「天皇の戦争責任はあると思います」と市議会で発言して右翼の青年に短銃で撃たれ、重傷を負ったことで知られる本島等(もとしま・ひとし)・元長崎市長が10月31日に亡くなった。92歳。その生涯をたどると、反核平和運動での巨星墜つ、との感慨を禁じ得ない。それほど、本島氏が戦後日本の反核平和運動に残した足跡は大きかった。12月13日、長崎市民会館で「故本島等さんを送る会」が開かれる。
本島氏は戦後、京都大学工学部土木工学科を卒業、長崎の私立高校教員、県教育委員会職員、自民党代議士の秘書、長崎市立高校教員などを務めた後、1959年に県議会議員に初当選し、連続5期務めた。この間、自民党長崎県連幹事長などを歴任。79年に長崎市長に当選し、95年まで4期16年務めた。
この間、昭和天皇逝去1カ月前の88年12月に「天皇の戦争責任は私はあると思います」と市議会で答弁。90年1月、市庁舎前で右翼の青年に銃撃され、胸部貫通の重傷を負った。
市長在任中の本島氏は、被爆地の市長として、積極的な平和行政を推進し、世界に向けて核兵器廃絶と反戦平和を訴え続けた。
毎年8月9日に長崎市が主催する平和祈念式典で市長が発する「平和宣言」は自ら起草した。それは「日本の皆さん、世界の皆さん、長崎の声を聞いてください」で始まる、「です・ます調」で、8月6日の広島市平和記念式典で広島市長が発する、「である調」の平和宣言よりも庶民的で親しみやすいとの声が強かった。さらに、宣言の内容も、広島市の平和宣言よりも一歩先んじていた感があった。私の記憶では、平和宣言に初めて外国人被爆者への謝罪と援護を盛り込んだのは長崎市だった。1990年のことである。
世界に向けての、本島氏の核兵器廃絶・反戦平和の訴えは、第2回国連軍縮特別総会(1982年、ニューヨーク)、第1回世界平和連帯都市市長会議長崎会議(1985年)、第3回国連軍縮特別総会(1988年、ニューヨーク)、第2回世界平和連帯都市市長会議長崎会議(1989年)、第6回国際非核自治体会議(1992年、横浜市)などの国際舞台で行われた。「人類を絶滅させる核兵器はなんとしても廃絶しなくてはならない」「核兵器は戦争を遂行するためにつくられるのだから、絶対に戦争を起こしてはならない」。その熱っぽい訴えは、参会者の心をゆさぶった。
市長を退任してからも、反核平和運動をやめなかった。こんどは一市民として運動に関わった。
私は、1967年から2007年まで、毎年(1974年~76年の3年間は除く)、8月9日の長崎市主催の平和祈念式典の取材に携わった。松山町の平和公園で行われる平和祈念式典が終了すると、私は必ず、その近くの爆心地公園へ移動した。そこで、毎年、市民団体による平和の集いが開かれるので、それを取材するためだった。いつからだったろうか、その集いでマイクを握ってスピーチをする本島・元長崎市長の姿を見るようになった。
「市長まで務めた人が、この炎天下、公園片隅で開かれる小さな平和集会にまで出かけて核兵器廃絶を訴え続けるとは」。年をとって背中が丸くなった本島氏を毎夏、爆心地公園で見るたびに、私は、核兵器廃絶に賭ける同氏の熱情に感動したものである。
長崎市の爆心地公園で開かれた市民団体の平和集会で演説する本島等・元長崎市長
(2006年8月9日正午過ぎ写す
昨年11月、知識人グループの「世界平和アピール七人委員会」が、爆心地公園に近い長崎原爆資料館ホールで「核抑止論と世界」をテーマに講演会とシンポジウムを開いた。会場で耳を傾ける聴衆の中に本島・元長崎市長の姿があった。その時、91歳のはずであった。
長いこと反核平和運動を追い続けてきた私の見聞では、言論の世界で平和を説く著名人は少なくないが、街頭に出て平和を説いたり、平和行進に加わるなど、行動を通じて平和を訴えた著名人は極めてまれだ。そうした意味で、本島氏は希有な存在であった。
それにしても、本島氏はなぜ、それほどまでに「反核平和」にこだわったのか。2012年に長崎新聞社から刊行された平野伸人編・監修の『本島等の思想』を読んで、その疑問が解けた。本書によると、本島氏は長崎に原爆が落とされたてから1カ月足らずの9月上旬に長崎の土を踏み、被爆の惨状を目にしている。本書の中で同氏が「あの極限の光景は今も私の眼底に焼きついています」と語っているのに接すると、この時の体験が、同氏のその後の生き方の原点となったことが分かる。
それに、同氏が長崎県の離島で隠れキリシタンの子孫として生まれたことも影響していたのではないか、と私は思う。隠れキリシタンの子孫は、社会から差別され、貧しい生活を強いられた。同氏も差別を受けたり、母が未婚であったこともあって生活は苦しく、小さいころから働かざるをえなかった。
一方、原爆が長崎市民にもたらした傷跡は深く、被爆者の中には、世間から差別されるのをおそれて被爆者であることを自ら明らかにしない人も少なくなかった。こうした状況に置かれていた被爆者への同情と共感が、同氏をして国家補償に基づく被爆者援護に駆り立てていたのではないか。
また、本書によると、同氏は旧制佐賀高校在学中に学徒出陣となり、西部軍管区教育隊で敗戦を迎えた。多くの学友が戦争で死んだ。こうした戦争経験も同氏を反戦に駆り立てていたようだ。
本島氏が日本の反核平和運動に大きな影響を与えたことも特筆しておかねばならないだろう。
本島氏は1989年ころから、原爆被害問題は「加害」と「被害」の両面からとらえなければならない、との趣旨の発言をするようになる。つまり「原爆による無差別殺戮は、人道的立場から考えて絶対に許されない国際法違反の行為である。しかしながら、日本人が反核・反戦を世界の人びとに訴えるためには、まずアジア諸国に対する侵略と加害の歴史をふり返り、厳しい反省の上に立って謝罪と償いをしなくてはならない。それをしない限り、私たちの訴えは受け入れられない」というのだ。
同氏によれば「世界のさまざまな舞台に出て、原爆被害がいかに悲惨であるか、核兵器廃絶が人類にとっていかに必要であるか再三訴えましたが、原爆被害や核兵器廃絶が世界の人びとに理解され、受け入れられることは、ついにありませんでした。それはなぜか。私はそのことを考え続け、やはり先のアジア太平洋戦争における日本の侵略・加害が、日本と世界の人びとの間に大きな溝を作り、その深い溝が日本国民と諸外国との和解の道を閉ざしているのだと思い至りました」(2012年に秋月平和賞を受賞したおりのあいさつから)というわけである。
「反核平和」を唱える日本人は少なくない。が、それを唱えるにあたって、まずアジア諸民族への侵略や植民地支配を反省し、謝罪と償いを、と主張する日本人は極めて少なかった。本島氏に先だって同様のことを日本人に呼びかけたのは、広島の被爆詩人、栗原貞子さんくらいだ。そうした意味で、本島氏の主張は極めて画期的だった。
現に、こうした主張は日本社会に大きな反響を呼び起こした。とりわけ、反核平和運動に衝撃を与えた。なぜなら、それまでの日本の反核平和運動は、どちらかというと「被害者意識一辺倒」の立場からの運動といった面が強かったからである。それだけに、一部の平和運動関係者からは「加害責任を問われるべきは戦争指導者であって、一般国民は戦争被害者。一般国民に戦争責任を求めるのはおかしい」という反発が出た。
1995年、広島の原爆ドームが世界遺産に登録されると、本島氏は『広島よ、おごるなかれ』との一文を発表した。同氏は、登録に米国と中国が不支持だったことを取り上げ、「広島は原爆ドームを、世界の核廃絶と恒久平和を願う、シンボルとして考え、中国、米国は日本の侵略に対する報復によって破壊された遺跡と考えたのである。どちらの考えが正しいかは、日本軍の空爆によって、多くの人びとがもだえ死んだ重慶の防空壕や真珠湾の海底に沈むアリゾナ記念館が世界遺産に登録されたときの日本の心情を思えば『原爆ドーム』を世界遺産に推薦することは、考えなければならなかったことと思う」と書いた。
これに対し、広島の被爆者団体は総会で「戦争の責任は国家の責任に帰するものであり、一地方都市、あるいは一般国民にまでその責任を求める貴方の考えはなんとしても納得できません。国家と大衆、日本政府と国民の関係を意図的に混同させ、広島を誹謗、中傷することに強い憤りを感じています」との抗議文を採択した。
しかし、今や、日本の反核平和運動では、原爆被害問題を考察する場合は、「加害」と「被害」の両面からアプローチすることがほぼ常識となっている。本島氏の主張はまさに先見的なものだったのである。氏は、原爆に関する世論形成の上で大きな役割を果たしたと言って良い。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion5045:141113〕