有益だった米信託会社での経験 ― 私的金融史の一コマ ―(完)

 1974年夏、私はメリルリンチの新人研修、現地機関投資家訪問を終えて、United States Trust Company of NewYork(USTrust)で有益な研修に従っていた。そこでは株式暴落時に大手機関投資家がどう対処するかの実態をつぶさに実見した。それを報告したい。

《ダウ工業株30種平均の山と谷》
 回り道になるが、ダウ平均の動きについて少し触れておく。
ダウ平均株価は、経済情報企業が発表する株価指標である。工業株・輸送株・公共株・総合の4種あるが、一般には工業株30種(Dow Jones Industrial Average、DJIA)が用いられる。発足は1884年に遡るが、30銘柄になったのは1920年代で、以降銘柄入れ替えを重ね当初銘柄で残っているものはない。「大恐慌」前の最高値は、29年9月3日の381.17ドル、恐慌期の最安値は32年7月31日の40.56ドルであった。恐慌前高値に戻ったのは1954年で、この回復には25年を要した。それでも日経平均より回復力は強い。

74年夏のニューヨーク市場は、72年の高値からの調整過程にあった。拙稿「メリルリンチへの惜別」(2回)で述べたように、当時の米国株式市場は機関化現象の渦中にあった。60年代には投資信託が短期売買により成果を挙げ、「ゴーゴー・ファンド」(go-go fund)時代と呼ばれた。70年代は投信に加えて、企業年金基金の株式投資が増大し機関化に大きな役割を果たした。その頃、多くの機関投資家の投資哲学は「成長株投資」であった。IBM、ゼロックス、ポラロイドなど少数の「ハイテク系高度成長株」が、驚異的に高い株価収益率(PER)まで買われた。この結果、髙PERと低PERの銘柄が極端に二分されて取引され、「二重市場」(two-tier market)の時代と呼ばれた。市場は髙PER株をhigh-flyersと呼んた。

72年11月に、DJIAは史上初めて、1000ドルの大台を突破した。機関化現象の持続による需給の逼迫が大きな要因だった。72年末の終値は1020.02ドルで、前年末比で14.58%も上昇した。しかし実態経済は、ベトナム戦争の負担増大、金ドル交換停止や輸入課徴金実施(ニクソンショック・71年8月)など、国際金融市場の流動化が始まっていた。71年末の、10カ国蔵相による金価格固定(スミソニアン合意)は73年2月に崩壊し、為替市場は変動相場制に入った。同年10月には第4次中東戦争が勃発し世界的な原油高騰(オイルショック)が起こった。急激なインフレと金融逼迫は株価への逆風となり、73年の年末にダウ平均は850.86ドルで前年末比16.58%の下落となった。74年も株価は続落し、年末終値は616.24ドルで前年比マイナス27.57%となった。

《「これは世界の終わりではない」》
 株式市場の暴落・暴騰の実感は、市場当事者と外部者とで違う。私の実務経験から言うと、ニューヨーク株価が73年から74年に、2年連続二桁の率で下落したのは、内外のプロ投資家にも相当なショックだった。
現に「The Wall Street Journal」や「The NewYork Times」(経済欄)には、「これ(株価下落)はこの世の終わりではない」(This is Not the End of the World)という全頁広告が載った。暴落に慌てるなというその警告広告のスポンサーはメリルリンチ証券であった。私はその切り抜きを役員部長会への帰国報告で回覧したのを記憶している。

米国大手銀行の信託財産は、企業年金の運用業務を受託して急膨張をしていた。
金融業界紙による75年末の銀行信託部の信託財産残高ランキング上位5位は次の通りである。

1 J.P.Morgan
2 First National City Bank
3 Bankers Trust
4 Chase Manhattan
5 United States Trust

信託財産価額を、当時の相場1ドル300円で換算すると、1位のJ.P.Morganが174億ドル=約6.2兆円、5位のUSTrustの87億ドル=約2.6兆円となる。
上位4位までは商業銀行業務でもベストテン上位に入るメガバンクである。信託第5位のUSTrustは個人富裕層を顧客とする信託専業業者であったため預金残は少なく200位である。

《有益な研修とはパニックへの共感》
 私が「USTrustで、内容のある研修に従っていた」と書いたの次の理由による。
一つ 巨大な米国同業者での実践的な研修ができたことである。
信託というが米国では運用対象は株式中心が常識である。日本では「貸付信託」(現在は存在せず)などの商品は、法的には信託であるが、実体は5年満期の定期預金のようなものであった。
私は、USTrustで一人のファンドマネジャー(運用担当者)の下で、彼の一挙一動を観察した。顧客名を特定できない範囲で、個別ポートフォリオ(運用資産一覧)の内容、顧客別運用の手法、運用成果の実態を知ることができた。OJT(オンザジョッブトレーニング)の利点を享受したのである。ファンドマネジャー、エコノミスト、アナリストが一同に会する運用委員会も傍聴した。市場分析、運用方針、個別銘柄評価が行われるさまを見ることができた。高校野球しか知らぬ少年が大リーグを観たようなものである。

二つ パニックをとくと見ることができたからである。
74年は「この世の終わり」に似た株式下落が続いたから、「大リーグ」でも顧客のポートフォリオは無傷であり得なかった。二重市場の崩壊で、資産価値は減少した。投信の短期売買運用と異なり、「厳選した成長株」を長期持続する信託型の投資方針(buy&hold policy)が失敗したのである。運用会議では、そういう投資方針への疑問や反発の声が挙がった。次いで、運用方針の転換を唱える声が挙がった。「厳選した成長株」重視を捨てて、それまで軽視していた、鉄鋼や化学のような低位株を再認識すべきではないか。これらのPERは一桁に留まっていたものが多い。成長株のPERは数十倍まで買われていた。このアンバランスに対する見直しの要求である。顧客へ現状と対処策をどう説明するかも当然、深刻な論点となった。

三つ 「魔法の杖がない」と知ったことである。
運用会議での議論は、いくらか誇張して言えば、パニックの空気のなかで口論に近いものとして行われた。それは私に強烈な印象を与えた。私は加虐でも被虐でもない普通の心情から彼らに共感した。ウォール街のエリートも市場の急落に茫然自失となるのだ。何度かそういう経験をもった私は救われた気がしたのである。相場に対峙するとき「魔法の杖」は誰にもないのである。その認識は私にある種の勇気を与えた。それは当然のことと言われるかも知れない。しかし人間には経験が必要なのである。

《メリルリンチ・USTrust・テレビ観戦と私的金融史》
 私のニューヨーク研修で学んだものを箇条書きするとこんなことになろうか。
第一 市場の脆弱性が出現するとウォール街のエリートもパニックに陥る
第二 米国では信託も銀行も市場リスクを前提とした業務を遂行している
第三 日本の護送船団行政では当局・業者とも上記二点への認識がない
第四 金融の国際化は日本の高度成長と共に予想以上の速さで進行する
第五 将来、日本が国際市場で主役となるにはヒトとインフラがほぼ不在である

米国が日本金融市場の開放を迫る「日米・円ドル委員会」設置が1983年秋、日米交渉が開始されたのが84年春であった。それまでの10年にインフラとヒトの整備は進まず、この国の金融市場はバブルへの坂道にさしかかっていたのであった。
メリルリンチに始まりUSTrustに終わる私的金融史の一コマはこれで終わりである。

米大リーグ中継のTV画面で、ダッグアウトの屋根ワクにUSTrustの看板が写ることがある。この信託会社は、幾多の変遷を経たのち、メリルリンチがそうであるように、いまはBank of Americaの子会社になった。まどろみながらTVを見てこれらの固有名詞を私は回想した。
「私的金融史の一コマ」という3編は、しかし、ノスタルジックな回想ではない。資本主義の金融化は世界大の規模で驀進した。今もしている。その一瞬を等身大の視線で書くのも意味があろう。そう思って書いたのである。(2019/03/29)

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

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