木村荘八の素描画と「歌妓支度」

 さいたま市のうらわ美術館で、4月20日から6月23日まで、「素描礼讃 岸田劉生と木村荘八」という展覧会が開催されている。借りていた本を返却するために、さいたま市立中央図書館へ行った帰り道、この展覧会を覗いてみた。見ようと思ったのは岸田劉生の絵よりも木村荘八の絵だった。木村の絵は6年前に東京ステーションギャラリーで生誕120周年記念展があったときに見に行ったのだが、連れもいてゆっくりと鑑賞することができなかった。そのこともあり、この展覧会を覗いてみることにしたのである。

 入口を入るとすぐ右側に木村が素描画について書いた文のパネルが架けてあった。その最後の段落には、「思ふに「素描」は基づくところのものゝ認識如何であって、決して線を引張る方法ではない。認識次第で如何様にも引張れるものが線。その働きが(すなわ)ち素描 (…)」という言葉があった。それは木村の素描に対する考え方を端的に表した言葉であった。パネルの向かい側の壁に架けられた最初の絵。その絵は岸田が木村を描いた鉛筆画であった。岸田と木村は10代から友人であった。1917年作とあるので、木村が24歳のときの絵である。そこに描かれている横顔はエキゾティックな南欧の美青年のようで、独特の魅力があった。だが、この絵と展覧会に飾られている木村の絵とを結びつけて考えることは容易なことではなかった。ハイカラな知的青年と大正、昭和初期の東京の日常風景が描かれた絵との関係は連続的に捉えようと思っても、連続性はどこかで断絶している。そう私には思えたのだ。
 私が木村荘八の素描画と「歌妓支度」について書こうと思ったのは、この断絶性が気になったためである。確かにここに飾られている岸田劉生の絵も興味深いものである。掛け軸に描かれた墨絵、娘の麗子の何枚ものデッサンと水彩画などは初めて見るもので、岸田の多角的な創作世界を考察するための大きな資料となるものであった。しかし私は今述べたように、木村の絵と木村自身がモデルとなった絵との関係性に対して抱いた違和感は何かということをどうしても突き詰めたかったのである。それゆえここでは「木村荘八という画家」、「木村の素描画と東京」、「鏡の中の世界:「歌妓支度」について」という三つの点からの検討を行い、木村荘八の絵画空間の広がりという問題を探究していきたいと思う。

木村荘八という画家
 木村荘八は1893年東京日本橋で生まれた。父は当時一世を風靡した牛鍋屋「いろは」の経営者で、政治家でもあった荘平。荘八は十三男十七女の兄弟の八男であった (母親の違う兄弟が何人もいたことも注記しておく)。兄弟には芸術家が少なくない。姉の曙と兄の荘太、弟の荘十は作家で、弟の荘十二は映画監督だった。荘八は荘太が島崎藤村、正宗白鳥、永井荷風、谷崎潤一郎、武者小路実篤、志賀直哉といった大正期の多くの作家や、大杉栄や辻潤といった思想家などとも親交があるという環境の下で育ったため、最初は作家志望であった。だが、次第に画家を目指すようになる。1911年旧制中学を卒業後、白馬会葵橋洋画研究所に入学、そこで二歳年上の岸田劉生や八歳年上の萬鉄五郎と知り合う。1912年に岸田らと共にヒュウザン会を、1915年にやはり岸田らと草土社を設立し、大正期の日本美術界に新風を吹き入れた。1918年、「二本潅木」で、高山樗牛賞を受賞。油絵の制作だけではなく多くの素描画を描き、その中でも永井荷風の『濹東綺譚』、徳田秋声の『爛』、樋口一葉の『にごりえ』などの挿絵は高く評価された。また、数多くの翻訳書や随筆、美術評論も書いている。
 少年期青年期前半における荘太の影響と白馬研究所入学以降の岸田劉生に受けた影響は木村荘八の人生を考える上で重要な問題である。画家・美術教育家の倉田三郎の『木村荘八:人と芸術』(以下倉田の言葉はこの本からの引用である)には、荘八は父親も母親も同じであった荘太と兄弟の中で一番親密であったと書かれている。その兄の友人の文士たちは、父の後を継いだ異母兄弟の荘蔵の経営する牛鍋屋「いろは」でしばしば会合や宴会を開き、そこに荘八も参加し、文士たちの議論や歓談を聞き、多くの刺激を受けた。さらに荘太が話す芸術論に荘八は強く惹かれていった。私が知る限り、荘八が作家志望から何故画家志望に変わったかという問題に対する明確な答えが示されている著作はない。だが、倉田は「高村光太郎との交渉を見守れば、自分も絵や彫刻ができ、これに関する見識を持たなければなるまいと覚悟する (…)」と述べ、暗に高村光太郎の影響があったことが記されている。
 木村荘八が画家として最も大きな影響を受けたのはやはり岸田劉生であろう。二人の交友は白馬会洋画研究所時代から岸田が死去する1929年まで続くが、二人は知り合ってからずっと友でありライバルであった。それだけではなく、二人の家庭環境は酷似していた。前述したように荘八の父は実業家で、多くの子供を持ったが、劉生の父である吟香も東京の銀座にあった薬屋「楽善堂」を経営する実業家であり、14人の子供がいた。劉生はその中の四男だった。もちろん荘平の子供の母親が様々であったのに対して、吟香の子供たちは皆同じ母親の勝子から生まれたという違いはある。だがいずれにせよ、二人は東京で生まれ東京で育ち、金持ちの息子で、多くの兄弟がおり、絵画に対する激しい情熱を持った青年だったという大きな共通点があった。その二人が白馬会洋画研究所で出会ったことは彼らにとって運命的なものであった。彼らは他の友人たちと一緒に前記したヒュウザン会や草土社、さらには1922年に南陽会を設立し、大正、昭和初期の日本絵画界をリードしていった。1946年に発刊された『美術7・8号』の中の「草土社―岸田劉生について―」において荘八は劉生を「絵画の鬼である」と評しているが、この絵の鬼と共にいることで荘八の絵は確実に磨かれていった。劉生は膨大な数の絵を描いたが、それに対抗するかのように荘八も数え切れないほどの絵を描いた。
 木村の絵のモチーフ及びテーマとなったものの中で最も中心的なモチーフ及びテーマが、江戸・明治の香りが漂う東京の風景と人物である。翻訳作業によって木村は早くから未来派やキュービズムといった当時の最先端美術を知っていたが、その芸術の価値を認めてはいなかった。画風として青年期にフォービズムに傾倒し、その影響が終生僅かではあるが残る。しかし、長谷川利光のようにオブジェが激しい線の連打によって大きくデフォルメされた作品を好まず、リアリズム的な描写の中にも厚塗りで、庶民生活の一瞬を切り取ったようであり、構図としては遠近法に必ずしも忠実ではなく、絵のオブジェの様相がくっきりと浮かび上がっている作品を多数制作していった。こうした技法は江戸的な東京の風俗を描くために用いられたが、それは油彩画だけでなく、小説などの挿絵に使われた素描画においても同様に用いられた。次のセクションではこの素描画という問題に焦点を当てて考察していこうと思う。
木村の素描画と東京
評論家の川本三郎は今回私が見た展覧会の図録の中で、木村荘八は「ノスタルジーの画家である」と述べているが、そのノスタルジーの対象となるものは上記したように江戸的なものが残る明治・大正期の東京の風景である。東京で生まれ東京で育った木村は東京以外の場所に住んだことはなく、旅行することも殆どなかった。倉田は「日本内地は水戸以北を知らず、南は四国に行ったのが最遠」と、また、「荘八の生涯の中で、旅行らしい旅行と言えば大正九年六月から十一月にかけての、朝鮮・満州・支那へのそれである」と書いている。木村の人生は東京で始まり、東京と共にあり、東京で終わったと語ることができるほど、東京と密着したものだったのである。
木村が『東京繁昌記』の中でも語っているように江戸及び東京は水と関係の深い都市である。荒川や多摩川といった大きな川や、隅田川、神田川といったよく知られた川だけではなく、秋川、綾瀬川、入船川、恩田川、弦巻川といった多くの川が東京には流れている。また、東京の南は東京湾に面しており、湿地帯も多かった。それゆえ、東京は江戸の昔から水の街であり、『東京繁昌記』にある、「海や川や沼沢地を埋めて次第に土地の出来て行く・土地をて行く経路。従ってそこに人の住む姿は、それが「東京」の今日ある様相であり――今後とてもそうだろう――東京の運命が元来そういうものだといえそうだ (…)」という指摘は木村のこの都市に対する的確な観察力を示す発言である。流動体としての水に囲まれ、その流れの上に築かれた都市。水の上に建設された都市は、水の流動性を抱き続けるゆえに絶えず変化していく運命を背負っているかのようである。
木村は動き続け、変わり続ける東京を描き続けたが、それらの絵の中には核となる原風景としての明治・大正期の江戸の香りを残す街と風俗があった。奥野建男は東京生まれの三島由紀夫の原風景の貧しさについて、「三島由紀夫は (…)閉鎖された家の中の孤独な“隅っこ„ にしか“原風景„ がない。つまり“原っぱ„ ほどの具体的な“原風景„ も許されない自己形成空間で幼少期を過ごした。そこにはもちろん農村的、弥生的、さらには歌枕的風景の実感もない。いや何の“原風景„ もない。風景の実感もない。実際の知識もない」と、さらには、「彼は日本の伝統美を天皇、そして武士道の風景だけにとどめてしまった」と書いている。三島は東京にずっと住み続けながらも、空虚で、全てが蜃気楼のようなものとしての東京しか見つめていなかった。三島にとってのノスタルジーと美の対象は太古の天皇、いや正確に言うならば、観念としての天皇と、それに付き従う侍の世界にしか過ぎなかった。それゆえ、三島のイメージの中には、生きている東京は存在してはいなかった。三島とは異なり、木村はバリエーションに富み、実際に人々がそこに住み活動している東京の原風景をしっかりとした眼差しで見つめ、それを愛おしいと思い、その風景が価値あるものであると考え、東京を描き続けた。観念の世界ではなく、自分が生きて、見てきた世界。今、生きている、見つめている世界。そして、これからも生き、見つめるであろう世界。そうしたものこそが、木村の絵の根本的なオブジェであり、彼の絵画世界の中心であった。そしてその世界において描かれるべき対象、それがまさに東京だったのである。
今回の展覧会で展示されていた多くの素描画の中で、鉛筆で書かれた「佃島より明石町を見る」、「月島 勝どき」、「寄席 二階席から」、インクで描かれた「明治末三越」、「入営の見送り」、「コマ劇場 新派道成寺」、また、墨とインクで描かれた「神田川 浅草橋と左衛門橋の間」、「日本橋釘屋」、「ストリッパー Yエミ」などの作品は皆、明治期後期から昭和初期までの東京の日常的風景の描写である。それが木村にとっての原風景であり、それらは流動する水の街・江戸の面影を残した東京を彼は生涯愛し続け、描き続けたことが明確に示されている絵である。その一枚一枚に木村にとっての見出された時の風景が刻まれている。それは過去の東京の姿でありながらも、未来に託されたものでもあった。かつてそこにあった、これからもそうであって欲しい東京。それが素描画の中で、油絵の中に残され、過去の時が再び見出されるのである。それは豊穣なる時の風景。流れゆく水の街を流れゆく時の中で写し取った東京の時間の物語である。木村はマルセル・プルーストとは別な形で失われた時を求め続けた画家だった。
鏡の世界:「歌妓支度」について
今回の展覧会が素描画をテーマにしているゆえに展示されたものの中で木村の油絵は数点しかなかった。そのために、かえってそうした油絵に目がいってしまったが、とくに「歌妓支度」に目がいった。展示されていた油絵の内で大正期の東京性が最もよく描写されている作品だったからである。だが、この絵を見て、私はすぐに、「画面の切り取り方に違和感があるは何故か?」、「障子や畳といったこの絵の構成上余計とも思える空間的対象がどうして描かれているのか?」、「どうして二人の登場人物は何故後ろ姿なのか?」、「鏡の中に鏡を見つめる主体の帯の一部しか映っていない理由はあるのか?」といった疑問が連続的に浮かんできた。その中でもとくに鏡の問題が気になった。
「歌妓支度」は江戸情緒の残る東京下町の一場面。お座敷に上がる前の、江戸期から何百回、何千回も繰り返されてきた花街の日常的場面が写し取られた作品であるが、この絵を見ると二人の顔が描かれていない点に先ず目がいくのではないだろうか。お座敷用の着物に着替えようとしている歌妓の立位とそれを手伝う女 (彼女も歌妓だろうか?)の座位がコントラストをなしているが、二人の後ろ姿は妖艶という印象を見手に抱かせるものではない。花街の日常の色彩を色濃く帯びているが、それは毎日続く仕事の臭いを感じさせるものである。そこにエロティックさがないのは当然であろう。日々の色。生活空間のかっちりとした風景が描き出されているからだ。だが二人が後ろ姿であるために、日常性に異空間性が接合されたような不思議な空間が醸し出されている。この不思議な様相は、空間的な配置と僅かにデフォルメされた遠近法によって強調されている。倉田は木村の絵の特徴を「エクィヴァランス」という言葉で要約している。確かに木村の絵の大きな特徴の一つは絵画的整合性にあるとも言えるかもしれない。木村の他の油絵と同様に「歌妓支度」においても空間的分割には歪さがある。だが、その歪さが厚塗りされた絵の色彩的対比とマッチしながら独特の江戸的東京の一場面を巧みに表現しているのだ。
 このように考えていけば、先ほど挙げた疑問点が一つずつ解決されていくが、鏡の問題だけは解決することが容易ではない。鏡に映っているものが鏡を見ている人の後ろにある部屋の風景と帯の一部分であり、この鏡を覗いているはずの顔は描かれていないからだ。もしもそこに二人の、あるいは、この絵のテーマとなっている歌妓の顔が映されていたならば、それが彼女あるいは彼女たちのアルテル・エゴとなり、それこそが彼女あるいは彼女たちの主体のマーカーとなり得たであろう。そのマーカーがこの絵には欠如している。描かれた二人の主体性は謎あるいは秘密にされているのだ。さらに、画家の位置という問題も気にかかる。この絵のオブジェである二人の女を見つめる画家の視線を想定するとき、絵の中の二人が後ろ姿であるために画家の姿を直接捉えることはできないだけでなく、鏡が映している部屋の角度から判断しても画家の姿を二人が捉えることはできないことも了解される。それゆえ、画家は二人を見つめ得る位置にいるが、二人は画家を見つめることが不可能な位置にいるのだ。これは覗き見の位置に画家がいることを示している。歴史学者のサビーヌ・メルシオール=ボネは『鏡の文化史』の中で「自己への視線は他者の視線の確認である」 (竹中のぞみ訳)と語っているが、絵の中の二人はこうした他者の視線によって自らの姿を見つめることで自らのアイデンティティを確認する日常的で、社会的な所作を行っているが、画家の視線は二人にとっては超越的なものであるのだ。この差異は木村が描く江戸的東京の描写において大きな役割を果たしているように私には思われるのである。だが、この問題は極めて複雑なものであるゆえに、結論部分で改めて検討することとする。
 前述したように木村荘八は東京で生まれ、東京に住み続け、東京で死んだ。木村の人生は東京そのものであると言うことができるが、彼の原風景は東京の中でも明治の終りの江戸的情緒を残す日本橋界隈であった。木村の描く東京下町の素描画はまさに彼の原風景の描写とも言ってよいものであるが、それだけならば上記した川本の言葉にあるように、木村は「ノスタルジーの画家」に過ぎなかったであろう。だがそれだけではない。前のセクションで行った「歌妓支度」の分析を考慮に入れれば、木村の東京の風物を見つめる眼差しは単なる懐古的なものではないことがはっきりと理解できる。
 鏡の問題をもう一度詳しく検討する前に、ここで後ろ姿という問題について検討してみたい。何故ならば「歌妓支度」だけではなく、木村が後ろ姿の人物を描くことが少なくないからである。今回の展覧会においても、後ろ姿がクローズアップされていたり、後ろ姿の人物が多数描かれた素描画として、「佃島より明石町を見る」、「寄席 客席」、「寄席 二階席から」、「若松亭」、「火元に向かう」などが展示されていた。主体性の中心的マーカーである顔の表情を示す必要のない後ろ姿を描くことによって、木村は絵の対象である人物の眼差しと画家の眼差しとがぶつかる主体間の対峙関係が想定される構図を避けているように私には思われる。顔の表情が示されている絵は、その人物の主体性がクローズアップされ、その人物がそこに内在している世界の時代性や空間性を二義的なものにしてしまう可能性が高いものである。木村は風景として、ある時代のある出来事の構成要因の一つとして人物を描いているように私には思えるのだ。それはフェルディナン・ド・ソシュールの言語学概念であるラングとパロールとの関係性を想起させるものである。個人の主体性のマークを帯びたパロールに基づきある言語のある語を観察することを通して、その言語のラング内にある構成要素としてのその語の機能を浮かび上がらせるというソシュールの言語学的アプローチは、対象へのアプローチという側面から見て、木村の描写態度と近接したものであると述べ得る。こうした描写態度は後ろ姿の人物が描かれた多数の素描画から浮かび上がらせることができるだけでなく、そうした絵は木村の素描画へのアプローチを解明するキーになっているようにも思われるのである。
 「歌妓支度」の鏡についての考察に戻ろう。木村にとっての問題は観察者としてオブジェを超越的な視点から見つめ、東京を記録すること。それは現実の忠実な描写ではなく、彼自身にとっての原風景としての東京でなければならなかった。それゆえ、「歌妓支度」に描かれた鏡には二人の登場人物の顔は映っておらず、観察者である画家の姿も映っていないことによって、この絵の絵画空間はモデルである二人の女性の主体的空間から乖離し、東京性一般と重なっていくのではないだろうか。描かれた鏡という装置は一枚の絵の持つ時間的な広がりと空間的な広がりを超えて、過去、現在、未来という区分から、ここ、そこ、あそこという区分からこの絵を解放し、私というものの前にある世界と後ろにある世界をアマルガムさせる働きを担ったものではないだろうか。それゆえそこにある情景は単なる現実の描写ではなく、木村の抱く典型的な原風景を出現させているものである。美術史家のダニエル・アラスは『なにも見ていない:名画をめぐる六つの冒険』の中で、ディエゴ・ベラスケスの「ラス・メニーナス」を分析しながら、そこに描かれている鏡の効果が見手に尽きせぬ問いを投げかける新たな意味を生み出し続けている点を指摘しながら、「ここでは、画家と注文主が思い描いたこととは無関係に、そんなものを超越して、このタブローが、画家や注文主の死後ずっとあとも、視覚的な意味を生成していくかのように、すべてが運ばれていく。それこそが、おそらくは傑作というものなんだ」(宮下志朗訳)と書いているが、「歌妓支度」も同様に、その描写方法によって、さらには、その描写されているオブジェによって、見手の新たな意味生成構築を停止させず、イメージ空間を広げる絵画的なダイナミズムを内包していると述べることができるのではないだろうか。
 プルーストは『失われた時を求めて』の「スワン家のほうへ」の最後で、「(…)ある一つの映像の回想とは、ある一つの瞬間への哀惜でしかない。そして、家々も、道路も、大通も、逃げさっていくのだ、ああ!年月とおなじように」(井上究一郎訳)と語っている。時の移り変わりがわれわれに現前されるのは情景の移り変わりによってである。われわれは過去を記憶の中でしか、生きることができない。しかしながら、過ぎ去ったあるシーンの記憶はわれわれの存在の核としてわれわれの中で生き続けることができる。木村荘八は彼にとってのかけがえのない風景を絵画として残した。それが彼の原風景としての東京であった。『東京繁昌記』の中で木村は「何によらずものは正面から見ただけではわからないものである」と述べているが、この言葉にあるように、彼は東京の風俗を一面的な視点からではなく、異なる多くの視点から見つめ描いていった画家であった。そこには時間的な変化を一瞬のショットによって捉えようとする視点があっただけではなく、空間的にもある対象を様々な角度から捉えようとする視点も存在した。私の前に存在するオブジェは今、そこで一つの面からしか私に捉えられないものであるが、そのオブジェは時間の流れを超え、様々な角度から眺め得る可能性を持った存在でもある。

「歌妓支度」のような絵画は偏在的空間へと向かおうとする意識の旅の扉を開いてくれる作品である。世界はここにありながら、そこにもある。今回の展覧会の図録にある「歌妓支度」を見つめながら私はそう考えた。そして、もう一度この図録を最初からじっくりと見つめなおそうと思い、ゆっくりとページをめくっていった。絵画の持つイメージ空間の開在性を一つずつ確実に味わうために。

初出:宇波彰現代哲学研究所のブログから許可を得て転載

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔culture0803:190603]