの活字化ではないかと思った。
宇波の勉強会の参加者たちは喜びをもって参加していた。その喜びは、自分たちのいまここでの語り合いが現代哲学の最先端的な問題関心から見られ、論じ直され、普遍的問題として再構成され、そしてその解き方まで考えられていくことからくるものであったであろう。勉強会の参加者のこの体験は喜びであり、興奮であったであろう。同時にそれは宇波自身の喜びでもあったはずである。宇波とは本当の配慮者であった。彼は現代日本のこの日常を生きる人びとへの哲学的な配慮者であった。私たちはこの最高の知的配慮者を失ったのである。
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2021.2.8より許可を得て転載
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