はじめに
1895年の日清戦争が終わってから、中国人留学生への数は急速に増大していった。清朝が積極的に西洋文化を取り入れるために動き出したからである。その動きは1905年の日露戦争のころには年間一万人を超えたと言われている。
学生の街でもあったお茶の水から神保町にかけてや高田馬場周辺や京大の付近では、学生帽のてっぺんが異常に盛り上がった姿が5人に一人は見かけたという。辮髪をまるめてその上に帽子をかぶるために出来上がったスタイルである。「富士山帽」ともよばれていた。
こうした、中国人留学生の精神的な苦痛はいかばかりだったであろう。
漢民族が辮髪を侵略者である満州族に強要されるのは、200年以上前のことに属するが、拒否して殺されたのは数十万に及ぶとされている。しかし、この1905年の時点でも帰国して公職に就こうと思えば辮髪を落とすわけにはいかない。帽子を脱いで路地にでも入ろうとすれば、日本人の悪がきが「チャン、チャン坊主」などと、騒ぎ立てる。
しかしながら、日露戦争が始まるころから、次第に、富士山帽の姿は、街角から減ってはきたが、それは、留学生の数の減少を意味するものではない。辮髪を切る学生の数が日に日に増え続けてきたからである。すべてとは言えないが、そうした中に辛亥革命で活躍する極めて多くの革命家たちの姿も混じっていた。
こうした日清、日露戦争前後の日本の街の風景から書き始めたのは、「アジア主義」なるものの国際性を強調したいためだ。ここで生み出された思想が中国に戻り「辛亥革命」から「新民主主義革命」となり、片や、日本では、頭山満や内田良平らの「侵略主義的傾向」を内在させた方向とは分岐して、ある種の日本的なアジア主義的革命運動となっているからだ。
したがって、本稿は、他方では、現在の中国の権威主義的方向の根底にあるものを詳らかすると同時に、戦後75年間にわたる日本の対米従属に由来する「嫌韓、嫌中」ムードをの根底にあるものを暴き出すことが最終的課題とならざるを得ない。しかし、それは、私の如きものが、一人で為し得ることではないだろう。ここで扱うのは、日本の農本主義的「ファッシスト」として烙印を押されている権藤成卿という男の「アジア主義」の内実を描き出すことによって、その課題の一部を紹介することに限定される。
1、康有為における伝統と近代
中国の近代化への本格的な思想的動きは、康有為の変法から始まったが、この「変法」運動は西太后の弾圧によって一時とん挫した。変法というと、今までとは別な進歩的な法令を出すことだと考えてしまう。だが、それは、李鴻章たちが進めた「洋務運動」とは根本的に違う。
「中体西用」という言葉がある。これは中国の朱子学を中心とする儒学こそが「普遍妥当性」をもつ思想であったが(中体)、技術は西洋に及ばなかった。だから、体は不変であるが、その用として(西用)受け入れるというものであった。これは、日本の「和魂洋才」に似た概念だといえるが、それとは根本的なところで異なるところがある。というのは、日本においては、地域的、限定的思想を「魂」として、いわば、論理の世界から棚上げし、西洋文明をそれなりに表面的に受け入れることが可能だった。だが、その日本を拡大しようと考えたときに、忽ち、大きな矛盾がおきた。「和魂」という地域限定的なものを他者に強要せざるを得なくなるという矛盾である。日本の「超国家主義」と呼ばれるものがそれである。
ところが、中国の場合、そうはいかない。もともと、儒学は普遍主義的なのである。普遍主義的なものであるからこそ、有史以来、儒学は日本にも受け入れられてきたのであるが、この中国的な普遍主義の上に、それとは異質の西欧の普遍主義を受け入れるわけにはいかない。卑近に言えば、朱子学的体系の上に、近代を接続は出来ない。だから、「中体西用」では、中国は近代化できない。近代化しようと思えば、「中体」そのものの、儒教そのもの(朱子学、考証学などの儒学)の解体ないしは革命が課題にならざるを得ない。
そのことを、まずは、光緒帝に認められた「変法」運動の中心を担った康有為の思想を検討してみよう。
在野のとき、まず、彼は「新学偽経考」を執筆した。「新学」とは前漢と後漢のあいだに存在した「新」王朝(王莽)の時代の学問である。この「新」学が後漢以降、儒学の正統派とされてきたが、儒教が、この「新」学によって、改竄されたとしたのだ。これが、儒教の解体ないし革命の第一歩であった。
彼によると、「新」の時代に劉歆が古文(隷書や楷書以前の古代文字)から解読したとい
う六経を、劉歆による偽作だとした。だから、この改竄された「教典」(六教)を基にした古文派、つまり、唐宋時代に正統とされていた儒学(朱子学など)は無効であり、逆に前漢時代に伝承されていた儒学(今文派)が、孔子の思想を伝えているとするわけだ。
第二歩はそこからはじまる。では、真の孔子の思想とは何だったかということが問題となる。そこで、康有為は、「孔子改制考」を記した。これによると、詩、書、礼、学、易の五経を孔子が「編纂」したというのは偽りで、この五経に歴史書である春秋経を加えた「六経」はすべて孔子の作品であると主張した。こうして、彼は、孔子をキリストに匹敵する、一種の神に仕立て上げようとする。これが、第二歩である。
彼の説によれば、夏、殷はもとよりこと、それ以前の時代の記録が残っているわけではないのだから、それら先史時代について書かれている諸王の事績は、孔子の創作であり、孔子の理想を過去に仮託したものだとした。つまり、そこには、孔子の未来への理想が隠されて書かれているから、そこをもとにして「体」をつくり、その上に西欧の思想を受け入れればよいというわけである。このようにして、「中体西用」の「体」を変質させることによって、「用」に応じようとしたわけである。 康有為がやろうとしたことは、いわば、西欧の歴史でいえばルネッサンスであり、儒教をキリスト教に匹敵する普遍的思想へと転化させようとしたことにある。
それでは、彼が、儒教から取り出した孔子の理想というのはなにかということになる。
キリスト教の場合でいえば、原罪という思想がある。例のアダムとイブの楽園の神話である。禁断の木の実を食べてしまい、楽園を人間が追放されたという話である。これが、近代的自我が成立するために重要な要素の一つだったということは、さまざまな人が指摘している所だ。しかし、そんなものを、康有為はでっちあげるわけにはいかない。そこで、彼が持ち出してきたのは、孔子が理想社会として描いたという「礼記礼運編」にある大同思想である。
もちろん、孔子も時代の制約は受けているわけだから、そのまま、康有為の理想にはならない。孔子の楽園を彼が発展させねばならない。こうした文脈で、彼は、『大同書』なるものを記す。ここで説かれているのは、私有財産も、権力も、男女差別も、国家差別も存在しない、あらゆる[界]が存在しない社会であり、自由な個人のみによって営まれる社会である。それを目指して人間は努力しなければならないというのが孔子の思想であった。こうして普遍的な中華思想を近代的に普遍化したのである。
わたくしが、ここで、知りもしない近代中国思想史に踏み込まざるを得ないのは、日本のアジア主義者の最良な部分である権藤成卿や北一輝が踏み込んだ中国の「インテリゲンチャ―=士大夫」の思想世界の近代化の第一波を一瞥しておきたかったからである。というのは、康有為に始まる第一波は、清朝の改革という改良主義的な政治路線であったが、それが、たちまちの間に、より過激な、清朝そのものの打倒という革命的な共和主義の路線を呼び覚まし、それらがすべて日本へと押し寄せてきたからだ。冒頭に記した留学生の大群だ。
この大群に対して、日本で対応したのは、日本のアジア主義者といわれる頭山満、内田良平、宮崎滔天らの玄洋社、黒龍会のメンバーであった。このグループの中には、これから私が問題としようとしている権藤成卿、北一輝と言った人物も含まれる。
だが、ここで、あらかじめ言っておきたいのは、この二人は、それぞれ別ではあるが、この黒龍会とは離れて独自な運動を開始する。いわば、分裂したわけだ。この分裂を遂げた二人が後には5・15事件、2・26事件の思想的指導者として、日本の「昭和維新」運動の原動力となるのは周知のことであろう。だが、この二人が、中国の革命思想家との討論をへて、日本の大陸侵略につながる黒龍会路線やその他の「国粋主義」の路線とは相違する「大アジア主義」を唱えたことはあまり明白にされていない。
2、権藤成卿における大同思想
さて、権藤成卿である。彼は、2・26事件の北一輝ほど有名ではないが、5・15事件の裏の思想的指導者として知られている。丸山真男が日本の超国家主義者として槍玉に挙げている三人(もう一人が大川周明)のうちの一人であるが、私は、大川は別として、この二人を「超国家主義者」としてではなく、「アジア主義者」の最良の部分として挙げたい。権藤は明治元年の生まれで、北より16歳年長である。黒龍会に参加し、内田良平の隠された参謀として「日韓合併運動」にも加わったが、その結果に失望した人物である。
この権藤が、権藤家に秘蔵されていた南渕請安の制度学を、「南渕書」として発表したのは大正11年のことであった。この南渕書について権藤は次のように言っている。
「南渕先生の学基は大同説である。此説は周礼に出ている。而も先生は是に一つの発明を加えたのであった。前脩(先学者のこと)は昔大同の世に於てはと説いて居ったが、先生は『万々世の後、大道世に行れむか天下を公となす』云うて、理想の当着点が天下を公となす。即ち大同の世である。又あらねばならぬと説いた。」(『自治民範』)
私が、ここに至るまでに、ながながと康有為の大同説について素人にもかかわらず説い
たのは、この権藤成卿が大同説の淵源を南淵請安に求めているこの発言を対比させようと
したからだ。「思わず、ホント?」と云わなければならなかった。
南淵請安とは、ご存知のように、小野妹子と共に隋にわたった学者であり、王通という儒者に学び、帰国後、中大兄皇子、藤原鎌足の師として「大化の改新」にかかわった人物である。だが、この時代に、孔子の「大同の世」『礼記礼運編』が、未来の理想社会とされていたとすれば、康有為の説が新説として中国社会を騒がせる以前に、すでに、それと同様な説が日本でもあったことになってしまうからである。
この「南渕書」の問題については後に触れるとして(末尾の註参照のこと)、ここでは、権藤と康有為の「大同説」の異同を問題としよう。
まず、第一に、言わなければならないのは、既に述べたように、辛亥革命の前に於いて、康有為やその弟子の梁啓超、また、それらと系譜が違うが孫文、章丙隣などの革命家が日本に長期にわたって滞在しており、権藤は彼らと密に接触していたということを考えねばならない。日本のアジア主義者と彼らは同根だったのである。それ故、権藤が家伝と称する「南渕書」を持ち出し、大同説を云々しだしたのは、そうした磁場と関係があったであろうということだ。しかし、だからといって、この二人を同一視するわけにはいかない。
だしかに、表面上では、理想の当着点、『万々世の後、大道世に行れむか天下を公と為す』が、康有為の影響を受けたものだとしても、康有為のそれと権藤のそれとでは、全く、思想の構えが異なっている。このことに「自治典範」を読むにつれて気づかざるを得なかった。
康有為の説は、普遍的な教えとして孔子を蘇らせる試みであるのに対して、権藤のそれはあくまでナショナルなものに立脚した歴史観であるからだ。普遍的であるが故にナショナルなものが欠落している中国とナショナルなものを基盤においた普遍なものを吸収しようとした日本との差を見る思いがした。
『自治民範』の冒頭に掲げられているのが神武建国である。神武という名が持ち出されると天孫降臨が持ち出され、天皇の現人神化につながっていくのは普通の「国粋主義者」だが、権藤は神武建国を革命として捉える。出雲氏が衰えナガスネヒコが暴虐の限りを尽くしたので天皇が東征して即位したのだから神武建国は「革命」なのだという。
「令即ち人心が革(あらたま)れば、命はその必然の帰結として革(あらたま)ることとなる。是が所謂革命である」
わたくしなりに解釈すれば、「時を経て人民の心に変化が生じてくれば、天命もその帰結として代わるものであり、これを革命という」、ということであろう。この主張は「日本の民族には、神代より絶対に革命がないなどと云うふて居る概念」とは思想の基礎が異なっているとのべる。記紀を基にしたナショナルな神話主義者を普遍的な儒教に立って堂々と批判したのである。さらに、彼は、神武天皇が即位したという辛酉元年を取り上げ、この辛酉という年は、儒学では天の命が改まって、革命がなされた年とされていることを挙げて、辛酉元年とは革命元年の意味なのだという。
それでは、中国思想において革命とはなにかということになるが、ここでは孟子を見てみよう。天命によって君主となった王は、天に代わって民を治めなければならないという「民本主義」に基づいている。この思想によると、民の衣食住を保障し、民を幸福へと導くのが王たるものの務めであり、それが出来ないものは王たり得ないとする。それ故、殷王朝を築いた湯王や周の武王は、それぞれ夏の桀王や殷の紂王を討伐して自分の王朝を築いたのだと孟子はいう。
「仁を賊(そこ)なう者これ賊と謂い、義を賊なう者これ残と謂う。残賊の人は、これ一夫という。一夫紂を誅するを聞けるも、未だ君を弑せるを聞かざり」。すなわち、仁や義の道を踏まない王はもはや王ではないから、これを討って、新たな王朝を樹てるのが正当だとするわけだ
この孟子のいう仁、義を、つまり王道がその基本とすることは、民の生活を守るということだが、権藤は是を「衣食住」に置き換え、社稷という概念に置き換える。社稷という言葉を聞くと、「財閥富を誇れども 社稷を念う心なし」という5・15事件の三上卓の作った昭和維新の歌の一節を思い浮かべる人もあるだろう。ところで、この社稷の社は土地の神、稷は五穀の神を意味するわけで、したがって、祭りとはこうしたそれぞれの村落のそれぞれに異なる神々を祭ることだった。
権藤はこうした社稷の神々を「八十万神」だとして、それらの神々を統一する神として天皇家の神を位置づける。したがって、天皇の政治も、また、こうした「民を休戚をなす」ということをモットーとして行われ、之が「無為にして治まる」という王道の世界、大同の世へ連なる道であると説く。
ところが、大陸との交通(戦争を含む)が盛んになり、文明が進むにしたがって、私財を蓄え、民を私有化する動きが生じてきた。物部氏、蘇我氏などの豪族の台頭である。ここに仏教をめぐる論争で蘇我氏の崇仏派が勝利するわけだが、豪族の大寺院建設などによる民への苛斂誅求、民の土地の兼併が一層激しくなった。社稷は危機に瀕してくるのだが、それを、救ったのが中大兄王子と藤原の鎌足らによる大化の改新であったというわけだ。権藤に従えば、このクーデターは、南淵請安が唐から持ち帰った「制度学」に基づく公地公民制であった。
豪族の私有化していた民と土地を返還させ、井字法に依って農地を均分して村の自治を村長(オビト)を中心に確立させ、その見守りに当たるのが国司、郡司であるという。「大化令は各邑里を自治せしむるが目的なれば、国司郡司の職分は之を観察して、貧富労逸を均衡匡済する」にあった。こう述べて上で、権藤は、こうした体制の方が、一切を、役人が取り仕切る[官治体制]と比べて、管理者の数が少なくて済み効率的だとも述べている。各村々の経営や管理が農民のてによって行われるからだ。
しかしながら、近江朝が天武によって滅ぼされる及んで、こうした「農民自治」は次第に、官治体制へと変わっていく。
「由来近江朝の遺謨は、直に力を以て打ち破ることは出来ぬ。そこで仏教を以て民心を柔化させ、、、自制自治に固まって居る郷邑を切り崩し、万事の処理を官司の命令に置く官治制度を開始する方略」が定められたという。そして、その延長に、大宝律令を位置づけて次のように言う。
「近江朝令の自治を主眼とせるものと、大宝令の官治を主眼とせるものとの差別を正す尤も肝要なる、律令史上の分轄点は、此の天武朝の十四年間に在るのである」(91)
わたくしは、ここで、権藤の「神武建国」が、儒教的視点から見ると、「建国」ではなく、革命であり、それを支えているのが社稷であることを見た上で、大化の改新というクーデターから大宝律令に至る過程は、社稷=「農民自治」から「官治体制」への転換であったと述べている権藤を見てきた。これ以後の日本史を彼がどう見ているかも興味深いかもしれないが、おおよその判断はつくであろうから、ここでは省略しよう。(彼のこうした歴史観に基づけば、日本の明治維新に至るまでの歴史は、農村自治に基づく社稷と統治者の抗争の歴史ということになる。その歴史の中で、比較的に高く評価されるのは、こうした「社稷の自治」を認めて上に成立している鎌倉-室町幕府の体制や戦国時代であったが、江戸期の封建体制は官治体制で、それをプロシャ的官治体制に変えたのが維新だったということになる)。
要するに、彼の制度学にしたがえば、すべては、自治の思想と官治の思想の抗争しとなるわけであるが、これを、先に述べた康有為との比較しつつ要約すれば、権藤は、大同思想(農民自治主義)を、日本というナショナルな一地域において一環として存在した理念として捉えているということである。だが、これに対して康有為は孔子の中に存在する理念ではあるが、未来において世界的に実現さるべきもと捉えていたということになるであろう。
極めて、大まかに言えば、権藤の立場は、一地域国家というナショナルな前提に立ちながら、それを、王道という儒教的な普遍主義なもので照射しているのであるが、それに対して、康有為にはそうしたナショナルなものが皆無なのだ。普遍主義的儒教そのものを、より、理念化したところで、国境はつくられない。国境がないところで、「境界」のない世界と言ったところで意味をなさない。
はじめから、中華世界というのは、中華を中心とするが国境を持たない、つまり、「民族」という概念を自己に対してはもたない文化社会だったのである。もちろん、周囲には夷敵は存在するが、それは「教化」されるべきものに過ぎなかったのだ。中国が近代に至って直面したのは、冊封体制の外に存在していた異文明のヨーロッパと近代国家に直面したからだ。
(「自治民範」において、山川を境にして「境」決めたことを強調したり、各村落の習慣を尊重して、「社稷」の自治範囲を定めたりしている日本古代が描き出され、その延長に南淵請安の大同説が接ぎ木される。それに対して康有為の大道思想は、孔子のそれは始めから普遍的なものとされ、そこから仏陀やキリストに対比されて、「孔子教」なる世界宗教を展望している)。
3、散砂と中華帝国の近代化
中国は民族を持たないと、私は書いたが、実は「三民主義」を唱えた孫文さえこの問題に悩まされていた。
「外国人はいつも中国人はばらばらの砂と申します。中国人の国家に対する観念は、もともとばらばらな砂であって、民族という団体がありません」(三民主義150)と述べ、家族や宗族や会党の団結を基に、そこから「国」族を作り上げなければならないという。それによって、中華そのものが列強によって瓜分されようとしていることから救われると考えている。
「イリ河流域コーカランド、黒竜江以北の地」「そのほか更に琉球、シャム、ボルネオ、スマトラ、ジャワ、セイロン、ネパール、ブータンなどの小国」は中国に朝貢にきていたが、それぞれ列強に支配され、「朝鮮は日本の植民地、安南はフランスの植民地」、ビルマはイギリスとられ、そのうえ、大連、威海衛、九龍なども列強によって占領されたと孫文は続けている。
ここでは二つにして一つの問題が提起されている。一つは中国人は「ばらばらな砂」(散沙)だということと、中華冊封体制の崩壊ということであるが、これを歴史的に考えれば、一つのことに起因するように思われる。つまり、私見に過ぎないが、この二つをうみだしたのは、東アジアの文明の中心である中華世界の発生にかかわる問題である。
中華世界は周囲に人口希薄な広大な土地と未開の文化をもつ様々な民族を徐々に文明化することによって成立してきた。孫文はこれを「自然の王道」と呼んでいるが、ここでは、その王道思想なるものの形成について考えて見よう。
まずは、孟子から引用を見てみよう。恵王と孟子の対論で、恵王が、「私が善政を布いているのに、なぜ、自分の国に人が集まって来ないのか」と孟子に聞いた場面である。孟子は次のように答えている。
「土木工事などで人民を徴集するのは農作業の邪魔にならないようにすれば収穫が増し、猟師には細い網で魚業を営むことを禁じて小魚を取らないようにすれば漁獲量が増え、木こりの伐採する季節を制限すれば伐採量も増え、国が豊かになります。このように人民の面倒を見れば、王様の国に人民が集まってきます」。
ここで、私の指摘したいのは、国家と民の関係である。民は「集まって」くるということだ。中国大陸のどこそこから流れてくるわけで、王はそれを善政でもって呼び込むという構図である。これが「民本主義」の中で、砂の如き(散沙)の民が出来上がってしまう中国の原型のように思う。もちろん、こうした古代の体制のままで中国は近代を迎えてしまったわけではない。秦漢に統一による中央集権制への方向、そして隋唐期における貴族政の解体と中央官僚体制の確立へと体制そのものは変化した。
しかし、そうした中で、その官僚制を支えた中心が儒教とそれに基づく科挙体制であったことが重要なのである。簡単にいえば、儒教に基づく科挙を受験し政治を支えた士大夫層が形成され、それらが官僚となったのだが、その官僚の職は世襲というわけではなかった。その子孫は、官僚となる為には、先祖と同様に科挙を受けねばならない。儒教イデオロギーの王道はこうしたメカニズムによって再生産されていったのだ。
科挙は、原則的には、こうした士大夫層のみか、全農商工民にも開かれていて、誰でも受験できる。だが、そのためには、学問しなければならず、その時間や費用に欠ける一般の民衆は挑戦することは望むべくもなかった。そうなると、その志望者は父親や親族が科挙を受けて官僚になったものの家系に限られてくる。「家族の誰かが官僚になれば、三代喰
える」言われているように、官僚たちは土地を購入し、地主になっていたからである。
こうして官僚層が士大夫層として蓄積されていったのだ。
私見によれば、帝王から士大夫に至るまでの支配者層は、彼らが搾取する「散沙の如き民」とは別な一つの“文化的な”「中華帝国」を形成していた。この「中華帝国」はその内部に惨めな民衆を抱えているが、その一方、外には、東夷 · 北狄 · 西戎 · 南蛮.と彼らが差別する「朝貢国」を持っていた。こうした同心円的な世界が中華世界というものなのだ。この文化的「中華帝国」の内部は儒教をはじめとする普遍的な文化で飾られていたわけで、それの原型として、孔孟的王道、「国家」のイデオロギーが存在する。
もちろん、この国家的イデオロギーのみが、支配し続けたというわけではないが、少なくとも、近代的革命をなそうとする士大夫達の中には、そうしたイデオロギーの片割れや断片なども残存しており、そこからの出発を試みたことは事実である。たとえば、明末清初の黄宗羲(孟子の民本主義を、君主のみならず臣に至るまでが守るべき道として説く)、王船山(彼の残した塾は多くの辛亥革命の携わったインテリが出入りていた)、王陽明(日本の明治維新の志士たちに強い影響を及ぼしたように中国においても影響を持った)などなどと、様々な思想家をあげることができる。しかし、そうした革命思想はあくまでも「中華帝国」内の革命、士大夫たちの革命なのであり、民衆を射程に入れた「中国」革命のイデオロギーではなかった。
だから、そうした思想は一般大衆の間に浸透はしてはいない。大衆にとって、官僚とは、税を取りに来る存在でしかなく、彼らは、自分で自分の生計を立てねばならない。ある意味では、中国の人民は自立性が強いのであるが、それは、なかなか、士大夫クラスの運動とは結びつかない。民衆にとっては、その土地で食えなければ、別の地方に流れるしかない。それが出来なければ反乱を起すしかない。だが、こうした自立性は、自ら政治に参与しようとする「民主主義型」ではない。自分は自分の家族や宗族を守って生きていればよいという志向である。
昭和15年の『思想』は特別号で「シナ特集」に和辻哲郎が一文を寄せている。彼は香港で外国船の荷物を運搬するジャンクを見た。そのジャンクには老婆や若い娘や子供たちが乗っていたが、その大家族を載せた船の舳先に旧式の大砲を備え付けてあった。その光景を見て、和辻は「海賊と砲戦することを予想しつつ」なのだろうと思ったという。生きることは、家族を含めて戦い、守ることなのだ。こうした強さは、今では、数千万といわれる華僑の強さとなって全世界に広がっているといえよう。
華僑といえば、孫文自身も兄の支援でハワイに渡り、そこで教育を受けた。しかし、その兄はといえば、彼は、単身、故郷を旅立ってハワイに向った「流民」の一人でもあったという。中国人の「家」はこうした絆によって成立している。また、孫文の革命運動を支持したのは、彼の兄とつながっているハワイの華僑たちや広東や香港など南中国沿海部の商人を中心とする労働者、農民たちであった。こうした人々は、家族や宗族、そして会党という盟約で結ばれていた。彼らはヨーロッパ近代のすばらしさを体験してはいたが、それと同時に、そうしたヨーロッパによって、差別され、虐待された屈辱を味わい続けてもきていた。
それだからこそ、彼は、海外にいる自分の目を以て中国を見つめ、この「ばらばらの砂」を何とかしないと中国人という種族が絶えてしまうと危機感をいだいたのだ。これに対して、先に挙げた権藤の「自治民範」は、日本というナショナルなものを前提にしたうえで、その中の「農村自治」という普遍主義に依拠して革命や改造を考える。それに対して、孫文をはじめとする辛亥革命の革命家たちは、民族そのものが欠けている、ないしは、その意識が民族を飛び越えてしまっているという普遍主義的伝統の中で、民族を作り出さねばならなかった。
だから、孫文が三民主義の中で次のように語っているのは、孫文自身の実感であることは、私には了解できるのだ。
「中国人がいちばん崇拝するのは、家族主義と宗族主義とである。」「先祖を尊び同族あい親しむ観念は、中国人の頭のなかに数千年以来、深く浸みこんでいます。国が滅んでもかまったことはない、だれが皇帝になったってよろしい、どっちみち同じように税金を納めるだけだ」(三民主義)
こうした散沙のような民は深刻な生活苦によって、太平天国や義和団などのような大規模な反乱や暴動を起こさざるを得なかったが、その自らの散沙性と近代革命思想の欠如のために民衆の運動が敗北をつづけていた。このような民衆をどうやって近代的市民に変革していけるのかということが、孫文をはじめとする、章炳燐、黄興、たち中国革命家の課題であるとともに、それは、日本のアジア主義者たちの課題でもあった。
それ故、玄洋社や黒龍会のメンバーは海を渡りアジア革命を夢見たのである。だが、この砂のような民衆を前にして、「日本が指導しなければどうにもならない」として、日本帝国主義の拡大の方向に舵をとったのが内田良平や頭山満であった。これに対して北一輝や権藤成卿は中国革命の援助をするという立場から相互の関係は対等であるとした。これが、古いアジア主義者と新しいアジア主義者である彼らとの決別であった。
(註)偽書問題について
ここで、ほぼ、『南渕書』に従って書いたというこの家伝の書を問題とせねばならない。この書の関しては「偽書」であるという説が一般的だからだ。だからといって、日本古代史に関するズブの素人である私には、それの真偽を問題にできるわけがない。ここでは、「偽書」であるという判断にたちつつ、「偽史の政治学」について述べている河野有理の説について紹介しつつ、私のこれに対する見解を付与することにする。
河野によれば、昭和8年に「東京日日新聞」が「偽書疑惑」を報じたことが発端で、雑誌「歴史公論」が、四月号に続いて、五月号では特集を組んだことで大きな論争になったという。批判の要点になったのは、以下の三点である。
第一は、南渕書の中の固有名詞や漢語に明らかに後世のものであると思われるものが散見された。
第二は跋文を載せているが、「跋」という形式は、その当時は存在しなかった。奥書を執筆した人物の官職の記載に誤りがあった。
第三に、同書に収められている広開土王碑の全文1759字とされているが、調査によって1802字であることが判明された。なお、この1759字という数字は、明治17年に参謀本部の酒匂景信中尉がもたらした拓本の字数と一致する。
こうした批判に対して、権藤は『南渕書』を「偽書としてみるといふならば之は偽書たる立証の必要がある」として立証責任を「偽書」という者たちに押し付けたのみか「家蔵の原本の公開を拒否した」という。こうした事情で、一般には「偽書」ということになって今日に至っている。権藤にシンパシーを抱いている名著の著者、後藤誠も「偽書説」をとっているようだ。
もちろん、既に述べたように、私にはこの真偽について、口をさしはさむ気もないし、資格もない。しかし、ここで問題としたいのは、5・15事件の後、事件の黒幕とされた権藤への左右からの攻撃である。河野のこの論文はその様相を次のように言う。
「マルクス主義にシンパシーを持つ左翼陣営だけではなく、日本主義者や国家社会主義者といった右翼陣営も権藤に否定的な態度を示したということだろう。向坂や山川は、「農村の危機」という時代認識を権藤と共有するとしつつも、権藤思想の「空想性」「非科学性」「非歴史性」を攻撃した。「農村の危機」は資本主義がもたらす歴史の必然であり、必要なのは太古の「自治」や「社稷」も復古ではなく、歴史のさらなる「進歩」(革命)である、というのである。これに対し、右翼陣営が攻撃したのは専ら権藤思想の非日本的性格(=支那性)であり、統制に反対する無政府性的傾向であった。」(156)
ここで、長文の引用をしたのは、「アジア主義者」が左右両翼の論壇主流に叩かれている状態を明示したかったまでだ。こうした脈絡は戦後も受け継がれている。丸山政男は「アジア主義」を農本主義―復古主義としてウルトラ「国家主義」として批判する。また、橋川文三も国家を飛び越えた近代の超克、「飛躍」としての「超国家主義」として批判する。(河野によると、ここでの超は丸山のようにスーパー(ウルトラ)ではなく、over すなわち、「飛躍」とし、カリスマ型指導者と結びつついたものということだ)。
右翼陣営からの批判は、かれらが批判しようとすれば、逆に、自らの天皇神格化思想を表面化させるだけになるから表向きにはされていないだけだ。だが、思想の内実としては、他のアジア諸国から日本を切り離し、特殊化しようとする傾向として存在している。嫌中,嫌韓や「日の丸、靖国」などとして生き残っている。
私から言えば、たしかに、権藤はオーバー「国家主義」者だが、オーバーの意味が橋川とは全く異なる。地理的な意味で国家を超えているのだ。つまり、儒教文化圏の一員としての日本というのが彼の立場なのだ。つまり、同時代の金玉均は「朝鮮革命などどうでもよいのである。問題は支那革命なのだ」と語ったことと同じなのだ。
ところで、彼が、わざわざ、偽書を書いたとすれば、権藤が対決しようとしたのは、日本をアジア文化圏から切り離し、記紀という「偽書」から「神話」を抜き出し、それを事実として強弁した「天皇主義者」への皮肉があったようにさえ思える。
次号予告
- 農業恐慌下の日本と権藤成卿
- 5・15事件
- 橘孝三郎・和合恒男の思想
- 章炳燐の主体性論
初出:雑誌『情況』2020秋号より著者の承諾の上転載しました。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion10202:201017〕