沖縄は5月15日、本土復帰50年を迎える。本来なら、全島あげて祝賀行事を行う記念すべき慶事だが、現地沖縄にはそんな雰囲気はない。なぜなら、復帰に際し沖縄県民が望んでいたことが、半世紀を経てもいまだに実現していないからだ。県民が望んでいたこと、それは在沖米軍基地の撤去である。
第2次世界大戦で敗北した日本は、1945年に米国など連合国の占領下に置かれた。その後、米国など西側諸国と結んだ対日平和条約により、1952年、日本は独立を回復した。しかし、沖縄は日本から切り離され、米国の施政権下に置かれた。沖縄戦終結とともに始まっていた異民族支配の長期化の始まりだった。
ところが、1960年に「沖縄県祖国復帰協議会」が結成される。政党、教職員組合、労働組合、農民協議会、婦人会、青年団、PTAなど約50団体が加盟する、いわば広範な県民が結集した全県的な組織だった。
復帰協が掲げた要求は「即時無条件全面返還」。つまり、沖縄県民は、日本への即時復帰を希求する。ただし、復帰に際しては、沖縄の米軍基地をすべてなくし、沖縄に貯蔵されている米軍の核兵器を撤去せよ、という主張だった。
「基地の中に沖縄がある」
沖縄県民がこうした要求を掲げるに至った背景には、県民にのしかかっていた米軍基地からの重圧があった。当時、沖縄県全土の14.8%が米軍基地で、米軍基地が集中する沖縄本島は、なんと27.2%が米軍基地であった(数字はいずれも沖縄県調べ)。これらの基地に駐留していた米軍は約5万。
私は沖縄の本土復帰前の1969年に初めて沖縄を訪れた。当時勤務していた全国紙の取材班の1員として派遣されたからだったが、那覇市から幹線道路の1号線をタクシーで北上した時に見た異様な光景は今でも鮮明に覚えている。
道路の両側に延々と続く金網で囲まれた広大な米軍基地。そこに兵舎や住宅が点在し、おびただしい車両が広場を埋めていた。中には、損傷した車両も。当時はベトナム戦争の真っ最中だったから、ベトナム戦線で破壊された車両であった。さらに道路を北上して至った嘉手納村には、アジア最大の米空軍基地があった。道路際に作られた目隠しの高い柵の向こうに、巨大な黒い三角錐のようなものが林立し、その不気味な光景に思わず息をのんだ。B52の尾翼であった。同機は当時“黒い殺し屋”と言われていた大型戦略爆撃機で、北ベトナムへ渡洋爆撃していた。
「沖縄の中に基地があるのではなく、基地の中に沖縄がある」というのが、初めて沖縄を訪れた時の印象であった。
基地をつくるために米軍に接収された広大な土地は、沖縄県民にとっては、いわば一等地だった。中には強制的に奪われた土地もあった。これでは、暮らしが成り立たない。その上、駐留米兵による犯罪が絶えず、人権侵害が頻発した。それだけに、「これ以上基地の重圧に耐えられない。日本に復帰しよう。その場合は即時無条件全面返還で」という声が県民から巻き起こったのも至極当然だった。
「全面返還」とは、基地の全面撤去を意味する。それには、県民の熱い期待が込められていた。それは「本土に復帰すれば、日本国憲法が沖縄にも適用される。日本国憲法の第9条は戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認をうたっているから、沖縄にある米軍基地は撤去されるだろう」という思いであった。
米軍基地の全面返還は成らず
沖縄での復帰運動の盛り上がりに、佐藤栄作内閣(当時)も「沖縄の祖国復帰なくして日本の戦後は終わらない」として、米国に沖縄の施政権を日本に返還させるための対米交渉を開始、1971年6月17日、日米両国政府間で沖縄返還協定が結ばれた。
その内容を一言でいえば、「核抜き・本土並み」返還であった。つまり、沖縄から核兵器を撤去した上で施政権を日本に戻すが、施政権返還後の沖縄には日米安保条約が適用される、というものだった。要するに、沖縄が本土に復帰しても米軍基地は残る、というわけである。復帰協が掲げ続けた悲願「即時無条件全面返還」とは遠い内容だった。
この日、私は那覇市にいた。沖縄の人たちがこの歴史的な日をどう迎えたかをこの目で確かめたかったからだ。沖縄一の繁華街である国際通りを歩いてみたが、人通りはまばらで、街には祝賀気分はなかった。むしろ、街の空気は重く沈んでいるように思われた。
この日、東京の首相官邸で、日米両国政府代表による返還協定調印式が行われた。沖縄の屋良朝苗・琉球政府主席も招かれたが、「県民の立場から見た場合、わたしは協定の内容には満足できない」として出席しなかった。当事者である沖縄住民の代表が不在の調印式は、沖縄の人たちにとって返還協定が受け入れがたいものであることを端的に示していた。
沖縄返還協定はこの年の秋、国会に提出された。復帰協は協定の批准に反対する県民大会を開き、米軍基地で働く労働者の組合は24時間ストを決行した。が、自民党は11月17日、衆院特別委で社会党、共産党の反対を押し切って返還協定を強行採決。
これに対し、労組の全国組織・総評(連合の前身)系の労働者200万人が抗議ストをおこなったが、自民党は同月24日、衆院本会議を議長職権で開会し、社会、共産両党欠席のまま返還協定を承認してしまった。11年に及ぶ復帰協の祖国復帰運動は、意外な結末で幕を閉じたわけである。
そして、1972年5月15日、沖縄は日本に復帰し、沖縄県となる。
沖縄県民の声に耳を傾けない本土
それから50年。沖縄における米軍基地はどうなったか。沖縄県発行の『沖縄から伝えたい。米軍基地の話。Q&A Book』(令和2年版)によると、県全土の約8%、沖縄本島の15%が米軍基地である。しかも、このBookによれば、「本土では米軍基地の整理・縮小が沖縄県よりも進んだ結果、現在では、国土面積の約0.6%しかない沖縄県に、全国の米軍基地の約70.6%が集中している」という。
そればかりでない。米軍基地の新設が進んでいる。沖縄本島中部の宜野湾市にある米軍普天間飛行場を本島北部の名護市辺野古沖の埋め立て地に移設する工事である。これには県民の72%が反対している。
米軍の辺野古基地建設用の土砂を運ぶための船が出入りする港の桟橋の近くで
「新基地反対」を叫ぶ人たち(2019年11月22日、沖縄県名護市で筆者撮影)
『Book』は訴える。「戦後71年を過ぎても沖縄県に米軍基地が存在し続け、状況が改善されない中で、今後100年、200年も使われるであろう辺野古新基地ができることは、沖縄県に対し、過重な基地負担や基地負担の格差を固定化するものであり、到底容認できるものではありません」「沖縄県としては、日米安全保障の負担のあり方について、改めて日本全国の皆様で考えて頂きたいと思っています」
沖縄の本土復帰以来、沖縄県民は、在沖米軍基地の整理・縮小、日米安保条約に伴う基地負担の軽減を訴え続けてきた。が、本土の政府と本土の人間の大半は、その訴えに耳を傾けることはなかった。「在沖米軍基地の一部を本土で引き受けよう」とか、「基地負担を同等に負担しよう」という声はついにあがらなかった。日本の安全保障を維持するために、同じ日本国民の沖縄県民が犠牲となってきたわけだが、本土の人間の多くはそのことに心を痛めることはなかったのだ。
日本国は「悪」である
沖縄の人たちには性格的にシャイな一面があるから、本土の人に正面切って不満をぶつけるようなことはしない。が、心の中では、本土の人への不信を募らせてきたのではないか。
最近、八重洋一郎詩集『血債の言葉は何度でも甦る』(コールサック社刊、2020年)を読んだ。八重氏は石垣市在住の詩人だが、この詩集に収められた詩の中にこんな表現があった。
「今や 日本国はその芯から腐りつつある/一人一人の倫理が甘い汁にひきよせられ 権力にへつらい たらたらととけていく/美しい全ての感性を麻酔にかけられあてもなく酔い痴れながら」
「日本国よ 汝がこれまで意識的無意識的に暗躍してきた全ての歴史問題に 真正面から答えねばならない さもなくば 汝の胸には永遠にグサリと刃が刺さるだろう」
「三千年の歴史の国/三千年の自己催眠の国/三千年の武力収奪・搾取の国/日本国よ それは『悪』である」
ここには、沖縄の人たちが心深く秘めた本土への思いの一端が表れているのでは、と私は思った。
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