昨日(3月1日)、石川逸子さんをご自宅に訪ねた。石川さんは知られた詩人であるが、花鳥風月や雪月花を詠む人ではない。被爆者・戦争犠牲者・日本軍「慰安婦」・徴用工など、常に虐げられた人・苦しい境遇の人、そしてひっそりと忘れられた人々に思いを寄せての詩作をされる。3月1日にお目にかかるに、まことにふさわしい方。そのインタビュー記事は、間もなく「法と民主主義」に掲載となる。
石川さんから、「最近はこんなとをしています」と、小冊子をいただいた。「風のたより」と題する不定期刊行物で第16号とある。32頁の縦書きパンフだが、帰宅後に目を通してその内容の充実ぶりに驚いた。
南京事件の証言、台湾人「慰安婦」の証言、中国人強制連行事件、朝鮮人強制連行犠牲者への追悼。戦場の父からの手紙、翁長知事への追悼・日米地位協定、三井三池炭坑炭塵爆発事故、フクシマの事故、核兵器禁止条約…。書き下ろしと、詩と証言と手紙と運動体の通信からの転載など、いずれも読むに値するものばかり。石川さんのところに、読むに値するものが集まってくるのだ。
なかで、興味を引く一文を紹介させていただく。関東大震災後の朝鮮人虐殺事例は数多く報告されているが、このようなかたちで虐殺から救った日本人がいたことは知らなかった。特筆に値する事例だと思う。
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大きな愛
関東大震災時朝鮮人虐殺に抗して
京都在住の詩人、片桐ユズル氏から、お手紙をいただいた。
お手紙によると、日中戦争がはじまる前は、大人が集まると話題は関東大震災のことだったという。そのとき、幼いユズル少年がチラと耳にはさんだのは、白分のひいばあちゃん、片桐けいが、朝鮮人を肋けて警視庁から表彰されたとのこと。それ以上、知らないままでいたところ、当時18歳だった父、片桐大一氏が、そのことをのちに英文で記していたのである。
そして、大一氏(享年90)の葬儀のとき、ユズル氏の弟、中尾ハジメ氏が日本語訳し、コピーして会葬者に配ったのだという。
以下、その文章を載せさせていただく。
25万5000の家屋を倒壊させ、さらに44万7000棟を焼失させた関東大震災で、首都東京は平地と化してしまった。一週間ほどで私たちは、めちゃめちゃにひっくり返ってしまったものをもう一度たてなおそうと、気を取りなおし始めていた。私たちのつぶれかけた家は、引きたおし、建てなおさねばならなかった。その日の午後、荻窪駅の近くで建築業者と材木商との打ちあわせを終えて、私は家へ帰るところだった。
未曾有の破壊は東京周辺のいくつかの地域でどうにも手のつけがたい無秩序をもたらしていた。大異変が人びとの理性の平衡を失わせたのだ。最も野蛮な不法行為まで起こっていた。
もっともらしく歪められ拡大された恐ろしい噂が、またたくまに、広く走り、朝鮮人たちが反乱を企んでいる、あちこちの井戸に毒を役げこんだ、そして何人かはその場で捕えられ殺されたというのだ。家にむかいつつあった私は、近所の大地主の一人飯田さんの畑で一人を斬首刑にすると、通りがかりの人たちが話しているのを耳にした。好奇心で私はその私刑の場へと急いだ。
数分で私はそこにいた。たくさんの人が集まっている。異常に張りつめた空気を感じとることができる。たぶん何も悪いことをしていない一人の朝鮮人に行われようとしている非法な斬首刑をはっきり見ようと、私は厚い人垣をかきわけて、最前列にまで無理やり進んだ。この男が捕らわれたのは、ただ彼が朝鮮人だったからだ。
この白昼、これほど多くの目撃者のまえで一人の人間が殺されるのを見る。なんという衝撃か。どうして、これほど多くの者がこの光景を傍観できるのか。法治社会でこんな刑罰が許されるのか。
犠牲者は地面にはだしで坐らされている。若く見える。が、私には、その背中しか見えない。彼は動かず、じっと静かにしている。逃げることは不可能だ。逃げようとはしていない。運命をあきらめているのか。取りかこんで立つ男たちの手にする、にぶく光る刀が触れる瞬間、血がほとばしるのを知っているのか。やがて永遠の瞬間がきて、刀がひらめき、無抵抗の肉と骨に落ちていくのを知っているのか。私の心臓は、のどにまで上がり、息がつまる。周りのだれも動かなかった。この逃れがたい死の場面はいつ終わるのか。何という瞬間だ!
反対がわに立っている群集のなかにざわめきがあがった。何だろう。厚い人垣をかきかけて一人の女が出てきて、自警団の輪のまんなかに身を投げだした。大地に自分をたたきつけるようにして、その朝鮮人のまぢかに、その背中によりかからんばかりに坐った。
何と! なぜ! どうして! この新た闖入者は私白身の祖母に他ならなかった。私のおばあちゃん、年老いてひ弱な。おばあちゃんは、何をしようというのか。
「さあ、まず私を殺しなさい。先にこの老いぼれた私を殺しなさい。この罪もない若者を殺すまえに、私を殺しなさい。」わめいたのではなかったがその声はみんなに聞こえた。だれもしゃべらず、だれも動かなかった。おばあちゃんは同じ言葉を数回くりかえし、くりかえすごとに、ますます毅然と決意が見えてきた。あの威厳はどこからくるのか。
ほっとしたことに、この危機的な瞬間は長くはつづかなかった。引き抜かれた刀は、血を流すことなく元の鞘に収められた。死刑執行者たちは、この二人の坐ったままの老人と若者に背をむけると、一人また一人と去っていった。何という変わりようだ、ほんのわずかの間にこんなに従順でおとなしくなってしまうとは。ほっとした様子を見せたものさえいたし、負け犬のように立ち去ったものもいた。
群集は去り、私はおばあちゃんを連れて家に帰った、というか、おばあちゃんが帰ろうといったのだろうか? 彼女は、もはや決意も威厳も見えず、普通の年寄りになっていて、私のわきをとぼとぼと歩くのだった。
その若い朝鮮人は、後で大工だということがわかった。私たちの近所を回り修理仕事をしていたのだ。彼の名はダル・ホヨンで、日本名をサカイといった。
何日も何週間もたち、私たちはあの事件には何も触れずにいた。というのも、あの恐ろしい私刑の場面を思い出すのが怖かったからだ。何か月かたって、おばあちゃんは警視庁に出頭せよといわれた。彼女はそこで人命救助により「警視総監賞」を受けた。
友のために自分の命をあたえるばど人きな愛はない。…それにしても、なんと大きな勇気をもち、断固として、非道な行為に、武器をかざした一団に立ち向かわれたことであろうか。(以下略)
(2019年3月2日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2019.3.2より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=12176
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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