木下『巨匠』の中に加藤周一の劇・映画論をみる

加藤周一に関する文章が増えてきているという(1)。しかし増えてきたとしても小生はほとんどお目にかかったことがない。その意味で脇野町善造氏および当サイトちきゅう座に感謝申し上げたい。

さて本題にもどれば,加藤は「『巨匠』再見――劇場の内外」で劇団「民芸」による『巨匠』を2度見て「十数年前とはいくらか違う感慨をもった」と書いている(2)。したがって脇野町氏のご指摘は正しいのだが,「博覧強記の加藤」というほどではないだろう。

『巨匠』という言葉を目にするたびに小生はいくつかの作品を思い出す。例えば『名優たちの思い出』(3)。ビルマで日本軍の捕虜となった英軍将校の話で,彼の心の葛藤を加藤は「忠誠心と自尊心は,そこで激しく対立する」とまとめている。これは脇野町氏の指摘される「自分自身の存在証明」であろう。

木下順二先生は英文学に造詣が深いことは言うまでもないが,シェ-クスピアの“To be or not to be. It is a question”の日本語訳「このままでいいのか,悪いのか。それが問題である」(小島訳。中野訳でも坪内訳でもない)が念頭にあったに違いない。『巨匠』は,簿記係であれ,名優アレックス・ギネス演じるところの英軍将校であれ,心の葛藤が単なる個人の問題ばかりでなくて社会の重要な問題をも扱っている点で優れた作品といわざるを得ないだろう。

映画論でも同じである。『二つの映画――バルカン半島から』(『夕陽妄語』(4))でも心の葛藤を描いている。

・・・「亡命の問題をつきつけてくる状況というものがある。国外へ(あるいは国内で)亡命しなければ,原則に従って生きることができない。しかし亡命すれば,社会との持続的な関係は失われ,その社会に戻ることは困難になる。原則の持続に固執するか,生活の持続を採って原則を捨てるのか。・・・・・」

ゆえに木下『巨匠』や脇野町「自分自身の存在証明」は洋の東西を問わず,人間の極限状態における普遍的な問題を扱っているといえよう。

 

(1)加藤周一を記憶する 成田龍一 講談社現代新書 2015年4月

(2)夕陽妄語『Ⅷ』 加藤周一 朝日新聞

(3)『Ⅵ』     加藤周一 朝日新聞

(4)『Ⅰ』     加藤周一 朝日新聞